月曜日の朝、7月4日、通勤
「雨、蒸し暑い、長靴を履いてきた、マスクが辛い週になりそうだ」
「暑くてアトピー肌が負けているのでウオーキングは中止、座禅していた」
「結跏趺坐は止めて半跏で、無理はしない、理趣経そろそろ来るはずだ」
月曜日の朝、電車内
「なんとなく、今、間がずれた、いつもと少し流れが異なる」
「座禅と念仏の違いが、わかるようでわからない」
「土曜日にスシローで帽子を失くした、日曜日にダイエーで新しく買う」
月曜日の朝、乗り換え
「私の頭は64cm以上あり、お気に入りの帽子を見つけるのが至難の業だ」
「年相応のバケット帽が好きだが、未だに合うサイズの帽子と出会えない」
「梅田で帽子専門店に行くも、店員さんから無理だと宣告された、『帽子難民』というらしい」
月曜日の朝、電車待ち
「紫外線アレルギーなので帽子は必須だ、仕方ないので安価な野球帽を選ぶ」
「少し、Twitterの(暗黙の)マナーが面倒くさくなってきた」
「私は、恥を恥とも思わない鼻持ちならない嫌な奴なのでしばらく地に戻ろうと思う、申し訳ない」
月曜日の夕方、通勤
「今日を省みる、不仁の行いはあったかも知れない」
「しかし、少なくともその判断が中庸に近いと信じる」
「ものごとは白黒つけることが正しいとは限らない、ケースバイケースもある」
月曜日の夕方、電車内
「今日一日に不義の行いはなかったか、ない」
「何を以ての義か、天とは畏れ多い、ただ自らの信条に反しては、ない」
「自らの仁、義の小ささよ、学問が足らない、世に対する思いが欠けている」
月曜日の夕方、電車内
「礼に反する行いはなかったか、少なくとも隣人を尊ぶことは出来た」
「為すべきことを為したのか、給料分+αは十分働いた、あとは家で良き父と論語を素読すること」
「明日も、仁、義、礼を行おう、どんな小さな省みでも、自らの仁を広げることに繋がると信じる」
火曜日の朝、通勤
「論語にこうある『君子に九思あり。見るは明(聡明)を思い、聴くは聰を思い、色(顔色)は温を思い、貌は恭を思い、言は忠を思い、事は敬を思い、疑わしきは問うを思い、忿り(怒り)には難を思い、得るを見ては義を思う。』季氏第十六 10」
火曜日の朝、乗り換え
「論語の九思が興味深い、九思とは仁であり実は礼を述べている」
「そして三つに区切られる、視聴温、貌言事、疑忿得、つまり外・内・心」
「何れも繋がっており、一思を為せば良いとは誤りだ、九思で一つを述べているのではないか」
火曜日の朝、電車内
「礼とは何か、人を尊ぶこと、根源であり、為すべきことを為すこと」
「論語は深い、軽く読めば軽く、重く読めば重く、心を直くする鏡となる」
「古義学の伊藤仁斎先生は「最上至極宇宙第一の書」として尊ばれた」
火曜日の朝、出発待ち
「相も変わらず体調悪し、アトピーが全てを引っ張っている」
「アトピー、高血圧、不眠、諸々とまあ不調盛り沢山の身体かな」
「身体が壊れているのか、元々こうなのか、いや、年齢相応と思いたい」
火曜日の夕方、通勤
「論語、季氏篇の九思を考えている、朝、意味の連なりから九思は一つと感じた」
「九思の結論とは各々、明聡温恭忠敬問難義とくる、何れも日常の生活に関わる」
「これは、このままかも知れない、或いは、一つでも礼ではなくて中庸を述べたのかも知れない、再考だ」
火曜日の夕方、乗り換え
「私は学者先生ではない、自らの仁を広げる為に学問をしているサラリーマンだ」
「論語の言葉を言葉として素直に学ぶ、実行する、転んでもまた起きれば良い」
「学び、考える(正誤もある)、また学ぶ、独学とは挫けないこと、続けること、今夜も素読しよう」
火曜日の夜、
「このフーガの技法のCDには情景の記憶がある」
「父方の親族の葬儀に出席する為に、父の故郷へ、一人電車で赴く中、聴き続けた」
「私がまだ青年の頃で、未来に不安を感じていて、家族皆元気で、Nとよく酒を呑んでいた頃の記憶だ」
#自由律
バッハ:フーガの技法 https://t.co/vzfup0ZHyp
火曜日の夜、
「他愛も無い質問がある、もし過去に戻れたら、いつがいいのか」
「私は一択だ、常に今だ、これ以外あり得ない、ここが全てだ」
「金持ちでもない、成功もしてない、孤独で失敗だらけの人生だ、しかし、自分なりの積み重ねを実は気に入っている、自分らしく生きてきたからだ」
水曜日の朝、通勤
「『子、四つを以て教う。文、行、忠、信』論語 述而第七 24」
「孔子は四つを以て教えられた、経典を学ぶこと、仁を実践すること、自らを誠にすること、人との信義を尽くすこと」
「自らの仁を実践すること、今日はここに集中しよう」
水曜日の朝、乗り換え
「不善に興味深い、善を知らなければ不善の行いはそもそも出来ない」
「論語とは、シン性善なのだ、人とは善であるとする前提に孔子の温かさを感じる」
「孟子も荀子も同じことを述べている、性善説・性悪説も突き詰めればシン性善のことだ」
水曜日の朝、電車内
「儒学を学び、ある日気付く、私は既に孔子の土俵で生きている、と」
「少し後悔も生じる、学び始めたのが齢五十、もう少し若ければ」
「論語を、読むと学ぶとでは根本的に違う、学ぶ姿勢、学ぼうとする心が起点となる」
水曜日の朝、一休み
「私は省みることが苦手だ、歴史では文化大革命や、ブラック時代に受けた洗脳研修を思い出す」
「大勢に怒鳴られて自己を否定し、強制的に自らを省みるなど人権侵害以外何ものでもない」
「故に、私は人が省みるのを、Tweetで読んだり、横に居るのですら苦痛に感じる」
水曜日の朝、二休み
「論語、学而篇に有名な曾子の三省がある、私は省みるとは自己否定ではないと気付く」
「自己肯定、自らの善、自らの仁を広げることが、省みることに違いない」
「故に、自己否定を強制させる研修、指導等に対して、激しい怒りを剥き出しにして、声を荒げて戦うのだ」
水曜日の朝、三休み
「読まず嫌いであろうが、あまり好感を持てない渋沢栄一が座右の銘とした言葉も論語の三省だ」
「論語の三省をする者が、巨万の富を築き上げ、妾を数しれず囲い、皇帝のような贅沢な生活をするだろうか」
「曾子もびっくりするに違いない、省みるとは、やはり難しい」
水曜日の午後、四休み
「私は人を否定する人を嫌う、残念ながら世の中そんな人が多い」
「儒学とは、人を肯定する学問だ、孟子の性善説しかり、万人平等しかり」
「自らを肯定し、徳を広げ、善いことを行う、周りに広げる、綺麗ごとではなく実践する、ここが難しい」
水曜日の午後、五休み
「もっとも、他人を全肯定するお人好しになれ、では決してない」
「孟子には易姓革命という、知らない人には物騒だと思える考えがある」
「仁をそこない、義を破るような輩(主君)は、放伐(討伐)して良しとするのだ、儒学とは、なんと至れり尽くせりなことか」
水曜日の夕方、通勤
「いけない、儒学の雄、勇ましき孟子に偏り過ぎた、自らの考えに中庸が欠けた」
「故に、論語を学ぶことが大切なのだ、毎日コツコツと素読して、自分はどう思うか、考える」
「『最上至極宇宙第一の書』と称される「論語」にこそ、儒学の真髄が述べられている」
水曜日の夕方、乗り換え
「今日は現場に出る時間が多かった、アトピーの落屑が舞う(都度払う)」
「今週あと二日、事務所でデスクワークとする、陽の光を浴びると肌が駄目だ」
「架空の人物である鬼舞辻󠄀無惨氏に共感を覚えるのは何故だろう、病気と強さが関係しているのは否めない」
水曜日の夜、自宅
「『仁遠からんや。我、仁を欲すれば、斯に仁至る。』述而第七 29」
「人の心とは融通無碍、仁でありたいと心から思えは、即ち仁を得ている」
「論語を開き、思い考える、心が豊かになる、心が自立する、そして心そのものに思いを寄せる、心とは自らの積み重ねだ」
水曜日の夜、自宅
「朝が早いので間もなく就寝する、仏教にとても深く、博識のフォロワーさんから教えていただいた理趣経を読む」
「仏教の密教経典は初めて読む、第一章に「思想と実践が一体となる」とある、興味深い、真理とは一つなのかも知れない」
木曜日の朝、通勤
「五十からの学問だ、現実的に考えればもはや仁者にはなれまい」
「出来ることは自らの仁を他人に及ぼすこと、つまり、自らが善いと思うことを他人に行うこと」
「この小さな仁を貫こうと思う(もちろん、今まで通り無愛想、ぶっきらぼうに)」
木曜日の朝、乗り換え
「黒い服を着たトカゲのような人♂が前を歩いている、身なりはいい」
「エスカレーターに、全身パープルの服を纏った、古えの皇帝のような人♀が立っていた」
「大きなリュックを背負い、働きアリを連想させる人♂がトイレで並んでいる」
木曜日の朝、電車内
「駅のポスター、沿線最大級という言葉になんとなく面白味を覚える」
「○○が最大+級だ、今日、職場で使ってみよう」
「この結果が貴方の最大級なのですか?、、止めた、嫌味に聞こえる」
木曜日の夕方、通勤
「夏空の下、エアコンが効くオフィスで終日デスクワークとは快適だ」
「現場上がりの人間なので、つい出てしまうが別に出なくても何とかなる」
「とはいえ、ずっとパソコンに向かって座るのも苦痛極まりない(我儘いうな)」
木曜日の夕方、電車内
「妻と子より電話あり、七夕なので外食したい(晩飯はつくりたくない)」
「うーん、七夕って外食する決まりでもあったっけ、と論破する」
「が、仕方ない、駅中にある551の蓬莱で豚まん等々を買う、さあ帰ろう」
金曜日の朝、通勤
「東洋のドン・キホーテとは良いあだ名ではないか(私は気に入っている)」
「二千五百年前の人の言動に感銘し、その教え(忠恕)を学び、日常で実践する」
「信条に基づけば風車は巨人となり、この正義漢は突撃するのだ(私もそうしよう)」
金曜日の朝、乗り換え
「血圧が下がらない、私はマヨラーだしソースは味のソウルだしケチャップは飲み物(?)だ」
「自業自得の四文字が脳裏に浮かぶ、GAME OVERでないだけまだましか」
「新たな縛りが求められている、少量かスパッと無くすか、増やすのは簡単だが減らすのは至難の業だ」
金曜日の朝、一休み
「夏バテか、クラクラする、一休みしよう、結果を出せば過程はいい」
「前職が大変らしい、若い人が辞め続けて止まらない、古株はパワハラ若社長が追い出した」
「居残るは縁故と年若き妖精さんばかり、会社ごとファンタジーの世界に旅立つらしい(さようなら)」
金曜日の夕方、通勤
「国の選挙(参院選)二日前に元首相を狙いテロとは、愚劣極まりなし」
「何をしたのか、わかっているのだろうか、戦後から続くこの国の民主主義に対して銃を放ったのだ」
「人が人を殺めてはいけない、このようなことは間違っている、絶対に」
金曜日の夜、自宅
「ブラームス/ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 イ短調 作品102」
「指揮者、楽団、年代により玉石混交ながらも人類史上、紛うことなき神曲の一つ」
「クラッシック音楽は嫌いでもいい、だがこの曲は聴いてみる価値はあると心から思う」
#自由律
金曜日の夜、自宅
「マーラーの交響曲6番、7番、私はショルティ指揮シカゴ交響楽団が最高だと思っている」
「異論は認める、何故ならマーラーの交響曲を振れる指揮者、演奏出来る楽団とは限られる、故に一様にレベルが高い演奏が多い」
#自由律
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」 https://t.co/eEx9sUGEW8
金曜日の夜、自宅
「マーラー5番は高1の時、SONYレーベルのマゼールで聴く」
「後に指揮者をかえてバーンスタイン、ヤルヴィ、インバル、等々と聴く」
「マーラーの交響曲とはとても深い、沼だ、我を忘れてマーラーの世界に没入してしまうのだ」
#自由律
マーラー:交響曲第5番 https://t.co/DyL9f8njrQ
金曜日の夜、自宅
「不思議だ、サー・ゲオルグ・ショルティの十八番であるワグナーよりは、私はローリン・マゼール指揮のワグナーの方が音が艶やかで断然好みだ」
「一方、ショルティがマゼール十八番のマーラーをシカゴ交響楽団で振ると、マゼール/ウイーンフィルより明らかに響きが素晴らしく、私の好きな現代的な解釈の音楽を奏でる」
日曜日の朝、散髪
「やはりアトピー肌が悲鳴をあげた、土日はダウン」
「今年は暑さに順応が遅い、参っている、齢のせいにしておこう」
「若くて健康とは、当たり前ではなく、やがて失われるものと実感する(地力が消えて病が現れた)」
日曜日の朝、散髪待ち
「昼から選挙、今日は動こう、腹減った」
「妻が子を塾体験に連れていこうとし、子が朝からグズっている」
「髪が上がってきている、落武者やスダレよりは潔く坊主をチョイス」
所感)
■悪循環
平日は、暑さに耐えながら徐々に肌が壊れていき、週末に、じっとして回復するの繰り返し。
ウオーキングも出来ず、血圧も上がり、体重も太るばかり。
少し、流れを変えたい。