四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 儒教・儒学へ

周易上経 乾五

書き下し文)

初九に曰く、潜竜用するなかれとは、何の謂いぞや。

子曰く、竜徳ありて隠れたる者なり。

世に易えず、名を成さず、世をのがれて悶うることなく、是とせられずして悶うることなし。

楽しめばこれを行ない、憂うればこれを違る。

確乎としてそれ抜くべからざるは、潜竜なり。

 

九二に曰く、見竜田に在り、大人を見るに利ろしとは、何の謂いぞや。

子日く、竜徳ありて正中なる者なり。

庸言これ信にし、庸行これ謹み、邪を閑ぎてその誠を存し、世に善くして伐らず、徳博くして化す。

易に曰く、見竜田に在り、大人を見るに利ろしとは、君徳あるなり。

 

九三に曰く、君子終日乾乾し、夕べに傷若たり、属うけれどち咎なしとは、何の謂いぞや。

子曰く、君子は徳に進み業を修む。

忠信は徳に進む所以なり。

辞を修めその誠を立つるは、業に居る所以なり。至るを知りてこれに至る、ともに幾(を言う)べきなり。

終るを知りてこれを終る、ともに義を存すべきなり。

この故に上位に居りて驕らず、下位に在りて憂えず。

故に乾乾す。その時に因りて煽る。危うしといえども咎なきなり。

 

九四に曰く、あるいは躍りて淵に在り、咎なしとは、何の謂いぞや。

子曰く、上下すること常なきも、邪をなすにはあらざるなり。

進退すること恒なきも、群を離るるにはあらざるなり。

君子徳に進み業を修むるは、時に及ばんことを欲するなり。故に咎なきなり。

 

九五に日く、飛竜天に在り、大人を見るに利ろしとは、何の謂いぞや。

子曰く、同声相い応じ、同気い求む。

水は湿えるに流れ、火は燥けるに就く。雲は竜に従い、風は虎に従う。聖人作りて万物観る。

天に本づく者は上に親しみ、地に本づく者は下に親しむ。

すなわち各おのその類に従うなり。

 

上九に曰く、九竜悔ありとは、何の謂いぞや。

子日く、貴くして位なく、高くして民なく、賢

人下位に在るも輔くるなし。

ここをもって動きて悔あるなり。

 

意訳)

【 初九/乾為天 初爻 】

孔子ははいわれた、

「潜竜用するなかれ」とは、竜のごとき聖人の徳を備えながらも、世の中からその身を隠している人のことをいう。

時世におもねることもなく、名声を得ようとすることもない。

世間から隠れてもなんら憂いを抱かず、人に善しとされなくて不満を持たない。

君子により道が行われている世には、楽しんで道を行い、

君子無き道無き世には、これを憂い、世から身をひく。

このように、自らを確立し、どのようなことにも心を揺さぶられることのない人を潜竜という。

 

【 九二/乾為天 二爻 】

孔子はいわれた、

「見竜田に在り、大人を見るに利ろし」とは、道のごとき聖人の徳を持ち、中庸を得た人のことをいう。

常日頃の言葉を信にし、行いは謹み、自らの邪な心を防ぎ止めて、常に心を誠とする。

世の中の為に善いことを行っても、功を誇るようなことはない。

その徳はとても広く、多くの人を善に導く。

易経で「見竜田に在り、大人を見るに利ろし」とあるのは、世には出てはいなが、実は国を治めるにふさわしい君子の徳を備えている人のことをいう。

 

【 九三乾為天 三爻 】

孟子はいわれた、

「君子終日乾乾し、夕に楊若たり、廣うけれどる咎なし」とは、君子は自らの徳を修めることを常に心がけることをいう。

心を尽くして偽りなきように物ごとに取り組むことが徳を修める方法である。

発する言葉に注意して常に誠であることが徳を修め続けるための方法である。

自らが活躍すべき時には進んで事に当る。

故に危い兆しも見逃すこともない。

活躍すべき時が終ったとならば、潔く身を退く。

故に道から逸れ、義から外れることもない。

これら故に君子は位高くとも驕らず、位低くとも心は憂えることがない。

こうして乾乾としてつとめはげみ、その時時に応じておそれ慎めば、たとえ危うい位にあっても咎を被ることはない。

 

【 九四/乾為天 四爻 】

孔子はいわれた、

「あるいは躍りて淵に在り、咎なし」とは、周りから見て意味もなく昇り降り、行いが普通ではないように思われても、それは邪なことを行うためではないことをいう。

ある時は進み、また退く。

行いが定まらぬように見えても、自分勝手な行いでは決してない。

君子が自らの徳を修めるための行いとは、本来必要とされる時までに、自らの徳を修めることを間に合わせるためである。

故に、周りからその時の行いが理解されないとしても、なんら咎はない。

 

【 九五/乾為天 五爻 】

孔子はいわれた、

「飛竜天に在り、大人を見るに利ろし」とは、自らの声と気を同じくすることをいう。

君子の声と気は互いに応じ、求めあうもの。

たとえば水は湿った方に流れ、火は乾いた物から燃え、雲は竜を抑えることはなく、風は虎の周りに常にある。

同様に聖人が世に現われれば、全ての人がこれを仰ぎ見る。

自らの気を天にうけたものは、天の行いに親しみ共に行う。

自らの気を地にうけたものは、大地の行いに親しみ共に立つ。

あらゆるものは、それぞれの属する類に従う。

 

【 上九/乾為天 上爻 】

孔子はいわれた、

「九竜悔あり」とは、周りから貴いように見えるが天子としての位は既にその身にはないことをいう。

身分が高いように見えるも、治める民も国も既にない。

賢い人でありながらも低い位に在り、補佐してくれる人も周りにいない。

故に、なにかを為そうとするも、ことごとくうまく行かず、悔しい思いを懐く。

 

所感)

易経とは

易経とは、古代より読書人の底なし沼とされ、のめり込むと、もはや這い出すことかなわず、とさえいわれたらしい。

だが、その魅力を理解する為には、それなりの学問の積み重ね、素地がいる。

浅学非才の我が身ながら、Twitterで同学の諸先輩方が述べられたことが、ぼんやりと理解出来つつある。

まず、儒学、四書の知識は当然周知していないと、読んでも面白いとは思えまい。

また、歴史、中国古代史は当然のこと、理解を深めるのであれば宋時代の歴史を下地とした朱子学陽明学も知っておいた方が、より楽しめる。

逆に、儒学や歴史に興味がない人が初めて易経を読んで、凄く面白いとか、全て理解した、あるいは簡略本、まとめ本で充分だという人は、おそらく、もの凄く優秀か、天才なのだろう。

浅学非才の我が身としては、ただ頭を垂れて教えを請うのみ。

 

今日、一日の読書を学問として、努め励みたい。

#儒学 #易経