四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

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論語 顔淵第十二(1)〈白文・意訳・所感〉

論語 顔淵第十二(7〜11)〈白文・意訳・所感〉

 

『子貢問政、子曰、足食足兵、民信之矣、子貢曰、必不得已而去、於斯三者、何先、曰去兵、曰必不得已而去、於斯二者、何先、曰去食、自古皆有死、民無信不立、』

論語 顔淵第十二 7(全文)

 

○「子貢問政、」

▶高弟の子貢、政を問う。

❖ 政の真髄

「孔門三千人と例えられしも、その才能、後の華々しき政、外交での活躍、商才も長けて富豪でもあった、等々世に知られた人が子貢だ、その才、弁、師を越えると度々評されるも、都度、足元にも及ばないと否定している。

その子貢が夫子に政を尋ねる、子貢への教育というよりは、この場合は孔門として最高レベルの政の眼目を尋ねていると等しい。

 

○「子曰、足食足兵、民信之矣、」

▶(子貢に政を問われ)孔夫子はいわれた、為政者とは民の食を十分に手当し、兵を徴兵して良く訓練し、民と絆、運命共同体として信頼を得るものだ。

❖ シン・顔回

次項で、子貢は政での食・兵・信の優先度を問う、戦国時代ならではの問いであると思う。

以下は異論(個人的見解)である。

夫子は食・兵・信を、食は子貢、兵は子路、信は顔回に例えたとも解釈出来ないか。

窮地にあれば君子といえども兵を削り、次に食、そして最後まで共に残る人物とは信、やはり顔回なのだ。

兵・食・信とは順に学問の積み重ねかも知れない。

であればシン(信)・顔回とは世評の聖人+兵・食・信で凄腕の人物として成り立つ。

『子畏於匡、顏淵後、論語 先進22』のエピソードに、匡の地で夫子が命の危機に陷り、後から合流した顔回を気遣うシーンがある。

何故、顔回は後から追いついたのか、前後のやり取りから夫子を逃がすために囮になったとも推察出来る。

武侠子路すら及ばない兵・食・信の持ち主こそ顔回その人の真の姿かも知れない。

夫子自身、孤児として若年から倉庫番や牧畜等、下積みの苦労を重ねられつつ、学問の道を歩み聖人として大成された。

ずばぬけた長身で子路すら足元にも及ばない武心、武術を自在にする夫子が筋肉隆々であっても何ら不思議はない。

そして夫子が惚れ込んだ後継者とはシン・顔回なのだ。

ならば、聖人君子ではあるが病弱、か弱い通説の顔回像もあれば、文武両道、筋肉隆々の顔回像もあって良いのではないか。

 

○「子貢曰、必不得已而去、於斯三者、」

▶(政を尋ね、孔夫子より政とは兵・食・信との答えを得た)子貢はいう、やむを得ず除かねばならないとすれば、兵・食・信、どれですか。

❖ 子貢の問い

兵・食・信の一つを削らねばならぬ事態とは、亡国の非常時といえる。

同時に突き詰め見れば儒家が行う政の眼目は何かを子貢は問うている。

 

○「何先、曰去兵、」

▶(子貢が政の眼目を問い、孔夫子は兵・食・信と答えられた、再び子貢は問う、諦めねばならぬ事態となった時)何れが先ですか、夫子はいわれた、兵を諦めることだ。

儒家の凄み

国を国足らしめる、外は兵(軍事)、内に食(衣食住)、芯に信(為政者と民の繋がり)と説く夫子、当然ながら最初に捨てるのは兵と説く。

儒家の述べる国の目的は戦争に勝つ為ではない、民を安んずる目的の為に、君主と国は存在するのだ、さらっと述べている句であるが、論語中でも屈指の内容だと思う。

時は春秋時代、下克上がまかり通る戦国の世に、最初に兵を捨てよと述べる夫子。

視点を変えれば孟子にある通り、君主と民が一つとなった国に勝てる国があるものか。

一人たりとも残さず全滅させねば勝ちはない、仮に勝ったところで無人の廃墟が残り、さらに諸侯、臣下、民から非道との非難を得るのみ。

戦争に勝つ(負けない)ことが国を維持・発展させると説く兵家が、小さく見える。

国とは民である、とは理想主義の戯言ではない、全滅すら覚悟して戦う(足らしめる)のだ。

ある意味、兵家以上の凄みを感じるのが儒家であり、始皇帝焚書・坑儒したのも立場違えば必然なのかも知れない。

 

○「曰必不得已而去、於斯二者、」

▶(兵・食・信の兵を捨てて)子貢はいう、さらに食・信から一つ捨てねばならぬ場合は、どうすれば良いですか。

❖ 子貢の決意

国の非常時、最初に軍事を捨て、残るは食(衣食住)と信(民と君主の信頼関係)、どちらを残すべきかと孔夫子に問う子貢。

単なる才子ではなく、戦国の世に生きる為政家として腹を括っていることが伝わってくる。

国を維持する為に兵・食・信から捨てることを二度尋ねる、将来、彼は亡国の場に居る(かも知れぬ)自分を想定している。

我こそ(当事者意識を持って)この戦国の世に仁徳の政を実践する、という気概に満ちている。

そして、子貢の問いの意味を夫子も理解され、真剣勝負で答えられておられる。

師弟共に凄まじき気魄を感じる。

 

○「何先、曰去食、」

▶(子貢は問う、食と信)どちらを捨てますか、孔夫子はいわれた、食だろう。

❖ 仁者の選択

為政者としての土壇場の選択で、唯一は民との信頼関係であると説く夫子。

儒家とはこういう生き物(であるべき)だ、道徳とは実践あってこその道徳であり、窮地にこそ発揮せねばならない。

 

 ○「自古皆有死、」

▶古より皆死有り(自の字はよりと訳す)。

❖ 死と連なり

夫子のいわれる古とは、帝堯・帝舜、先王の時代だろうか、或いは人類、かも知れない。

どうしようもないこと(死)は存在する、故に、儒家は連なりを尊ぶ、先祖代々の積み重ねが今となり、未来へと血は繋がる。

 

○「民無信不立」

▶為政者と民とは、相互に信頼関係があってこそ成り立つものだ。

❖ 繋ぐもの

民とは国である、兵も食も大事ではあるが国ではない、現代の為政者で幾人がこう云えるだろうか。

そして信とは、公正無私の誠から生まれるのだ。

支配層として家畜を飼うように民を睥睨する彼ら(彼女ら)の何処に誠があるのだろうか。

 

『棘子成曰、君子質而已矣、何以文為矣、子貢曰、惜乎夫子之説君子也、駟不及舌、文猶質也、質猶文也、虎豹之郭、猶犬羊之郭也、』

論語 顔淵第十二8(全文)

 

○「棘子成曰、君子質而已矣、」

▶衛の大夫である棘子成はいう、君子とは、人としての本質のみ優れていれば良いものです。

❖ 貴族の傲慢

儒家を好まない衛の貴族、棘子成は、孔夫子の高弟である子貢に対し、儒家が尊ぶ礼楽(礼儀と音楽)とは単なるお辞儀や民謡の類に過ぎない、(先王の教えの基づいた)礼楽を尊ぶ君子など君子であるものか。

君子とは(棘子成のような王族・貴族に生まれた)本質が貴き人のことだと、身分の低き出である孔夫子たちを見下している。

 

○「何以文為矣、」

▶(棘子成はいう、君子とは本質が優れていれば良いのです)形式的なもの、或るいはお飾りで、君子ともあろう者が何を為せましょうか。

❖ 君子とは何か

貴族の棘子成のいう君子の本質とは、(生まれ育ちからくる)徳性であり、文とは、外観、飾り(礼楽)、後付けに過ぎない。

本来の君子には不要なものです、と、丁寧な口調ながら暗に儒家を『似非君子め』と馬鹿にしている、なんて嫌な奴なんだろう。

 

○「子貢曰、惜乎夫子之説君子也、」

▶(棘子成の君子とは本質であり文『礼楽』は無用との言葉を聞いて)子貢はいう、棘子成のいう君子の説明は間違っています。

❖貴族の傲慢に対して

『惜乎夫子之説』(直訳すると、その説は惜しいものですね)と、大夫である棘子成を(一応)立てているのは何ごとも如才なき子貢らしいが、次に続く言葉は、遠慮など微塵もなく棘子成を責め立てる。

 

○「駟不及舌、」

▶(棘子成のいう、君子は質であり文は無用との弁に対して、子貢はいう)貴公の舌禍は、四頭立て馬車の速度より早く世の中に広まりましょう。

❖子貢の指摘

四頭立て馬車の速度とは当時最速、さらに威丈高の意、大夫棘子成の無知・無能振りは、瞬く間に世の中に知れ渡るでしょう。

大夫(家老)がこんな無能とは、衛の国も大したことありませんな、と子貢は暗に述べている。

 

○「文猶質也、質猶文也、」

▶(子貢はいう)君子の学ぶ先王の教え、礼楽とは、君子の本質(徳性)であり、本質(徳性)とは先王の教え、礼楽を学んでこそ本質(徳性)なのです。

❖ 君子論と学問の道

君子とは学問の道(質・文)から生まれるものであると子貢は説いている。

 

○「虎豹之鞟、猶犬羊之鞟」

▶(君子の質(徳性)と文(礼楽)とは)高価な虎豹の毛皮(君子の比喩)でも毛(文)を毟ってしまえば、犬羊の皮(質)と変わらなくなることと同じこと(質文あってこその君子)です。

❖ 虎豹の毛と犬羊の皮

虎豹の皮を君子とし、棘子成のいう質のみの君子を犬羊の毛を毟った皮の様なもの、という子貢も中々辛辣であるが、以前に礼楽なにものか、と儒家を馬鹿にした棘子成こそ報いではないか。

短い句であるが子貢の人となり、才知の長けたところが伝わってくる。

 

『哀公問於有若曰、年饑用不足、如之何、有若対曰、盍徹乎、曰、二吾猶不足、如之何其徹也、対曰、百姓足、君孰与不足、百姓不足、君孰与足、』

論語 顔淵第十二 9(全文)

 

○「哀公問於有若曰」

▶魯の君主である哀公、孔夫子の高弟である有若に問う。

論語聖徳太子

有若は孔子に風貌が似ていたらしい、学而第一に『有子曰、禮之用和爲貴』(礼の用とは和を以て貴しとなす)とある、この言葉は聖徳太子、十七条憲法第一条の原文でもある。

 

○「年饑用不足、如之何、」

▶(魯の国の君主、哀公、有若に問う)今年は国中が飢饉であり、民が納める穀物が少なくて困っている。何か良い(儒家の)方法はないものか。

❖ 周公旦の教え

本当に困っているのは何方か、かの周公旦が建国した名門、魯の国でも代々の世襲制で引き継がれた君主は、もはや凡庸であり、君主足るに一番大切な思い、民こそ国であることを失念している。

次に有子は滔々と、この思い、そして君主として為さなければならない本質を述べる。

 

○「有若対曰、盍徹乎、」

▶(哀公から飢饉が発生して税が少なく困っている旨、対策を問われて)有若はいう、民には十分の一の税を課しましょう。

❖ 有子の提案

暴政の春秋戦国時代、税は五割を越えることも珍しいことではなく、且つ、農閑期、関係なく強制的な徴兵が行なわれていた。

飢饉なくとも道端には餓死した老人や子供が放置されてる中で、民の税を軽くして飢餓の被害を少なくすべきですと述べる有若、次に哀公は答える。

 

○「曰、二吾猶不足、如之何其徹也、」

▶(飢饉で税収が減り、良い方法はないかを有若に問う哀公、有若は税収を一割にしてはと答える)哀公はいう、税を二割にしても足らないのに、どうして一割に出来ようか。

❖ 人の心を持たない特権階級

要は国や民は君主の為にあると、国が飢餓であっても君主は肥やした家畜に舌鼓を打つのが当然だと哀公は思っている。

特権階級に生まれた世襲エリートは時代変わらず物ごとの本質を見失っている。

国が滅び民が離散して初めて自らの愚かさに気付くのだろうか。

飢饉であれば本来君主が行なわねばならぬことは国の穀物を民に無償で与えることである。

しかし哀公は自分のことしか考えず、飢饉に苦しむ民から税を取るという。故に、次に有若は君主と民は一つであると説く。

 

○「対曰、百姓足、君孰与不足、百姓不足、君孰与足。」

▶有若はいう、民足りて、君主がどうして足らないと言えましょうか、また、民足らずして、君主がどうして足りていると言えましょうか。

❖ 君民一如の教え

国とは民があり、その税収により君主と臣下が成り立つ、民なき国、民なき君臣は、逆はあれどそもそも成り立たない。

国のリーダーとはこの根本の上で政治を行う=民と共に生きる・生きていることを忘れてはならない、時代を越えた政治の本質を有若は述べている。

支配層・特権階級が偉いのではない、国を支えているのは民であり、例えれば羊を安全に導く羊飼いは、羊を安全に導いてこその羊飼いだ、民が飢餓に苦しんでいるのであれば、率先して餓死するのは君主であり、次にその臣下であろう。

ノブリス・オブリージュ(貴族の特権)、高い地位には義務が伴うものであり、義務を果たさない特権階級に、どうして存在価値があろうか。

民こそ立ち上がり、不仁・無能な支配層に対しては石を投げて他国へ追放し、自ら政治を改革する気概を抱くことが当たり前にすら思う。

 

『子張問崇徳弁惑、子曰、主忠信徒義、崇徳也、愛之欲其生、悪之欲其死、既欲其生、叉欲其死、是惑也、』

論語 顔淵第十二 10(全文)

 

○「子張問崇徳弁惑、」

▶子張はいう、自らの徳を高める、そして自らの惑いを解くには、どうすれば良いのですか。

❖ 自らの欠点に悩む子張の問い

論語、先進第十一ー十五にある『過ぎたるはなお及ばざるがごとし』の過ぎたる子張が孔夫子に問うのだ。

才知高くとも(故に)自らの欠点を把握している子張は、おそらくは真剣にこの問いを悩み・検討した上で自らに照らし合わせて夫子に救いを求めている。

夫子はこの愛弟子の足りぬところを十分に理解した上で、この問いの目的である人の惑いとは愛憎にあることを、以下説かれる。

 

○「子曰、主忠信徒義、崇徳也、」

▶孔夫子はいわれた、忠信(自らを誠にして、人から信頼を得る行い)を主として、義(自らの悪を憎み、正していく)を行う、これが自らの徳を高めることだ。

❖ 他人評価ではなく、自らの実践にある

才知高き子張であれば、徳を高める方法は知っている、では何故夫子に必死の思いで問うたのだろうか、実践が足らないのだ。

才知高く言葉に頼る子張、故に高をくくり実践を愚かにし、且つ同じ孔門の弟子たちに好かれない自らを悩んでいる。

夫子は、子張を見事に見抜いている。

次に本題である子張の惑いを明らかにするが、これこそ子張の根っ子であり、愛憎から離れる為には忠信と義の実践しかないと夫子は説かれる。

 

○「愛之欲其生、惡之欲其死。」

▶愛してはその人がいつまでも生きることを欲し、憎んではその人が早く死ぬことを欲する。

❖ 愛憎の裏にあるもの

愛憎により同じ人でも思うことが違う。

愛するとは求めることではない、自らの愛を広げて及ぼすことだ。

また、憎むとは対象が他人であってはならない、自らの悪を憎まなければならない、前に説かれた忠信と義の裏返しとは愛憎に他ならない、と夫子は説かれる。

言い換えれば子張は孔夫子の教えを他人からの評価を上げることとしか見ていない、ではない。

夫子の教えとは内面から押し広げることであり、他人とは思いやる、及ぼすものだ、省みるのはあくまで自らにある。

 

○「既欲其生、叉欲其死、是惑也。」

▶このように、他人の生き死にを(愛憎のままに)欲することを惑いというのだ。

❖ 孔夫子の教え

自らへ共感の有無、好意の有無は、やがてその人の生き死を願うまで至る。

何と恐ろしいことであろうか、自分にとって役に立つ・面白い・胡麻を擂ってくれる人物はいつまで長生きし欲しい。

逆に小言や文句、お説教をする人物は死ねば良い、春秋戦国時代の君主、陪臣そのものであり、時代を批判しているかの様にも思う。

主題は子張の徳を高くし惑いを無くすには、との問いへの回答であるが、時代そのものを嘆き、本来のあるべき姿を述べられているとも解釈出来る。

夫子の説かれる忠信と義とは、小さく叩けば人一人を育て、大きく叩けば社会をも仁政へ導くのだ。

 

『斉景公問政於孔子孔子対曰、君君、臣臣、父父、子子、公曰、善哉、信如君不君、臣不臣、父不父、子不子、雖有粟、吾豈得而食諸、』

論語 顔淵第十二 11(全文)

 

○「斉景公問政於孔子、」

▶斉の君主である景公、孔夫子に政を問う。

【国と人物の解説】

◇斉(姜斉)とは

 * 周の武王が功臣の太公望呂尚)に与えた土地。

 * 現在の山東省一帯に存在した国。

 * 周の初期から春秋時代にかけて栄えた強国。

 * 漁業と製塩で栄え、周の重要な同盟国となる。

 * 桓公の時代に覇を唱え、春秋五覇の一角を担う。

 * 管仲という優れた宰相のもと、国を大きく発展させた。

 * 後に田氏に国を乗っ取られ、滅亡した。

<歴史の流れ

 * 太公望の建国: 周の武王が太公望に与えた土地を基に建国。

 * 周の重要な同盟国: 周の安定に大きく貢献。

 * 桓公の覇業: 管仲の助けを借り、春秋五覇の一人に。

 * 田氏の台頭: 田氏が国の実権を握る。

 * 姜斉の滅亡: 田氏が国を乗っ取り、姜斉は滅亡。

<特徴

 * 漁業と製塩: 立地を生かした産業で国力をつけた。

 * 桓公管仲: 覇業を築いた君主と優れた宰相。

 * 田氏の簒奪: 平穏な終焉ではなく、内紛により滅亡。

<まとめ

姜斉は、周の初期から春秋時代にかけて栄えた強国であり、その歴史は中国の歴史において重要な位置を占めている。

特に、桓公管仲の時代には、春秋五覇の一角を担うほどの強大な国力を持っていた。しかし、その後、田氏の台頭により国を乗っ取られ、滅亡という悲劇的な結末を迎える。

◇景公とは

景公は、春秋時代の斉の第26代君主。

<人物像

 * 晏嬰を重用: 賢臣の晏嬰を宰相とし、彼の意見を尊重。

 * 司馬穰苴を抜擢

: 軍事面では有能な司馬穰苴を登用し、国の力を強化。

 * 贅沢を好む一面: 一方で、私生活では贅沢を好み、暗君として描かれる。

<功績と評価

 * 斉の繁栄: 晏嬰の活躍もあり、斉は桓公の時代に次ぐほどの栄華期を迎える。

 * 孔夫子の憧れ: 斉の治世は孔夫子も注目し、仕官を希望するほど。

<まとめ

景公は、晏嬰という優れた宰相の助けもあり、斉を繁栄させた君主と言える。

しかし、私生活の贅沢や、晏嬰の意見を常に尊重したわけではない点など、複雑な人物像も持ち合わせている。

 

○「孔子対曰、君君、臣臣、父父、子子、」

▶孔夫子はいわれた、君主は君主らしく、父は父らしく、子は子らしくあることが政の本来の姿です。

❖ 君主、理想に向けば国中も理想に向かう

政に妙案もなければ、奇策も無し。

国を成り立たせ繁栄させる王道は、君主は君主らしく、父は父らしく、子は子らしくある、そう各々が主体的に行う、行なわせることが政であると孔夫子は説かれた。

当時の斉は良臣を得て政は上手く行き、国は繁栄をしているが景公は贅沢に溺れている。

果して君主は、君主らしき君主なのですか、と暗に問う意も感じる。

 

○「公曰、善哉、信如君不君、臣不臣、父不父、子不子、雖有粟、吾豈得而食諸、」

▶景公はいう、その言葉や善し、君主は君主らしくなく、家臣は家臣らしくなく、父は父らしくなく、子は子らしくない国ならば、(君主として)落ち着い飯を食うことすら出来まいて。

❖ 政の成否は為政者のあり方、姿勢から

政を問うた景公は、孔夫子の返答が政の王道、国のあるべき姿を述べていることに賛同の意を表す。

そして、一つ一つそうでなければ君主から臣下へ、父へ、子へと不仁も(仁徳と同じ様に)広がる、君主が君主らしくあることが政の眼目であるのだな、と応えている。

晏嬰を重用し、司馬穰苴を抜擢しただけに君主としての能力は備わった人物であることが理解る。