四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

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三行詩No.153 (顔淵第十二②)

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○日曜日の夕方、9月29日、森

 

儒家の凄み

 

何先、曰去兵、顔淵七

 

(子貢が政の眼目を問い、孔夫子は兵・食・信と答えられた、再び子貢は問う、諦めねばならぬ事態となった時)何れが先ですか、夫子はいわれた、兵を諦めることだ。

 

「国を国足らしめる、外は兵(軍事)、内に食(衣食住)、芯に信(為政者と民の繋がり)と説く夫子、当然ながら最初に捨てるのは兵と説く。

儒家の述べる国の目的は戦争に勝つ為ではない、民を安んずる目的の為に、君主と国は存在するのだ、さらっと述べている句であるが、論語中でも屈指の内容だと思う。

時は春秋時代、下克上がまかり通る戦国の世に、最初に兵を捨てよと述べる夫子。

視点を変えれば孟子にある通り、君主と民が一つとなった国に勝てる国があるものか。

一人たりとも残さず全滅させねば勝ちはない、仮に勝ったところで無人の廃墟が残り、さらに諸侯、臣下、民から非道との非難を得るのみ。

戦争に勝つ(負けない)ことが国を維持・発展させると説く兵家が、小さく見える。

国とは民である、とは理想主義の戯言ではない、全滅すら覚悟して戦う(足らしめる)のだ。

ある意味、兵家以上の凄みを感じるのが儒家であり、始皇帝焚書・坑儒したのも立場違えば必然なのかも知れない」

 

#論語

 

○月曜日の朝、通勤

 

曰必不得已而去、於斯二者、顔淵七

 

(兵・食・信の兵を捨てて)子貢はいう、さらに食・信から一つ捨てねばならぬ場合は、どうすれば良いですか。

 

「国の非常時、最初に軍事を捨て、残るは食(衣食住)と信(民と君主の信頼関係)、どちらを残すべきかと孔夫子に問う子貢。

単なる才子ではなく、戦国の世に生きる為政家として腹を括っていることが伝わってくる。

国を維持する為に兵・食・信から捨てることを二度尋ねる、将来、彼は亡国の場に居る(かも知れぬ)自分を想定している。

我こそ(当事者意識を持って)この戦国の世に仁徳の政を実践する、という気概に満ちている。

そして、子貢の問いの意味を夫子も理解され、真剣勝負で答えられておられる。

師弟共に凄まじき気魄を感じる」

 

論語

 

○月曜日の午後、一休み

 

❖ ALL IN ONE

 

儒学とは、思想と哲学を併せ持つ、故に学問の道(実践)が成り立つ」

 

「最近、父母の慈愛や、仁徳、忠恕、四徳等、儒学の肝の部分に宗教性を感じている」

 

「思想と哲学、そして宗教を合せ持つ『ALL IN ONE』こそ真の儒学であり、学問の道(人が昇華する世界)ではないか、と思い始めている」

 

#三行詩

 

○月曜日の午後、二休み

 

❖ 世界とは

 

「①思想とはある事柄に対する考えとする、②哲学とは普遍的な真理を追求する考えとする、③宗教とは倫理観や世界観に基づいた考えとする」

 

 「思想は哲学や宗教を含む、哲学は宗教の根源を問う、宗教は思想に影響を与える関係にある、そして宗教は価値観や行動に影響を与え、社会全体の思想を形成する」

 

「人の思いが思想、哲学、宗教を生み出し、人の全て、或いは社会全体が、何らかの思いの支配下にある、故に『世界は思いである』との結論に至る」

 

#三行詩

 

❖ 不完全な事実

 

「であれば、ウィトゲンシュタインが浮かぶ、彼は『思いは言葉によって形作られ、言葉なしに明確な思いを持つことは出来ない』と述べた」

 

「ならば『言語(思い)は厳密に世界を写しだしていて、言語(思い)と世界は同じ論理形式を持つことで、言葉(思い)は世界の『像』として機能する』ことになる」

 

「では世界の『像』とは何か、地図のようなものであり、主観的、且つ言葉の組み合わせに依るが故に不完全性から逃れられない、つまり言葉=思いとは現実を主観的に現した不完全な地図なのだ」

 

#三行詩

 

❖ 輝く孔夫子の教え

 

「孔夫子の思い、=言葉、論語という書は確かに不完全な地図といえる」

 

「しかし、世界を包みこむ、大きな仁徳の思いが言葉となった、その言葉は、この世界の理想を表す地図となったことは紛れもない」

 

ウィトゲンシュタインを学ぶことと論語を学ぶことは反目しない、近・現代哲学は論語を否定出来ない、哲学が進めば進む程、論語は光り輝くように思えて仕方がない」

 

#三行詩

 

○月曜日の夜、森

 

❖ 像の有り様

 

「思いとは主観的、且つ不完全な像であり、社会とは無数の不完全な像で構成された歪んだ世界といえる」

 

「ならば思いは、内に向けてはならない、主観的内向性とは、その性質上、他者を排除する」

 

「自らの内、更なる深層内心理は、内に向かうほどに分裂と排除を繰り返す、像の内にも無数の像はある」

 

#三行詩

 

❖ 像の連鎖

 

「思いとは像であり、内には無数の像が集合して外への像を構成し、主観的選択を行う」

 

「像の集合体が新たな像を生み出すのだ、個から集団の像、組織の像、国家の像、世界の像、地球の像、像とは全てに於いて存在する」

 

「地球の地上を歩くということは、地球という像を構成する無数の像の一つが動いたのだ」

 

#三行詩

 

❖ 哲学的解明、世界の有り様

 

ウィトゲンシュタインという天才は、この世界有り様を、無数の像に例え、それらを分解・集合することにより哲学的に解明した」

 

「人の内なる主観的像は、やがて内外様々な像と集合することにより、国家、民族、人類を構成する不完全な像へと繋がっている」

 

「像とは何か、思い(言葉)に他ならない、各々の不完全を認めあう、目的に向かい集合し更なる像へと変化する、そして善悪を問わない」

 

#三行詩

 

○月曜日の夜、自宅

 

❖ 宇宙と松屋

 

「試みに遊んでみよう、太陽系という像を構成する集合体の一つに木星と人類が名付けた像がある」

 

「方や、松屋牛めし特盛りを食べているaristotles200も存在する、共にこの宇宙を構成する一像に違いはない、哲学的世界では垣根も障壁も妨害も存在しない」

 

「我は木星である、と思へば松屋牛めしを食べているのは直径139,820 kmの木星なのだ」

 

#三行詩

 

○火曜日の朝、通勤

 

❖ 仁者の選択

 

何先、曰去食、顔淵七

 

(子貢は問う、食と信)どちらを捨てますか、孔夫子はいわれた、食だろう。

 

「為政者としての土壇場の選択で、唯一は民との信頼関係であると説く夫子、儒家とはこういう生き物(であるべき)だ、道徳とは実践あってこその道徳であり、窮地にこそ発揮せねばならない」

 

#論語

 

❖ 仁者の決意

 

「世の中を(君子を助けて)天下泰平にするのが儒家の目的だ」

 

「今、ここで、民共々討ち死にするかも知れない」

 

「それが天命であれば受け入れる(そういうこともある)、仁義の道を歩むとは暴力に対しては『退かぬ! 媚びぬ、省みぬ!』覚悟に他ならない 」

 

#三行詩 

 

○水曜日の朝、通勤

 

❖ 死と連なり

 

自古皆有死、顔淵七

 

古より皆死有り(自の字はよりと訳す)。

 

「夫子のいわれる古とは、帝堯・帝舜、先王の時代だろうか、或いは人類、かも知れない、どうしようもないこと(死)は存在する、故に、儒家は連なりを尊ぶ、先祖代々の積み重ねが今となり、未来へと血は繋がる」

 

#論語

 

○水曜日の午後、一休み

 

❖ 繰り返される終末

 

「時代を問わず、人種、文化が異なる国々同士の戦いとは、双方に聖戦意識が生まれ、総力戦、或いは数世代に渡る長期化した戦いとなる」

 

「ローマがカルタゴを滅ぼしたとき、民は奴隷に、街は破壊のち塩を撒いて国そのものを消滅させた」

 

「方や、都市部に原子爆弾を落とす国もいる、人種、宗教、思想が異なる敵を全否定出来る、異質に対する人間の集団意識とはまさに業だ」

 

#三行詩

 

❖ 人間がいない

 

「都市部に原子爆弾を落とす様に命令したトルーマン大統領、以下相当数の人間が投下に関わっている」

 

「唯一人も行動を止めなかった事実は、人類の汚点であろう」

 

「軍隊(組織)の前に一人の人間であるべきだ、人間を捨てた集団意識、ほど悪魔的な存在は他にない」

 

#三行詩

 

○木曜日の朝、通勤

 

❖ 繋ぐもの

 

民無信不立。顔淵七

 

為政者と民とは、相互に信頼関係があってこそ成り立つものだ。

 

「民とは国である、兵も食も大事ではあるが国ではない、現代の為政者で幾人がこう云えるだろう、そして信とは、公正無私の誠から生まれる、家畜を飼うように民を睥睨することではない」

 

論語

 

○木曜日の朝、乗り換え

 

❖ 善性の終わり

 

「個、或いは集団意識の求む選択肢と、はウィトゲンシュタインのいう『世界の像』モデルの限界(善性は否定される)を示している」

 

「一つの像、本来が持つ善性は像の集合化により消え去る、そして巨大化した像の共通意識は、集合体に利する私利私欲の追求が正義となる、多くの像の多様性は働きを失う」

 

「根元的には平等、少なくとも皆死ぬことに変わりない、主観的には何を思うかが世界であることに変わりはない、その上で『世界』は善性を否定したのだ」

 

#三行詩

 

○金曜日の午後、来来亭

 

❖ 貴族の傲慢

 

棘子成曰、君子質而已矣、顔淵八

 

衛の大夫である棘子成はいう、君子とは、人としての本質のみ優れていれば良いものです。

 

儒家を好まない衛の貴族、棘子成は、孔夫子の高弟である子貢に対し、儒家が尊ぶ礼楽(礼儀と音楽)とは単なるお辞儀や民謡の類に過ぎない、(先王の教えの基づいた)礼楽を尊ぶ君子など君子であるものか、君子とは(棘子成のような王族・貴族に生まれた)本質が貴き人のことだと、身分の低き出である孔夫子たちを見下している」

 

論語

 

○金曜日の午後、喫茶店

 

泥鰌と新書

 

中公新書が面白い、古本で『部首のはなし』と『植物のひみつ』を購入する」

 

「先日読んだ『儒家とは何か』は目から鱗、学問の道に新たな視点を付け加える気付きを得た」

 

二匹目の泥鰌、とは表現が微妙に違うが、中公新書にハズレ無しだと思う」

 

#三行詩

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○金曜日の夜、自宅

 

❖ 堕ちた希望と一筋の光

 

「如何なる闇を抱こうが一筋の光は真実を照らす、恥も外見もなく“希望”を垂れ流すメディア、一方で個人がSNSで発信する真実は止めれない」

 

「従来の歴史、奴隷制度や人種差別の闇を思えば、USAという国は控え目に述べても類としての人の希望足り得る存在ではなかったか」

 

「しかし真実はどうか、全ての問題を併せ持つ世界の縮図、建国の理想は疲弊し、極小数の白人エリートが全てを支配する、時代遅れの封建社会だ」

 

#三行詩

 

❖ 為すべきこと

 

「基本的にマシュー・カルブレイス・ペリー提督が江戸幕府にもたらした米国側のスタンスは、敗戦を経た令和の日本でも変わりない(覇権競争からグローバリズムへ)」

 

「奇妙なことにボードゲームモノポリー(monopoly)の求めるGOALは、専売、独占、専売権、専売品、独占資本主義、今の世の中の現実を見事に表している」

 

謳歌するは世襲議員や特権意識の経営者、に群がる小判鮫、資本主義経済がもたらす未来とは斯くありなん、独裁者よりまだましと下を向いて(家族の為に)黙って働こうと思ふ」

 

#三行詩

 

所感)

■学問の道、儒学とローマ史

塩野七生さんの『ローマ人の物語』(全)を読み進めている。

父の書斎で初見し、通読を終えたのは高一の夏休みだったと思う。

 

37年後、53歳になって2回目の通読をしている。

今回は文庫版で、全43巻ある。

1巻160円で安価であったこと、

ポケットサイズの為、通勤の用に足ること、

学問の道、儒学視点からローマ史に登場する各々の人物像、社会モデル

を考察をしてみたかったから、

等々、読む理由には困ることはなかった。

 

ただ、問題は置き場所だ。

文庫43冊は、既に本棚から溢れて本が積んである(小さな)書斎コーナーにトドメを刺しかねない。

人生4回目の本の断捨離を考えているが、儒学関係は値が張る本が多い、

となるとコツコツと集めた岩波文庫青帯集になるが、これも愛着があり、とても捨てれない。

 

そもそも、近々、引っ越しを考えているのに、モノを増やしてどうするのか、

と、何やら考えるのが面倒くさくなり、再び本を開き、ローマ時代へ戻るのだ。

 

■つれづれ、近状

博打が趣味の人がいる、旅行が趣味の人もいる、囲碁が趣味の人もいる、

何れも私は向いていない。

博打運に恵まれたことは一度もない、

先立つものがなければ旅行には行けない、

囲碁で勝てたのはゲーム(初心者レベル)のみ。

 

中学生の頃から車も好きだが、運転が苦手だ、

若い頃、仕事で4トントラックや軽トラに乗っていたが車周辺の感覚がつかめない、

挙げ句に方向音痴、旅館ですら自分の部屋にたどり着けない(時もある)。

 

道は真っ直ぐ進むもの、男子たる者曲がるべからず、度々海岸まで着いてから目視(幸い、太陽は西へ沈むし、梅田や難波には高層ビルがある)で、帰社していた。

 

故に、読書が趣味であり、向き不向きでいくと、これが向いていないなら、寝て食べるしか休日はすることがない。

三年前からブログを始め、文章を書くことも趣味になった。

 

読書とブログ作成が妙に噛み合う。

好きな本を読み、好きなことを書くことが週末の楽しみとなった。

これ以外、向いていないのだ、

俄然、真剣になるし、ブログ閲覧者が多い(50人以上)日は嬉しくなるし、閲覧者が少ない(10人以下)日はへこんでいる。

 

儒学を中心に哲学、思想を関連付けて自ら思うことを書いているブログなので、読者層はニッチな知識層(と想定している)、故に、閲覧者数がこれ以上増えることはあるまい。

 

いっそ、子猫か子犬の画像をベタ張りすれば、1日100人以上の閲覧者(夢のようだ)が来るかも知れない、

しかし、孔夫子の教えに子猫画像を挟んで、どう論理的説明が出来るのか、未だに解決出来ていない。