『子適衛、冉有僕、子曰、庶矣哉、冉有曰、既庶矣、又何加焉、曰富之、曰既富矣、又何加焉、曰教之、』
○「子適衛、冉有僕、子曰、庶矣哉、」
▶孔夫子、衛に赴かれときに御者の冉有にいわれた、(衛の国は)人が多く、賑わっているな。
❖ 孔夫子、衛を見る
当時の衛は、肥沃土地に恵まれて農業も盛ん、且つ、交通の要衝でもあり、人口が増加し都市は発展していた。
一方で、人は賑わっているけれども、というニュアンスも「庶矣哉」には含まれている。
また、冉有という、行政手腕に秀でた孔門十哲に入る優秀な弟子を連れて行っている夫子の判断も興味深い。
○「冉有曰、既庶矣、又何加焉、曰富之、」
▶冉有はいう、確かに人は多く賑わっています。では、次にこの国で行わなければならないこととは何でしょうか。
孔夫子はいわれた、民を豊かにする(富ます)ことだ。
❖ 孔夫子、衛を語る
有能な冉有は衛の街を見て気付いている。
確かに賑わってはいるが、民は未だ貧しく、道徳も行き渡るとは程遠い有り様。
故に、冉有は問うた、この衛の国を良くするには何が必要でしょうか、と。
夫子は即答する、まず、民を豊かにしなければならない。
地の利に恵まれてはいても、肝心の政治が後継者問題で乱れ、民は重税に苦しんでいることを夫子は見抜かれいる。
○「曰既富矣、又何加焉、曰教之、」
▶冉有はいう、民を豊かにした後に、行わなければならないことは何でしょうか。
孔夫子はいわれた、民に道徳(先王の教え、忠恕)を教えることだ。
❖ 学問の道
税を軽くするだけでは民に徳は生じない。
故に、礼楽を民に浸透させるのだ。詩経を共に唄い、礼儀作法を教える。
民の間に規律・規範が生じ、音楽により心は和らぐ、国中に道徳が満ちる、一人一人が誠実になり、人を思いやる、何と美しき世界であろうか。
『子曰、苟有用我者、期月而已可也、三年有成、』
○「子曰、苟有用我者、期月而已可也、」
▶孔夫子はいわれた、もし私に国の政を任せる君主がいれば、一年もあれば国全体を正しく出来よう。
❖ 私心なき思い
夫子は私心で大夫になりたいのではない。
苦しむ民、乱れた政治を正したい一心で、「苟有用我者」(もし私を用いる度量ある君主が世の中に現れば)と述べられた。
一年もあればとは、一年一回りで月々、季節、年の物ごとの名分を正す。
国が乱れるとは、名分を疎かにしている故に乱れる、君主は君主の、家臣は家臣の、民は民の行うべきことを成せば、どうして国が治まるのに一年もかかろうか。
【言葉】名分/ 立場・身分に応じて守らなければならない道義上の分限。「—を立てる」「大義—」。
○「三年有成、」
▶更に、三年の月日あれば、国を豊かにして民を道徳に至らせる、十二分な成果を出すことが出来ように。
❖ 孔夫子の政治とは
先の一年で名分を正し、次に学ぶ、省みる、改めるを三年の間に繰り返し行う。
税を下げて3年、民は豊かになり家計に余裕ですら生まれる。
礼楽を教えて3年、民の間に道徳は行き渡り、街や村のあちこちで詩経を唄う声が聴こえる。
賑わっていただけの衛の国は、今や近隣諸国にその仁政が響き渡り、他国の民の羨望の的となっている。
『子曰、善人為邦百年、亦可以勝残去殺矣、誠哉是言也、』
○「子曰、善人為邦百年、」
▶孔夫子はいわれた、古語にある、続けて百年、善人を為政者として国を治めさせることが出来れば、
❖ 先王の時代の比喩
一世代三十年として、凡そ三代、国に善政が続けば、との古語であるが、やはり至難である。
後継者問題もある、血縁では続けて三代、善人(道徳に優れた君子)を出した一族など世界史的にも奇跡に近い。
他人への禅譲にしろ君主を支える(支えた)家臣団の意向もある、単純に善人だから為政者になれるものではない。
故に、この場合の百年は、一時代といった比喩的表現と思われる。
主旨は、百年(一時代・或いは一王朝)、続けて善人(君子)を輩出して、且つ為政者になれる程の国であれば、という帝堯、帝舜、帝禹の時代を述べている。
○「亦可以勝残去殺矣、」
▶民は不仁から遠く(残忍な行いが無く)なり、
もはや国で死刑になる様な罪人はいなくなる、と。
❖ 目的と手段
これは理想論を述べている。先の『善人為邦百年』の比喩しかり、先王の時代でも死刑は無くなることはなかった。
しかし、もし百年、善人(君子)たちによる仁政が行われたのであれば、確実に死刑は無くなる。
目的は天下泰平(死罪を犯す様な罪人は存在しない、君子の徳が全ての民に及んでいる、苦しむ民はいない状態)であり、手段として三代、君子が為政者となれば実現出来得る、との公式を提示している。
○「誠哉是言也」
▶この言葉は、なんと誠であるかな。
❖ 誠と現実
ここで夫子は全面的に(誠であると)この古語を肯定される。
言い換えれば、三代続けて君子である為政者が政治を行えば、儒学の理想世界は実現するのだ。
そこで、三代続けて君子である為政者を輩出出来る状態を、実現する為にはどうするのか。
まず、君子が為政者にならなければならない。
・君子教育の社会的スタンダード化
・トップダウンで社会に仁徳を及ぼせる君子の育成
・全階層での道徳的価値観の浸透
結局、君主になる人間を君子に教育する、或いは天命で生じる運に賭けるかだ。
しかし、特権階級である王族・貴族にすら満足に会えない時代に夫子は生きている。
更に、現実主義を標榜する儒家が、最後には運任せに託ざるを得ない状況も見えてくる。
故に、全てを呑み込まれて夫子はいわれたのだ「誠哉是言也」の意とは、天命に託そう、いつかは儒家の手により天下は泰平となるのだ、と。
『子曰、如有王者、必世而後仁、』
○「子曰、如有王者、必世而後仁、」
▶孔夫子はいわれた、天命を受けし王者と云えども、天下の隅々まで、その仁を至らすには一世代(三十年)かかるものだ。
❖ 次世代へ向けて
夫子は王者(君子)の登場を待ち焦がれ、備えておられた、しかし、結局は夫子の生きた時代には君子は現れなかった。
天命を受けし王者、とは現実主義の儒家的にはオーバーな表現過ぎる、それでもこの表現しか有り得ない。何故ならば、この腐敗した世の中を変えれる選択肢がある人間とは、ごく一握りに限られる。
夫子は悲劇的なのだろうか、否、夫子は幸せなのだ、夫子は天命・君子によって訪れる、次の時代が視えておられたに違いないと思う。
『子曰、苟正其身矣、於従政乎何有、不能正其身、如正人何、』
○「子曰、苟正其身矣、於従政乎何有」
▶孔夫子はいわれた、一身を正しく出来得るのであれば、国の政を行うに何の問題があろうか。
❖ 孔夫子の思い
当然ながら、一身を正しく出来ず、私利私欲のままに政治を行う陪臣たちを念頭に、下克上の世の中を批判されている。
同時に、政治の眼目とは一身を正すことから始まる、まず自らを省みよ、との後世の為政者に向けた夫子の叫びとも読み取れる。
人間を、人間の集団を幸せに導く方法を知っているのに、生まれ育ちからそのステージに立てない。
夫子の本当の狙いは、現代と同じく差別、格差、貧困の解消、誰もが君子(君主)なれる世の中を生み出すことにあった。
○「不能正其身、如正人何、」
▶また、一身を正しく出来得ないのであれば、どうして他の人(民)を正しく出来ようか。
❖ 孔夫子、怒る
民を導く、礼楽を浸透させて、仁徳に満ち溢れた世界を創り出したい夫子。
残念ながら現代は真逆だ。一身を私利私欲に染めた君主が、歪んだ欲望のままに臣下や民を正す。
こんな馬鹿なことが、あってはいけない。
夫子は、ここから更に飛翔される。
君主、王族、貴族も人に変わらないではないか、
全ての人は、学問の道を歩めば、いつかは(内面的には)君子に至る。生まれ育ちで将来が決まる世界とは異なる、道徳の世界を開かれた。
『冉子退朝、子曰、何晏也、対曰、有政、子曰、其事也、如有政、雖不吾以、吾其与聞之、』
○「冉子退朝、子曰、何晏也、」
▶冉有、役所から戻る。孔夫子はいわれた、遅くまで居たのだな。
❖ 言葉の裏にある思い、洞察
冉有という人は、徳高き優秀な夫子の高弟であり、実務家としての冷徹な一面(プロフェッショナル)も備え持つ。
故に、夫子から発せられた「何晏也」、との言葉の意味する夫子の思いは、瞬く間に十分に理解している。
また、夫子も冉有が、自らが発する「何晏也」との言葉で、どう意味を察するのかも分かっておられる。その上で夫子は冉有に声をかけられた。
○「対曰、有政、子曰、其事也、」
▶冉有はいう、政で決めねばならことがありました。
孔夫子はいわれた、それは国の政ではあるまい。
❖ 冉有の思い
冉有の思いは複雑だ。夫子に忠実な高弟であることには変わりはない。
しかし、魯の国は夫子のいう「綺麗事」では不正を正すことは出来ない。
民は苦しんでいる、国を変えるには、まず権力者に取り入り、自らも権限を握らねば、外から正しい言葉を述べても政治は変わらない。
故に、徳高き冉有は蛇蝎の巣に敢えて飛び込んでいる。
今、夫子は正論を述べられているが、世の中は正論だけでは変わらないのです、と。
そして、全てを理解して、夫子は敢えていわれる「其事也」、それが政治ではあるまい、と。
○「如有政、雖不吾以、吾其与聞之、」
▶もし国の政であれば、今や大夫の地位を退いた身とはいえ、君主から(事前に)相談があるのだ。
❖ 孔夫子の教え
冉有よ、政治に「綺麗事」も「地位・名誉」もないのだ。政治には誠あるのみ。
一つで貫く、以外に、どう苦しむ民を救えようか。
手段(季孫氏に取り入る)が、目的と化した冉有を、厳しく問い詰める夫子。
何が目的なのか、権力者に阿るということは、民の信を失うことに等しい。
口で述べるより、季孫氏の無礼、不遜な行いを抑えることこそ、仕える季孫氏の為ではないか、と。
夫子は振れない。常に物ごとの本質を見抜く、為さねばならぬことを愛弟子に教える。