○日曜日の朝、10月16日、ウオーキング
「皮膚が秋冬形態に移行済みの為、十月で28度を越える暑さに戸惑っている」
「明日から21度くらいらしい、今日の暑さはやり過ごそう、皮膚よ頑張れ」
「秋の花粉でアトピーがぐずり出している、気温の変化についていけない」
#自由律
○日曜日の朝、マクド
「早々にマクドへ、資格勉強に取り組む、過去問、過去問、あゝ過去問」
「混んでいる、行列だ、まあここまで来たには朝食は食べて帰ろう」
「近くのコーヒー店も値上がり、一杯五百円を越えた、ため息しか」
#自由律
○日曜日の午前、自宅
最近、Twitterを止めようと思うこと、しばしばなれど思い直す。
癌で亡くなられた方の最期のツイートを拝見する。
『あなたの世界は輝いています
いつか等しく終わりがくるから
楽しんで下さいどうかどうか』
Twitterとはもの凄い。
御冥福をお祈りいたします。
#自由律
○日曜日の午後、ウオーキング
「金木犀の香りはあまり好きではない、嫌な記憶と結びついている」
「生まれ育ちではなく、自らの力で戦える様になってからの方が好きだ」
「少年時代とは時に残酷であり理不尽さに満ちている、今が一番だと思う」
#自由律
○日曜日の夜、自宅
「座禅をくむ、臍から下に集中して腹から上をちょこんと載せる」
「学問を修養し、仁徳を体得しようと志す人、『志士』こそ我が目指すところ」
「齢五十にして学問の道を志し早二年、未だ至らぬ我が身なれど充足の時来たれり」
#自由律
○月曜日の朝、通勤
「子曰く、出でては則ち公卿に事え、入りては則ち父兄に事う。子罕十六」
「世に出ては人に仕えて政を行い、家では父母を大切にして敬う」
「孔夫子は忠孝を説かれた、人として当たり前のこととされた」
#自由律 #論語
○月曜日の夕方、通勤
「子曰く、忠信に主しみ、己に如かざる者を友とすることなかれ、過てば則ち改むるに憚ること勿かれ。子罕二十五」
「義を重んじ己を誠とする人を友とせよ、足らず過ぎる人とは近づかないこと」
「過ちは速やかにに訂正すること、後回しは禍根を大きくするのみ」
#自由律 #論語
○月曜日の夜、自宅
「子とメガドラミニ大魔界村に挑戦する、無敵コマンド入力から難しい」
「親子で苦心惨憺してコマンド入力成功する、二人でガッツポーズ」
「甘かった、無敵でもガンガン死ぬ修羅のゲーム、BGMは良いなと親子で共感する」
#自由律
○月曜日の夜、自宅
「子より形意拳の虎撲子を教えてほしい、父は入門時に三体式のみを一年練習したと答える」
「教えるのは容易い、五行拳が出来れば十二形拳は応用だ、だが三体式あってこその五行拳だ」
「父は壁拳のみを二十年練習した、同じ系統の虎撲子は出来るが、子には早すぎる」
#自由律
○火曜日の朝、通勤
「子曰く、仁に里るを美しと為す。里仁一」
「仁の徳を得てのち、仁を実践する、美しいことではないか」
「孔夫子はいわれた、忠恕であること、その為に一生学び、得た仁を広げること」
#忠恕/己を誠にして人を思いやる
#自由律 #論語
○火曜日の夕方、通勤
「択びて仁に処らず、焉んぞ知たるを得ん。里仁一」
「自らの意思で仁を為そうしない、そのような人が物事の是非を知り得ようか」
「物事の中心に仁があってこそ、世の中に善いことが広がる」
#自由律 #論語
○水曜日の朝、通勤
「子曰く、不仁者は以て久しく約に処るべからず。里仁二」
「不仁の人とは、自ら不幸を背負い、不安と恐怖から離れることがない」
「自分さえ良ければいい人とは、孤独で寂しく、得た小利を守る為に攻撃的な言動が多い」
#自由律 #論語
○水曜日の夕方、通勤
「以て長く楽しきに処るべからず。里仁二」
「また、(不仁の人とは)富や名誉を得たとしても、仁無き故に驕り高ぶりて全てを失う」
「仁無き人とは、なんと哀れなことか、不安と恐怖に追われ、楽しみも長くは続かない」
#自由律 #論語
○水曜日の夕方、電車内
「仁無き人とは、なんと私たちなのだろうか、常に不安と恐怖が側にいる」
「苦しいときは鬼になり、楽しいときは驕り高ぶる」
「故に、忠恕の心を離してはいけない、仁こそ人の根本、人を尊ぶこと」
#自由律
○木曜日の朝、通勤
「仁者は仁に安んじ、知者は仁を利とす。里仁二」
「仁を実践する人とは、如何なる時間、場所、場合でも仁から離れることがなく常に安らいでいる」
「一方、智を得た人は仁の安らぎを知り、心乱れることがない」
#自由律 #論語
木曜日の朝、乗り換え
「いつもの二人組が車内の横に立つ、小声で囁やきあっている」
「悪だくみか、いや、共通の上司のことを罵っている」
「今日は本当に小声だ、近寄る、次は人事移動の噂らしい、二人とも怯えている」
#自由律
○木曜日の夕方、通勤
「子曰く、唯仁者能く人を好み、能く人を悪む。里仁三」
「孔夫子はいわれた、仁の人とは善も悪もその姿を正しく見ることが出来る」
「故に、仁を得た人だからこそ、人を善へと導き、人の悪を善へと至らしめる」
#自由律 #論語
○金曜日の朝、通勤
「子曰く、富と貴きとは、これ人の欲する所なり。その道を以てせざれば、これを得るも処らざるなり。里仁五」
「富や名誉は皆大好きだ、しかし、仁によって得たもので無ければ続かない」
「根本に常に仁があるのであれば、付随する富や名誉は受け取る」
#自由律 #論語
○金曜日の夕方、通勤
「貧しきと賤しきとは、これ人の悪む所なり。その道を以てせざれば、これを得るも去らざるなり。里仁五」
「貧しさや身分が低いことを人は嫌う。しかし、それが仁であればなんら恥ずべきことはない」
「忠恕により貧しい、身分が低い、これも立派な道といえる」
#自由律 #論語
○金曜日の夜、自宅
「昔からの朋友が集まり、今夜、酒席を共にする」
「馬鹿話しに花が咲き、真実を少し含みつつ大笑いで盃を干し合う」
「どいつもこいつも良か男ぶり、次の再開を誓いつつ乾杯してそれぞれに別れた」
#自由律
○土曜日の夜、自宅
「パスとタックル、のち劈拳と崩拳を練習する」
「足さばきを中心に教える、打拳ばかりに気が入り、捻りも溜めもなってない」
#自由律
所感)
■論語
これまでランダムで論語の章句を自由律へ意訳してきたが、今週より改めた。
論語は学而第一から始まり二十篇で構成されている。
これまで、学而第一、為政第二、八佾第三(前半)を当ブログにて意訳したものを載せた。
八佾第三の後半も終わっているが、当分は見直しに集中したい。
次は、里仁第四の意訳に取り組む予定であったが、正直、資格勉強に追われ時間が取れない。
ならば通勤時間でツイートしている自由律を、里仁第四の最初から順にしていくことに決めた。
里仁第四の次は公冶長第五へ、全二十篇を順に全て自由律で意訳し、自らどう思うのか考えていきたい。
当然、自らの考えのみでは本来の姿から逸脱する可能性がある為、答えあわせのテキストとして、「明治書院刊行、新釈漢文大系1 論語 」を参考としている。
■現状
「齢五十にして学問の道を志し早二年、未だ至らぬ我が身なれど充足の時来たれり」
学問の道が、一つ、新しいところへ行く(進む/退く、は不明ながら)。
過去の高名な学者先生が遺された本や、同門の先人を過剰に意識し、褒め称える鎖自体を捨てた。
「基本の徹底」こそ我が信条。
この二書以外に気にしなければならない諸々の権威や先輩方が、正直この世界は多過ぎる。
そもそも「足らず」も「過ぎる」も中庸から遠ざかる、とは儒学の教えだ。
私は、多くの書や人に阿り過ぎ(自ら客であろうとし)、学問としての主を名著や他人に任せる愚に過ぎた。
■今後
もちろん、二書以外の四書五経や朱子学、陽明学を批判し、また古義学を全肯定するほど愚かではない。
二書をとことん学び、考えて、自らの考えを養ってから戻り、再び学ぶのだ。
■雑感
一方、東洋思想に区切っても、次々と儒学の経書や次いで老荘思想を学ぶ人たちがいる。
彼ら(彼女ら)は優秀であり、頭脳明晰、天から選ばれた人たちだ。
私は、読み物としては老子、荘子を読んだが、学問としては未だ理解出来ずにいる。
ネット上や巷によく、「孔子は固っ苦しいから老子が良い」との言葉を聞くが、私的には大胆過ぎる言葉だ。
二年、儒学を学んでも孔夫子の教えを実践出来ず、理解の遅さに歯噛みしている身からすれば、
「孔夫子は固っ苦しい」と一文で片付けれる大胆さんには舌を巻く。
さらに「老子が良い」とは凄すぎる。
形而上学的な老荘思想を理解出来、「良い」と一言で表現出来るとは、モーツァルトやゲーテ級の天才だ。
■結論
「学問を修養し、仁徳を体得しようと志す人、『志士』こそ我が目指すところ」
在野で、老子を学問として真剣の取り組まれている方を知っているが、難解であり、一生を捧げて勉強しても「足らず」とされている。
同様に易経も同じく、難解極まるらしい(難解さを表現すら出来ない)。
要は、学問とは真剣に学べば学ぶほど「沼」なのだ。
上記を踏まえれば、二書(論語・孟子)に限定しても、尚、巨大な山脈が目前に広がっている感は否定出来ない。
学問の進み具合によっては、全二十ある論語も学而第一から郷党第十に限り、繰り返し学ぶのもありかも知れない。