月曜日の朝、7月1日、通勤
「過ちて改めざる、是を過ちという。衛霊公第十五」
「間違えは良い、間違えを認めない(改めない)のが間違いだ」
「開き直るのは良くない、頭を下げれない自分とは、人として深く反省すべきだ」
月曜日の朝、乗り換え
「孔孟の教えに否定的な人がいるらしい、もちろん考えは自由だ」
「私は日本人の根本には「忠恕」があると信じている」
「日本人、日本史とは素晴らしい結晶だ、過ちは過ちとを認め、仁と礼と義に立ち返る、儒学は実践してこそ」
#忠恕/心を誠にし、人を思いやること
月曜日の夕方、通勤
「死生命有り、富貴天に在り。顔淵第十二」
「つまるところ、君に悪いところは無い、生き死にや富や名声、全て天の命だ」
「天命とは命懸けであるし、命を受ける(民を救う)とはまず自らの徳を広げる必要がある(私利私欲を満たす為に冨や名声を求めるとは違う)」
月曜日の夕方、乗り換え
「力あるものが富む、群雄割拠、戦国乱世に道徳で世を救うと説いた」
「天、天命を考える場合、善神の人格を期待するのか、汎神論と捉えるか」
「あくまで人だ、我々儒家とは、人の中で忠恕の心で自らの徳を広げ、この世の中で仁を実践し広げるのだ」
火曜日の朝、通勤
「君子の天下に於けるや、適も無く、莫も無し。里仁第四」
「人を治めるとは、足し算引き算通りには行かず、正誤ですら危うい」
「中庸をもって良しとし、つまらない小利に左右されない、常に人びとの根本であること」
火曜日の朝、乗り換え
「エクセルの様な人は、有能であっても人の上には立たない方が良い」
「半紙に、安全とかを大真面目に筆で書く人は、人の上に立てる」
「人の上に立つとは、人間であること、人間の感情がきちんとある人、これ以外は思いつかない」
火曜日の夕方、通勤
「惟だ仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む。里仁第四」
「思いを誠にし、多くの民を思いやる君子故に、善き人を好み、驕り高ぶる人を憎むのだ」
「能くとは、天と同じくして、道を歩むが故にであり、私利私欲に溺れた者の好悪とは違う」
火曜日の夕方、乗り換え
「私たち、我々という言葉を使う人たちには注意すべきだ」
「彼ら彼女らの私利私欲の好悪に、何故私が関わらねばならぬのか」
「善きことであれば正々堂々と、私は、我はという、仁とは一つであり大勢の総意など必要とはしない」
火曜日の夜、自宅
「儒学を学び二年目の夏を迎え、公田連太郎先生の呻吟語、来たれり」
「序説に、自己の修養の為に書かれた書とある」
「陽明学者の大塩平八郎が愛読していた書とのこと、読み始めるとする」
水曜日の朝、通勤
「子川上に在りて曰く、逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎かず。子罕第九」
「孔子は川を眺めていう、天地、常に道は行われている、この川の様に(新注)」
「集注と新注で解釈が異なる、集注では、川の流れの様に皆消え去る(無常感)と解釈された」
水曜日の朝、乗り換え
「ものごとが主観なら、私は悲観よりは楽観を選びたい」
「そして、楽観よりはお笑いを狙いたい、ユーモア、可笑しみとは人を癒し和ませる」
「最悪の事態の中にいても、些細なことを見つけて笑うのだ、心から」
水曜日の夕方、通勤
「子曰わく、君子は器ならず。為政第二」
「善いことは何でもする、君子とは先頭に立ち、最後を守り、留まることはない」
「故に、何もせずとも良い、自らの徳を以て民を治め、優れた人を用い、民の苦しみ楽しみを我がこととする」
水曜日の夕方、通勤
「儒学界のスーパースター、大舜を思う時、私は心が明るくなる」
「孟子を意訳する時、大舜が登場すると心がワクワクした」
「芯から陽キャであり、側にいる、いや、思うだけで幸せな気持ちになる」
木曜日の朝、通勤
「三年学びて穀に至らざるは、得やすからざるのみ。泰伯第八」
「学問の道を三年学んでも、尚学ぼうとする、得難い人材ではないか」
「まず三年学ぶ、そこから学問の道は始まる、自らを修めるとは並大抵のことでは出来ない」
木曜日の朝、乗り換え
「学ぶことこそ論語の総論であり、学而第一に全てがある」
「三年を学ぶ、学ぶことを学び、そして一生を学ぶ」
「自らを修めるとは、常に学ぶことであり、道に終わりなく、驕り高ぶるなかれ」
木曜日の夕方、通勤
「君子固より窮す、小人窮すれば斯こに濫る。衛霊公第十五」
「追い詰められれば、苦しさのあまり
小人は自暴自棄に陥る」
「君子とは、天に命を預けているが故に、慌てない、揺るがない、乱れない」
木曜日の夜、自宅
「論語が面白い、各々の言葉が、虹色と化して宙に浮かび、幾行も重なりつつ時系列で空間に浮かぶ」
「例えば、泰伯第八「昔者吾が友、嘗てここに従事せり」、曾子が亡き友(顔回)を称えた言葉」
金曜日の朝、通勤
「君子、勇有りて義なければ乱を為す。陽貨第十七」
「義なく勇のみであれば、君子なら争乱を招き、小人なら強盗になる」
「共に、救うべき民を苦しめ暴君・暗君を利するのみか」
金曜日の朝、乗り換え
「力なき義か、義なき蛮勇か、共に中庸を欠く」
「筋肉は正義だ!、とはあながち間違ってはいない」
「孔孟の教えを学び、武術にて心身を磨く、古代より日本人が行ってきたことに外ならない」
金曜日の夕方、通勤
「夫子焉にか学ばざらん、而して亦何の常師かこれ有らん。子張第十九」
「今の世にも残る、文王・武王から伝わる礼や楽を、土地の古老から孔子は学ばれた」
「孔子を直接教えた師はおらず、古の聖王、尭、舜を理想として忠恕の大切さを説かれた」
金曜日の夜、自宅
「公田連太郎先生の明徳出版版『易経講話』、先行出版物の『周易講話』1〜20を購入する」
公田会による会員制自費出版物とのこと」
「趣意書が入っている、国会図書館に確認すると全28冊らしく、21から28まで集める楽しみも増えた」
金曜日の夜、自宅
「これは、この本は、紛れもなくお宝だ、公田連太郎先生の字体とは、優しく包み込む込まれるような気がする」
「文字を眺めるだけでも、公田先生のお人柄が伝わってくる、読むまえから
、既に幸せになっている」
「匂いも良い、ページを開くと香ばしい微かに焦げたかのような、良き古本の香りがする」
「代々の持ち主が、この本を大切に保管していたことが伝わってくる」
「この本は、子に伝えよう、たとえ子に縁がなくとも、孫々の代で必ず報われる気がする」
所感)
■四方八方
儒学の勉強に加えて、資格の勉強を始めた。
1,000時間相当の勉強時間を稼ぐ為に、平日2時間と休日4時間、過去問をひたすらしている。
■川には入らないこと
今年の夏も河川で亡くなられる痛ましい事件が多発している。
まず、亡くなられた方々のご冥福をお祈りしたい。
川育ちのブログ主からすれば、川をプールかなにかと勘違いし家族を水に入れる人たちの気が知れない。
地元育ちの人間でも下手をすれば溺れることがあるのに、ましてや、、。
結論は、川には遊びで入らないほうが良い。
川は、淵や、場所によってはいくら泳ぎが達者だろうが、足が付く深さであろうが、流れで身体が沈むところがあちこちにある。
身体が沈めば普通の人は焦り、水中で天地がわからくなり、必然的に溺れるのだ。
対策として、流れに巻き込まれたり淵の奥に引き込まれた場合は、海の離岸流と同じく流れに逆らわず泳ぐしかないが、泳ぎがいくら達者だろうが、知識とその川での経験がないと無理だ。
私は子供時代、小さなダムから飛び込んだり、魚をゴム銛で突きながら川の淵に沈んでは下流まで泳いでいたが、地元育ちの川だから出来る訳であり他の川なら確実に溺れている。
また、上流で雨が降った場合、地元育ちは上流での雨を知らずとも川の変化(水の濁りや流れの変化)で直ぐに陸に上がるが、レジャーで訪れた他所からの家族連れが気付ける訳が無い。
及び、万が一家族が溺れた場合でも、救おうとして安易に川に飛び込むのは自殺行為だ。
しかし、溺れる家族を目前で抛っておける人は少ないのは当然だし、私自身も躊躇なく飛び込むだろう。
川には入らないこと、これに尽きる。