論語憲問第十四(1〜6)〈白文・意訳・所感〉
『憲問恥、子曰、邦有道穀、邦無道穀、恥也、』
論語憲問第十四1(全文)
○「憲問恥、」
▶原憲、恥について問う。
❖ 気骨の士、原憲
常に物静かで、清貧な生活を過ごし、貧しさを恥とも思わない。
思うに原憲という人は、外面は柔らかくも、内面はおそろしく気骨に満ち溢れていた仁者に思う。
その原憲が夫子に恥を問う。
自らに厳し過ぎるきらいのある清貧の士が、更に自らを厳しく律すべく師に恥を問うのだ、
夫子は次に、直接的な恥とは何かは述べられず、敢えて道理が行われているのであれば仕官せよと述べられる。
【人名】原憲(げんけん)は孔夫子の門下三千人の中でも「堂に升り室に入りし者」と称された七十二弟子の一人。
・ 贅沢をせず、質素な暮らしを送った。
・言葉は少なく、落ち着いた性格であった。
金持ちお大臣になった子貢が隠居した原憲の家を訪ねた時のこと、
あばら屋にぼろを着た原憲を見て、なんと貧しさに病んで(苦しまれて)いるのか、と声をかけるも、原憲はいう、
「財産が無い者を貧しいと言い、学びながらそれを行えない事を病む(苦しむ)という。
私は貧しくはあるが、病んでなどいない。
世間の目を気にして行動し、周囲にへつらう者を友とする、
他人に誇る為に学問をし、謝礼の為に他人に学問を教える、
仁義の心を誤魔化し、馬車を立派に飾り立てるといった行動は、私にはとても出来ない」と。
子貢は大いに恥じ入ったという。
✳ウイキペディア参照
○「子曰、邦有道穀、」
▶孔夫子はいわれた、国に道(道徳、思いやりと正しさ)が守られているのであれば、仕官し、俸給を得ることは恥でない。
❖ リアリズムに生きる
心身、潔白である原憲が恐れる、恥と思うことは自らが不仁の行いをする、関わることだ。
しかし、余りにも潔白では、この世に居場所がなくなる。そこで夫子は大きく国に道徳が行われているのであれば、(内部に大小の不仁あれども)仕官するのは恥ではないと説かれる。
何故なら、自らが規範となり、不仁を無くすことも道に通じるからだ。
潔白であろうが、儒家とは現実主義なければならない。
夢幻(理想)の世界を実現する為には、自ら泥を被ることも必要だ、と。
○「邦無道穀、恥也、」
▶一方で、国に道(道徳、思いやりと正しさ)が無い、非道がまかり通るのであれば、仕官し、俸禄を得ることは恥である。
❖ 小人に仕えてはならない
非道・無道の世界(現実世界)では、どう自らを処すれば良いのか。
国ぐるみで各個が私利私欲に塗れ、不仁を行う。
民は苦しむばかりであるが、もはや、そこに士の居場所はない。
速やかに去る、或いは隠居するべきだ。小人の片棒をかつぐなど恥である、と。
更には、(暗に)このような国の表舞台で清廉潔白であることは命の危険に繋がる、と、夫子は原憲の身を心配もされている。
『克伐怨欲不行焉、可以為仁矣、子曰、可以為難矣、仁則吾不知也、』
論語憲問第十四2(全文)
○「克伐怨欲不行焉、可以為仁矣、」
▶原憲はいう、克(人に勝ちたい)、伐(自慢したい)、怨(人を怨むたい)、欲(貪り叶えたい)、これら克・伐・怨・欲を抑えることが出来れば仁なのでしょうか。
❖ 原憲の問い
原憲は自らの内に深く向き合う人だ。
故に、人を小人にする、克・伐・怨・欲を見極めた。
世の中の私利私欲を憎むその思いは、もはや宗教的ですら感じる。
そして、孔夫子にその思いを問うのだ。
しかし、儒学は私利私欲のみは憎むが、後から付いてくる名誉や富は否定しない。
一神教の厳しさよりは、多神教の多様性容認をベースとしている。
一つの神に仕えるのではなく、基本形は先祖崇拝であり、天下泰平を仁徳の広がりにて成そうとする集団なのだ。
故に、次句にて夫子は述べられる。
○「子曰、可以為難矣、仁則吾不知也、」
▶孔夫子はいわれた、人がこれら(克/人に勝ちたい、伐/自慢したい、怨/人を怨むたい、欲/貪り叶えたい)を無くすことは難しい(目、耳、口、鼻、腹から生じるものを無くせはしない)。
故に、この克・伐・怨・欲が無いから仁である、とはいえない。
❖ 儒学とは
儒学とは宗教的ではあるが宗教ではない。
修行を積んで欲求を絶ち、神に仕えることを求めはしない(鬼神を尊ぶも遠くする)。
欲求の元は生身の身体にあり、ここを否定することは人を否定することと等しい。
故に、先王の教え、道徳とは、学問の道を歩んで人そのものを道徳的に昇華させ、仁へ(自らを誠に、人を思いやる姿へ)と至らせる道なのだ。
原憲の資質からくる質問故に、夫子は言葉少なく答えられる。
原憲の望む問いの答えは、孔門では学べないと。
『子曰、士而懐居、不足以為士矣、』
論語憲問第十四3(全文)
○「子曰、士而懐居、不足以為士矣、」
▶孔夫子はいわれた、士でありながらも(天命を投げ出して)故郷に戻りたいと願う、士に値しない人物といえよう。
❖ 誠、一字で貫くべし
周囲が士と呼ぶから士なのではない。自らに下りし天命を受けたからには、一命を落そうとも逃げない、怯まない、臆しない。
ただ、誠を以て一つを貫く、故に士なのだ。
生半可な志を立てて士を自称する、中途半端な学問を夫子は咎めておられる。
『子曰、邦有道危言危行、邦無道危行言孫、』
論語憲問第十四4(全文)
○「子曰、邦有道危言危行、」
▶孔夫子はいわれた、君民共に道徳が大切にされている国で仕えるのであれば、正しい言葉を述べ、正しいことを行いなさい。
❖ 仕官とは
先王の教えを学び、文(経書)に通じ、礼楽を修める儒家の仕え方を述べられている。
省みれば下克上、春秋・戦国時代で国に仕えるとは、理想論だけで済む話しではない。
去年は君民共に道徳が行われる国であっても、来年は、数年後はどうなるか(代替りや、悪臣の跋扈)先行きは分からない。
故に、仕えるということは永続的に続くことではない、と暗に述べてもおられる。
○「邦無道危行言孫、」
▶一方で、君民共に道徳が省みれない国に仕えるのであれば、言葉は慎み、正しい行いは続けなさい。
❖ 夢・理想とリアリズムの狭間
ここで夫子はいわれる、国が、世の中が間違って(不仁・非道徳)いても、行いは正しくあれ、と。
小人が幅を利かせる世の中では、言葉は慎まねば、どのような害を被るか知れたものではない。
故に、隠遁して、正しい行いを守り、次世代に繋げることが大切である、と。
儒学は乱世の世に生まれた学問であると、この句はよく示している。
夢・理想を大切にはするが、一方で現実主義、リアリズムに徹っしなければ全滅してしまう、と。
『子曰、有徳者必有言、有言者不必有徳、仁者必有勇、勇者不必有仁、』
論語憲問第十四5(全文)
○「子曰、有徳者必有言、有言者不必有徳、」
▶孔夫子いわれた、有徳の君子とは、必ずや慎み深く考え抜かれた善い言葉を話されるが、一方で善い言葉を話す人が、必ずや有徳の君子とは限らない(小人こそ言葉を操る、繕う)ものだ。
❖ 孔夫子の教え
・子路第十三27に「子曰く、剛毅木訥は仁に近し」とある。
・学而第一3に「子曰く、巧言令色、鮮(すく)なし仁」とある。
この通り、君子(仁)とは主にするのは行いであり、言葉は行ったことを最小限に述べるに過ぎない。
一方で小人とは言葉を飾り立て嘘を並べてでも人の信頼を得ようとし、如何にも善人である様な顔色を繕う。
夫子は巧言令色の輩を嫌った。
礼儀作法に則った言葉を惜しむのではない、行いを越えて言葉が先走ることを恥とされた。
○「仁者必有勇、勇者不必有仁、」
▶仁者とは、私利私欲なく誠を以て物ごとを成し遂げようとするが故に、必ずや勇気を備える。
一方で勇者とは、(公正無私の勇もあれば)私利私欲からその蛮勇を奮うこともあり、必ずしも仁とは言えない。
❖ 根本の違い
誠一つで貫き通す、故に仁者なのだ。
誠とは何か、公正無私の心で苦しむ民を救う、この一心に他ならない。
一方で勇者とは、その勇は尊い、しかし何にその力を使うかで、公正無私にもなれば私利私欲にもなる。
仁と勇でが根本が異なることを夫子は述べられている。
『南宮括問於孔子曰、羿善射、奡盪舟、倶不得其死然、禹稷躬稼而有天下、夫子不答、南宮括出、子曰、君子哉若人、尚徳哉若人、』
論語憲問第十四6
○「南宮括問於孔子曰、」
▶弟子の南宮括、孔夫子に問う。
❖ 徳を問う南宮括
公冶長第五2に「子、南容を謂わく、邦に道あれば廃てられず、邦に道なきときも刑戮に免るべしと。その兄の子を以てこれに妻す」とある。
南宮括という人は、乱世・治世、共に処世に長けた(敵をつくらない)、礼儀正しく、慎ましく、穏やかな性格の人であり、
一説では魯の三家老に数えられる孟孫氏の子であったらしい。
その人が孔夫子に人の徳を問う。
○「羿善射、奡盪舟、倶不得其死然、」
▶羿は弓の名人で、奡は陸で舟を動かすほどの怪力でしたが、二人とも非業の死を遂げました。
❖ 南宮括の確認1
南宮括は、問うと最初に述べながら、過去の暴君を述べて、何も問わない。
これは、問うというよりは、勇に優れていても仁徳無き人は、結局はこう(非業の死)なりますね、との確認だ。
そして、この確認から、南宮括は原典である楚辞をしっかりと学んでいることが伝わってくる。
【人名】羿(げい)は、中国神話に登場する人物。弓の名手として活躍したが、妻の嫦娥に裏切られ、最後は弟子の逢蒙によって殺された。✳wikipediaより抜粋
【人名】澆(ぎょう)は、古代中国の人物。
澆は大変力持ちで、水のない陸地で舟を引き摺る事ができた。父が夏王位を簒奪していた影響で過(現在の山東省萊州市の北西)に封じられた。
夏王家の遺児である少康や伯靡や有仍氏を始めとした夏王朝の生き残りが挙兵した際に、妻の女艾は少康と通じ、少康が狩りをしていた際にその猟犬が澆を見つけ出し斬り殺された。
✳wikipediaより抜粋
○「禹稷躬稼而有天下、」
▶禹と稷は自ら田畑を耕す人でしたが、天下を治め、二人とも偉大な業績を残しました。
❖ 南宮括の確認2
更に南宮括は、仁徳の高み、儒家至高の存在である帝禹と稷のことを述べる。
ここも問いというよりは、仁徳の優れた人とは、何と素晴らしいことでしょうか、との感動を夫子伝えている。
更に、禹と稷が登場する原典である書経を、南宮括はしっかりと学んでいることも伝わってくる。
【人名】禹(う)は、中国古代の伝説的な帝で、夏朝の創始者。夏王朝創始後、氏を夏后とした。大河の治水(黄河とも云われる)を成功させた伝説的人物。
✳wikipediaより抜粋
【人名】后稷(こうしょく)は、 中国古代の伝説的な人物で周王朝の祖先とされる。 農業の神として崇拝された。本名は棄であるが農業を司る者という意味で后稷と改名された。
業績として農耕技術の発展に貢献し、 人々に穀物を育てることを教えた。
周王朝では祖先として祀られ、農業の神としても信仰された。
✳wikipediaより抜粋
○「夫子不答、南宮括出、子曰、君子哉若人、尚徳哉若人、」
▶孔夫子は答えられず(穏やかな笑顔を浮かべられた)、南宮括が退出した後、孔夫子はいわれた、かの若者、何と君子であることかな。かの若者、何と徳高きことかな。
❖ 南宮括の学問
魯でも有数の貴族の子弟である南宮括の学問は、貴族の嗜み程度ではなく、経書に真摯に向き合った積み重ね、仁徳の広がりが態度や言葉に溢れ出ていた。
故に、夫子は南宮括に言葉を用いず(穏やかな笑顔を浮かべられて、答えとした)、本人が退出したのちに、南宮括は君子であるな、と褒められた。