■学問としての儒学
大学という四書に連なる経書に対し、正直、混乱している。
当初、儒学を学ぼうと、二十年ぶりに岩波文庫版大学を通読した時、
目が覚めるような興奮を感じた。
明徳、親民ときて、至善にいたるためには、物を(善悪)を確かめる事から始まる、と、何とシンプルでわかりやすく、
又、物を(善悪)を確かめる、の善悪とは、人であれば誰もが持つ両親の気持ち、兄弟への行動、
これまた、シンプルでわかりやすい。
儒学の根本を、シンプルに理解出来る喜びに満ち溢れた。
■怪しい雲行き
しかし、ここからが、雲行きが怪しくなる。
より、理解を深めようと、新釈漢文体系、明治書院の大学を紐解いていくと、
大学の成立過程や、歴史上での揺れ動く捉え方、現代での認識等、
なにが、一なのか、自分の中で、大学という経書の本質を見失ないはじめた。
論語の下、四書の内の大学と中庸が、陰陽のように成り立つと、、、、陰陽、、、、☯?
儒学の本流ではないとされていたのではないのか?
四書の内の大学の成立に深く関わっているのか?
そこで、角川ソフィア文庫の荀子、さらに岩波文庫、明治書院の中庸を読み返すが、混乱はさらに拍車をかける。
まあ、結論付けを急ぐわけではない。
■儒学を学ぶ目的
人に評価されたいから、なにかをする、と言う愚かさに気づき、
自分自身を磨き上げる為に、儒学を学びはじめた。
しばらく、論語に戻ろうと思う。