論語憲問第十四(7〜12)〈白文・意訳・所感〉
『子曰、君子而不仁者有矣夫、未有小人而仁者也、』
論語憲門第十四7
○「子曰、君子而不仁者有矣夫、」
▶孔夫子はいわれた、君子といえども、不仁の行いが皆無という訳ではない。
❖君子も人間だ
私たちは人間なのだ、どうして24時間、鉄人(仁徳)二十八号の様なマシーンで居られようか。
現実主義的でもある。
儒学とは人間を、その人のアイデンティティを解放する学問であって、量産型金太郎飴の様な善人を生産するものではない。
要は、学問の道を歩み、自らの仁徳を広げ、周囲へ及ぼし、天下を泰平にする為に君子は
存在する。
不仁の行いが皆無であるか、皆無でないか、ではなく自らを誠にする、人を思いやる、実践することが儒学の眼目だ。
故に、夫子自ら君子にも不仁はあると公言された。
○「未有小人而仁者也」
▶一方で、小人で仁者であることは無いものだ(小人は、仁徳の行いをしても根本には私利私欲があり、大概が富や名声を得んが為に他ならない)。
❖小人という人間
私利私欲を根本としている小人の善行動とは、やはり私利私欲を満たす為か、自らの弱さを隠す為の八方美人的行動に他ならない。
仁者の行いを小人でも真似ることは出来る。
しかし、公正無私の目的が無い為に、所詮は真似に過ぎず、瞬く間にボロが出る。
更に、慎重に隠し通せたとしても、結果、誰が得をしたのかを省みれば一目瞭然。
故に、夫子は小人に仁無しと公言された。
『子曰、愛之能勿労乎、忠焉能勿誨乎、』
論語憲門第十四8
○「子曰、愛之能勿労乎、」
▶孔夫子はいわれた、愛するのであれば、労を取らせて鍛えずにいられようか。
❖命懸けの時代
憎んで労を取らせている訳ではない、労を踏まねば得ることが出来ないからだ。
言葉のみで夫子と共感・共鳴、習得出来たのは天才・顔回のみ。
夫子は弟子の個性に合わせて労をかけ、育てられた。
門弟に対する夫子の教育愛の強さも伝わってくる。
時は下克上、乱世の時代に仁徳の広がりを以て世の中を変えようとする孔門の徒とは、子路の例に漏れず常に命懸けであり、夫子自身、幾度も危機を乗り越えられた。
○「忠焉能勿誨乎、」
▶そして、思いに誠があるのであれば、先王の教え、学問の道を教えずにいられようか。
❖学問の眼目
夫子の学問の眼目とは、公正無私の誠を抱けるかだ。
孔門三千人といえども、誠を抱けたのは四配、十哲、七十子までではないか。
それだけに、誠を抱けた弟子に対する夫子の思いは強く、時に激しく叱咤激励された。
『子曰、為命卑甚草創之、世叔討論之、行人子羽脩飾之、東里子産潤色之、』
論語憲門第十四9
○「子曰、為命卑甚草創之、」
▶孔夫子はいわれた、鄭の外交文書は、卑甚が草稿を書く。
❖夫子の人物評1
【国名】鄭(てい)
* 春秋戦国時代の諸侯国の一つ
* 都は新鄭(しんせい)
* 地理的に重要な位置にあり、多くの国と国境を接していた
* 政治的に不安定な時期が多く、他国に滅ぼされたり、再興したりを繰り返した
* 鄭国の人々は、音楽や文学で知られていた
【人名】裨諶(ひしん)
* 春秋時代の鄭国の大夫: 鄭国という国の役人として活躍した。
* 論語に登場: 孔夫子が彼を称賛しており、論語の中でも有名な人物の一人。
* 外交文書の作成: 鄭国の外交文書の作こ成に携わり、その才能が認められた。
* 子産との協力: 同時代の政治家、子産とともに鄭国の政治を支えた。
* 文才と政治力: 文才に優れ、政治的な洞察力も持ち合わせていた人物として知られている。
○「世叔討論之、」
▶世叔がこれを検討し、
❖夫子の人物評2
【人名】世叔(せじゅ)
* 鄭の国の家老の一人:子産が鄭の政治改革を行った際に、裨諶が草案を創り、世叔がその適否を討論したという記述から、世叔は鄭の国の重要な役職に就いていたことがわかる。
* 政策立案に関わる人物:裨諶が作成した草案について、世叔が討論を行ったことから、政策立案の段階から深く関わっていたことがわかる。
* 慎重な性格:討論を担当していたことから、慎重な性格で、政策の是非を冷静に判断する能力を持っていたと考えられる。
○「行人子羽脩飾之、」
▶外務の子羽、これを添削し、
❖夫子の人物評3
【人名】子羽(しう)
* 外交官: 鄭国の外交官として活躍。
* 文章の修飾: 国の外交文書を作成する際、草案を修飾する役割を担う。
○「東里子産潤色之、」
▶東里に住む子産、原文を潤色した。
❖夫子の人物評4
【人名】子産(しさん)
* 名宰相として孔子に評価された。
* 四つの君子之道を実践: 孔子は、子産が君子が政治を行うために必要な四つの道(恭、敬、惠、任)をすべて実践していたと評している。
* 成文法の制定: 中国史上初めて成文法を制定し、鄭の国力を増強させた。
* 外交手腕: 晋と楚という二大国の間に挟まれた鄭の国で、巧みな外交手腕を発揮し、国を安定させた。
『或問子産、子曰、恵人也、問子西、曰、彼哉、彼哉、問管仲、曰、人也、奪伯氏駢邑三百、飯疏食、没歯無怨言、』
論語憲門第十四10
○「或問子産、子曰、恵人也、」
▶ある人、鄭の子産について問う。孔夫子はいわれた、恵み深い人です。
❖夫子の人物評4と同じ
○「曰、彼哉、彼哉、」
▶次に楚の子西について問う。孔夫子はいわれた、あのの人ですか、あの人ですな。
❖夫子の人物評5
【人名】子西(しせい)
* 楚国の公子。字は申能。
* 楚王が亡くなった際に、昭王を立てて政治改革を行い、一定の成果を上げた。
* 楚の国が王を僭称することを止められなかった。
* 昭王が孔夫子を登用しようとしたが、子西がこれを阻止した。
* その後、白公を召し用いたことで、楚に禍乱を招いた。
○「問管仲、曰、人也、」
▶次に斉の管仲について問う。孔夫子はいわれた、かなりの人物です。
❖夫子の人物評6
【人名】管仲(かんちゅう)
* 多才多能: 政治手腕だけでなく、経済や軍事にも長けていた。
* 高い評価: 桓公が諸侯をまとめ上げることができたのは、管仲のおかげであると。
* 低い評価: 礼を知らぬ者、器が小さい者と。
○「奪伯氏駢邑三百、飯疏食、没歯無怨言、」
▶管仲は、伯氏の領地、駢邑の三百戸を奪うも、以後伯氏は貧しい生活を過ごすも、終生、怨み言を言うことはなかったからだ。
❖管仲の功罪
桓公の宰相として辣腕を振るった管仲ではあったが、結果、戦乱の世の中は安定したのだ(故に伯氏は領地を奪われても、怨み言を言わなかった)
『子曰、貧而無怨難、富而無驕易、』
論語憲門第十四11
○「子曰、貧而無怨難、」
▶孔夫子はいわれた、貧乏、貧困の立ち場で怨み言を言わないことは難しいものだ。
❖無理は無理、だから挑む
乱世に夢・理想(先王の教え、徳治主義)を説く夫子であるが、同時に現実主義、リアリストでもある。
現実は現実だ、困窮する生活を過ごしながら先王の教えや忠恕を行える者の少ないことを、同じく孤児として困窮した生まれの夫子だからこそ、実感されている、認める。
論語が二千五百年間、人類に読み続けられてきた理由は、この現実主義、
『子曰わく、貧しくして怨(うら)むこと無きは難(かた)く』という言葉からも伝わってくる。
無理は無理と認めることから、次がある、次に繋げる、諦めないことが夫子の教えなのだ。
○「富而無驕易、」
▶一方で、富や名声を得た者の傲慢とは、本来であれば、そうならないことは易しいものだ。
❖夫子の思い
貧困と富裕、相反する世の中の不合理、方や貧しくては怨み言を止めれない、方や金持ちでは驕慢であることを止めれない。
貧困であることを解消する、或いは貧困のままで道を楽しみことは難しい。
しかし、傲慢にならないことは当人の心に原因があり、そうならいことは易しいし本来のあるべき姿のだ。
と、この時代の王族や貴族の傲慢に対して不満を述べられてもいるし、大きく視れば人間とは本来、平等であるという思いも伝わってくる。
『子曰、孟公綽為趙魏老則優、不可以為膝薛大夫也、』
論語憲門第十四12
○「子曰、孟公綽為趙魏老則優、」
▶孔夫子はいわれた、魯の孟公綽は、趙・魏といった大国の家老ならば、優れている。
❖治世の能臣
孟公綽は知識・教養に富み、礼儀正しく、温厚で血筋も尊い。
安定した(波乱の少ない)大国であれば家老として恙無く、慎ましく役割を担える人物であると、長所を述べられた。
【人名】孟公綽(もうこうしゃく)
* 孟公綽は、魯の貴族の家臣で、大夫の家柄である孟孫氏の出身。
* 季孫氏の家老として仕えていた。
* 孔夫子は、孟公綽が季孫氏に仕えるにあたり、過度に謙譲であると評している。
* 孟公綽は控えめで穏やかな性格だった。
○「不可以為膝薛大夫也、」
▶しかし、膝・薛のような小国では、とても家老は務まるまい。
❖乱世の忠臣
一方で、乱世の世の小国とは、常に亡国の危機に晒されている。
礼儀正しく、穏やかなだけではなく、間違っていることであれば、一身省みることなく君主に忠告出来る気迫、行動力、果断な決断力が家老に求められるが、
穏やかで礼儀正しいだけの孟公綽では、とても無理であろうと夫子は述べられている。