四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

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三行詩 第五十九章(里仁第四)

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○月曜日の朝、10月31日、通勤

 

「子曰く、利に放りて行えば、怨み多し。里仁十二」

 

「孔夫子はいわれた、私利私欲に流されて生きれば、同類から恨まれて争いが止むことはない」

 

「私は特別だ、私が被害者だ、私だけなら、と私たちは皆思っている」

 

#自由律 #論語

 

○月曜日の朝、電車内

 

「いつもの二人組が横にきた、シャツに関して話している、今日は実験室に入るらしい」

 

「先手はノッポ、次にメガネが沈黙で応える、意地悪メガネが押されている」

 

「行ったことのない研究所への行き方を如何にも慣れた口調でいうメガネ、立場が違うと相手にしないノッポ」

 

#自由律

 

○月曜日の夕方、通勤

 

「子曰く、能く礼譲を以て国を為めんか、何かあらん。里仁十三」

 

「孔夫子はいわれた、国を治めるに礼(規範)と譲り合い(互いに尊ぶ)以外に何があろうか」

 

「根本には仁があり、仁の広がりが礼となり譲となる」

 

#自由律 #論語

 

○火曜日の朝、通勤

 

「子曰く、位なきことを患えず、立つ所以を患う。里仁十四」

 

「孔夫子はいわれた、地位や名声が無いことを気に病むより、自ら仁に立って人を救おうとしたのかを思うこと」

 

「志あっての地位や名声である、私利私欲の隣人に惑わされてはいけない」

 

#自由律 #論語

 

○火曜日の朝、乗り換え

 

「昨夜よく眠れず今朝は高血圧、今は亡き人、出来事を思い出す」

 

「意地悪メガネを最初の電車の同じ車両で、ノッポを次の電車のホームで目の前に立っているのを見る」

 

「三番目に乗り換えた電車の同じ場所でで三人は集合する、うち一人は他人だが」

 

#自由律

 

○火曜日の朝、電車内

 

「会話が弾まない、意地悪メガネに含むところがありそうだ、沈黙、沈黙」

 

「今日は火曜日だね、、、、正月何処に行くの、と、ノッポから話す」

 

「別に何処も、、とメガネ、次に田舎の話題、メガネはサイタマ人らしい」

 

#自由律

 

○火曜日の朝、一休み

 

「高血圧で吐き気、頭痛、今日はデスクでゆっくりしよう」

 

「関西の人なので、サイタマ人のイメージが映画「跳んで埼玉」に偏る、本当なのだろうか」

 

「関東は十回くらいしか行ったことがない、グンマーとか、よくわからない」

 

#自由律

 

○火曜日の朝、二休み

 

「帰宅時に寄るスーパーの入口に、たまに同じ子犬がつながれている」

 

「見かけ可愛いいが、お婆ちゃんなどが寄っていくと大声で吠えてぐるぐる回る、気が荒い」

 

「昨日私も話しかけたが、大声で吠えられた、心の中でこの子犬をケルベロス命名する」

 

#自由律

 

○火曜日の夕方、通勤

 

「己を知ること莫きを患えず、知らるべきことを為すを求む。里仁十四」

 

「世の中や周囲から一目置かれないことを嘆くらいなら、今日、一日、仁を実践したのか省みること」

 

「自らを厳しく責め過ぎるのも仁に遠い、大きく暖かな仁を自らにも広げること」

 

#自由律 #論語

 

○水曜日の朝、通勤

 

「子曰く、参よ、吾が道は一てこれを貫く。曾子曰く、唯。里仁十四」

 

「孔夫子はいわれた、参よ、私の道は一つで貫いている、弟子の曾子はいう、はい、と」

 

「孔夫子は忠恕を貫かれた、仁から広がる礼、義、智、ともに忠恕から始まる」

 

#自由律 #論語

 

○水曜日の朝、乗り換え

 

「車内、親子、幼子二人を横一列の椅子に座らせるも窓側を向いた、幼子が動く度に横の老人のズボンに靴が当たる」

 

「目前に立つ父親はそれを見ても何もいわない、ほっておく父親をみて老人、靴が当たる度に幼子の脚を軽く叩く」

 

「靴が当たる度に叩く老人、何も言わない父親、きょとんとする幼子たち、なんとなくシュールではないか」

 

#自由律

 

○水曜日の朝、電車内

 

「いつもの二人組、ノッポの鞄は膨れている、しきりに消防士の話しをしている」

 

「ノッポは感動しているらしい、今朝は熱いノッポだ、メガネに口を挟ませない」

 

「謎の二人組だ、サイタマ人で、研究所に通い、客商売らしい、言動は知性的でもある」

 

#自由律

 

○水曜日の夕方、通勤

 

「子曰く、君子は義に喩り、小人は利に喩る。里仁十六」

 

「孔夫子はいわれた、君子とは仁を行うが故に義に明るく、小人とは私利私欲に猛るが故に小利を見逃さない」

 

「君子の視点とは天があり、小人の視点とは目の前しかない」

 

#自由律 #論語

 

○水曜日の夜、自宅

 

「天の下、仁に包まれつつ温々と世を過ごす、儒家とはなんと幸せな存在か」

 

「世の中の毀誉褒貶から離れ、自らの仁に向き合い、礼に基づき、義に生きる」

 

儒家とは、他人を救う前に、まず自らの心を仁で満たすべきではないか(自らを救えずに他人を救えるものか)」

 

#自由律

 

○水曜日の夜、自宅

 

「苦行のように学問の道を述べられる先人がいる、仁とは遠いと思う」

 

「厳寒の中でも大きな太陽の陽射しに包まれれば、暖かく感じる」

 

論語とはとても暖かいものだ、人の可能性を、人の未来を述べている」

 

#自由律

 

○水曜日の夜、自宅

 

「なんとなくTwitterが楽しくなってきた、波長の合うtweetにワクワクする」

 

「馴れ合いは嫌いだ、挨拶の素晴らしさは認める、しかし言葉とは重たくあるべきだ」

 

「えっへん、どうだ!、と自らを誇れば良い、どんどん誇れ、見知らぬ友よ!」

 

#自由律

 

○金曜日の朝、通勤

 

「子曰く、賢を見ては斉しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みる。里仁十七」

 

「孔夫子はいわれた、仁を実践している人を見ればその真似をし、不仁の人を見ればその行いを自らに照らし合わせる」

 

「周りの仁も不仁も、自らの徳を広げる為に活かすこと」

 

#自由律 #論語

 

○金曜日の夕方、通勤

 

「子曰く、父母に事えては幾く諌め、志の従わざるを見ては、また敬んで違わず、労えても怨みざれ。里仁十八」

 

「孔夫子はいわれた、父母に間違いがあれば諌め、拒否られたら一旦は引いて見守る、決して見放してはいけない」

 

「父母からの恩は消えることはない」

 

#自由律 #論語

 

○金曜日の夜、自宅

 

「化け物とは無関心の集合体ではないか、また、無責任の結晶でもある」

 

「仁も義もなく一方的な社会的正義を振りかざし、生け贄を今日も屠る」

 

「普通にTVで見かける、ネットで人気者、次々と消えては現れるピエロの類い、民意の化け物」

 

#喜ぶ大衆と細く笑む世襲エリートたち

#自由律

 

○金曜日の夜、自宅

 

「義とは基本独りだが、正義を掲げるとはその他大勢を求めている」

 

「省みれば人類史に残る忌わしき虐殺とは、常に一方的な正義による決断だ」

 

「仁に正義はない、仁とは義であり、中庸を以って天の道を歩むのだ」

 

#自由律

 

○金曜日の夜、自宅

 

「巨大な思考形態の積み重ね、というよりは大きな大きな思いか」

 

「忠恕とは、突き詰めれば誠となる、誠とは突き詰めれば思いだ」

 

「思いが世の中を救う、孔夫子の思いは、誠は、二千五百年を経ても世の中を包み込む」

 

#自由律

 

○土曜日の夜、自宅

 

「夕方、子とラグビーの練習へ、のち形意拳の練習」

 

「右脚ふくらはぎに肉離れ発生する、中ほどに爆発したような痛み」

 

「哀れかな、老いたのだ、子の肩をかりて家路へ着く、情けない」

 

#自由律

 

所感)

■肉離れ

動くとふくらはぎに痛み、歩けない。

治療法は安静第一らしい。

明日の仕事はかなり怪しい。駅の階段など無理だろう。

明日、会社を休むのであれば、医者に行って、無駄なレントゲンや湿布を処方される無駄な時間を体験せねばならない。

 

Twitter

経営者が変わり、社員の半数が一斉解雇され世の中に物議を醸し出している。

私のような捻くれ者からすれば労働者の視点からは反発を感じるが、そもそもTwitterの社員とは世界でも高収入のエリートたちではないか。

どちらも嫌い、が本音であるが、世界一の資産家の肩を持つ人は少ないのであろう。

仮に、Twitterフェイスブック化してこれまでの利用者が激減しても、恐らくはビジネスチャンスとばかりに新たなTwitterが起業されるであろうし、儲からないなら二つとも消えるだけだ。

 

■雑感

コンビニのアルバイト・パートで働いてても家族を食わせるほどの収入はない、だから今の世の中無理ゲーだよね、との記事を読む。

 

確かに現実を述べている、そしてその不満と変革を求める期待を代弁しているかのように読める。

しかし、警鐘と変革とは異なる。

この人は、警鐘ビジネスで儲けている人だ。

人を煽りたてるだけで解決策をなにも提示しない。良くて、海外ではこんな事例ある止まりだ。

 

人の誠が希薄になるばかりの時代ではあるが、その原因は、自ら思い、考えることをやめて、他人が加工した綺麗なもっともらしい、工業製品のような思いに、身も心も委ねてしまっていることにある。

警鐘ビジネス屋さんの言葉に感動し、変革ビジネス屋さんの演説に拍手する。

 

コンビニのアルバイト・パートで家族を食べさている人もたくさんいる。ただ苦しいだけだ。

だが、家族を養うという立派な思い、誠がそこにあり、家族が生きている現実ある。

素晴らしいことではないか。

 

警鐘ビジネス屋さんや、変革ビジネス屋さんの甘い言葉とは、彼ら彼女ら一般市民の味方のようでいて、実は毒を吐き、彼ら彼女らを食い物にしようとしているだけだ。

 

一部の人たちは贅沢な暮らしを楽しんでいる。

だから、私のいうことに怒り、喜び、手のひらで踊れという。

このような人たちが持て囃される時代とは危険だ。

怒り、喜ぶのは良い、しかし一番大切な、自ら考えること、思いを他人に委ねてしまっている。

 

本質は、楽に儲かる・苦しいし儲からない、ではなく、家族の為に働き、家族を養い、家族の為に生きることだ。

その為に思い、実践することが人としての生き方だ。

そして、世の中に警鐘を鳴らす、変革するとは、このような個の思いを凝縮した誠から始まる。

 

一人の誠でも、世の中はひっくり返せる。

 

省みれば、今の世の中、強い思いや誠を備えた人を見る機会が減る一方に思える。

しかし、家族の為に、家族を養う為に一生懸命働いている人はいる。

彼ら彼女らの思いこそ、本来の人の姿であるし、この思いを広げることで世の中は変わっていく。

 

家族に思う心を、少し友人に広げる。

家族を思う心を、少し隣人に、社会に広げる。

 

普通のお父さん、お母さんが立ち上がる、思いを広げることが今、この国にとって一番大切なことだと思う。

強い思いや、誠とは、突き詰めれば忠恕(自らを誠にし、人を思いやること)から生まれる。

自らを修め、家族を思い、その思いを周りへ広げる。思いは誠となり、その集合が国を思うことへつながる。

その根本がなしに国を愛することは出来ないし、国とは、家族を、市民を、幸せにする存在であるべきだ。

(養豚場のように管理される市民と少数の世襲エリートたちが治める世界などくそっ喰らえだ)