本文)
人に三等あり。
下等の人は義に合はず、信ならず、果ならざるの徒にて、是れ妄人なり、
中等の人は信を必とし、果を必とし、未だ必ずしも義に合はざるの徒にて、是れ遊侠の類なり。
上等の人は即ち本文の所謂大人にて、信を必とせず、果を必とせず、ただ義の在る所に従ひて行ふの人なり。
若し汎くく人品を論ぜば、中等の人も亦得易きに非ず。
軽んずることなかれ。
然れども学をなすに至りては、上等を捨てて何をか学ばん。
講孟箚記 巻の三上 第十一章
意訳)
人には三つの段階がある。
下の段階は、
不義》人としての正しい道に合わない行いを平気でし、
不信》友情に薄く人をあざむき、なにごとにも誠がない。
そして、言動一致せず、口を出すだけでなにも行わない。
彼らは妄人である。
中の段階は、
信》友情に厚く人を欺かず、行いに誠があり口に出したことは必ず行う。
ただ、その行いに、
不義》人としての正しい道に合わない行いが、未だにある。
彼は遊侠の人である。
上の段階は、
信》友情に厚く人を欺かず、行いに誠があり、口に出したことは必ず行うも、必ずしもこれらに縛られることはない。
そして、自らの行いに、
義》人としての正しい道を歩んでいるかどうかを常に重くみて、義に合うようにものごとを行う。
彼は孟子のいわれた大人である。
もし、世の中の人を等級で論ずるとするなら、
ほとんどの人が下の段階にあり、
中の階段の人など、世の中そうはいない。
故に、遊侠の人とはいえ、決して軽んじてはいけない。
省みれば、学問の道を歩む私たちは、当然ながら上の階段である、大人を目指して日々学問に努めなければならない。
でなければ、なんのための学問の道であろうか。
所感)
■私心なき純粋な思い
「世の中のほとんどの人を妄人とする」
松陰先生の言葉は、当時の情勢を反映した率直な思いではないか。
この講孟箚記は獄中にて前半が書かれた。
この章も、もちろん獄中で書かれている。
この思いが獄を出た後に松下村塾への教育につながり、
幕末を生き延びた伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、松本鼎、岡部富太郎、正木退蔵、等、
幕末より明治期の日本を主導した人材を育てた。
吉田松陰先生を過激とみる人がいるが、日本を救おうと行動された、私心なき純粋な思いは、今日、より評価されるべきではないか。
今日、一日の読書を学問として、努め励みたい。