四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

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三行詩 第百三十章(郷党第十②)

○日曜日の午後、3月10日、森

 

揖所与立、左右其手、衣前後譫如也、郷党篇三

 

(朝廷で)同役の人たちに挨拶をされるときは、両手を胸の前で組み合わせて、左に向き、次に右に向き、少し上にあげる動作をされた。礼服の裾の前後は整然と揺れ動き、寸分も乱れない。

 

「孔夫子の身長は2m16cmとされ、文武両道と見事な礼儀作法、朝廷での礼装がさぞかし映えられたのではないか、イメージ的にやや被る、後の三国志に登場する関羽が1m86cmとか、共に中国では信仰の対象とされた」

 

#論語

 

○日曜日の夕方、マクド

 

「調子が悪いときには荻生徂徠先生の論語徴がよい」

 

「現代語訳はないが内容は論語に変わりない、名文なので字を追いかるだけでも楽しい」

 

「去年から徂徠先生の古書をこつこつと集めている」

 

#三行詩

 

○月曜日の朝、通勤

 

趨進翼如也、賓退、必復命曰、賓不顧矣。郷党篇三

 

(朝廷で)賓客を案内するときは、小走りで両肘を外に出し鳥のように袖を広げられた。賓客が退出されたときは、後ろを振り返らなくなるまでお見送りをし、賓客がお帰りなったことを君主に復命された。

 

「孔夫子の巨身で、袖を左右に広げて鳥の様に小走りに賓客を案内されたとある、鳥は鳥でもオオワシのような風格であられたのではないか。現代とは作法が異なるも、遡れば周王朝、堯帝や舜帝の朝廷での礼儀作法もこのような形であったのであろうか、と思いが広がる」

 

#論語

 

○月曜日の夕方、通勤

 

入公門、鞠躬如也如不容、郷党篇四

 

宮廷の一番外の門である公門に入るときには、身をかがめて恐れ慎み、自らの身体が入りかねないような敬虔な態度をとられた。

 

「宮廷での礼儀作法とは、一番外の門から始まる。心と作法が適ってこその礼といえる」

 

#論語

 

○月曜日の夜、自宅

 

「米国五十年代〜のSF小説群が大好きだ、若い頃は貪り読む」

 

「心残りがある、小説は読んだが宇宙物理学も天文学も知らない」

 

「宇宙物理学、天文学レビュー上位から二三冊選んで読んでいる、この本は明日くる、楽しみだ」

 

#三行詩

新・天文学事典

 

○月曜日の夜、自宅

 

Kindleで読む、ベストセラーだけはあり、面白い」

 

「面白いが半分、物足りないが半分、入門書としては良書だ」

 

「ワクワクする、天文学、宇宙物理学に魅かれている、寒空の下、窓を開けて星を、宇宙を観ている」

 

#三行詩

図解 宇宙のはなし

 

○火曜日の朝、通勤

 

立不中門、行不覆閾、郷党篇四

 

門の中央には立たず、門を通るときは敷居は跨いで通る。

 

「門の中央は君主の通るところ。敷居を踏まない理由は諸説あり、現在の日本でも行われている」

 

#論語

 

○火曜日の朝、乗り換え

 

「日本でも行う敷居を跨がない風習は、古代中国、二千五百年前の孔夫子もされていた」

 

周王朝、或いは堯帝、舜帝(BC3800頃)まで遡れるかも知れない」

 

「境界であるとか、家主の頭とか、物理的に良くないとか、正直、理由が良く分からない」

 

#三行詩

 

○火曜日の夕方、通勤

 

過位色勃如也、足攫如也、其言似不足者、郷党篇四

 

君主の御座所に近づけば(不在であろうとなかろうと)顔色を改めて、(緊張のあまり)小刻みに慎んで歩く。堂に至るまで(恐れ多くて)言葉を発せられないかのように寡黙する。

 

「ふと日本のブラック企業を思う、大なり小なり共通項が多いのではないか。勿論、孔夫子は君主を尊ぶという心が動作(礼儀作法)となっている。ブラック企業は、経営者を恐れる恐怖でこのような動作となる、尊ぶ心もなく、社長に対する憎しみと怒りが根底にある」

 

#論語

 

○水曜日の朝、通勤

 

攝斉升堂鞠躬如也、屏氣似不息者、郷党篇四

 

宮廷の(君主がいる)堂に昇るときは、衣服の裾を持ち上げ、(恐れ多くて)身体を丸くし、息をひっそりと行って(恐縮のあまり)呼吸すら出来ないように見せる。

 

三国志関羽雲長より大きい、文武両道、各国に聖人として名声を馳せた孔夫子が宮廷ではこのような態度を取られたのだ。私が君主であれば鷹揚に頷くなどとても出来ない、格の違いに真っ青になったに違いない。ある意味、孔夫子の君主になるとは大変なことだと思う」

 

#論語

 

○水曜日の朝、乗り換え

 

「(アトピーで)具合が悪いので明日は休もう、今日は昼から帰ろう、と思いつつ水曜日も普通に出勤している」

 

「元ブラック務めは、有給に禁忌感がある、許されざる者よと」

 

「理由に『私用』は許されない、壮大な悲劇を歌わねばならぬ、その上でも『職場に迷惑をかける』と恐縮し、身体を丸くして恐れ慄く、フリをせねばならない、仮面を被るのだ」

 

#三行詩

 

○水曜日の午前、一休み

 

「社員の、社員による、社長のための奉仕、こそブラック企業の基本原理だ」

 

「社長とその一族を幸せにする為に、社員は命をかけて家族も犠牲にして働く」

 

「フレンドリーな会社とは、対象が社長とその一族に限られる、社員が含まれるなど聞いたことがない」

 

#三行詩

 

○水曜日の夕方、通勤

 

出降一等、逞顔色怡怡如也、郷党篇四

 

(君主とお目見えして)堂上から退いて階段を一段降りると、顔色を和らげ、(役目を終えて)晴れやかな様子を見せる。

 

「前を向いて階段を降りるのか、君主に背中を見せないように後ろ向きに降りる(危ない)のか、よく分からない(高さしだいかも)。現代では分かり難い句であるが、よく考えればブラック企業の社長室へ向かう、報告する、退出する感覚であれば、理解しやすいかも知れない」

 

#論語

 

○木曜日の朝、通勤

 

没階趨進翼如也、復其位叔昔如也。郷党篇四

 

(君主のいる堂の)階段を降りると、両袖を鳥の様に張り、小走りにて自席に戻る。そして、恭しく控えているように見せる。

 

「両袖を鳥の様に張り小走りをするとは、光景が見えない、少なくともコサックダンスとは異なると思う」

 

#論語

 

○木曜日の朝、乗り換え

 

「昨夜、ゾンビたちに論語の説明をする夢をみた、不真面目なので壇上にて演台を大きく叩く」

 

「義とは、あくまで自らの悪を憎むことです、他人の悪を憎むことではありません」

 

「壇上を降りたあと、聴衆であるゾンビたち反り見ると相変わらずゾンビだ、そこらで目が覚めた(意味不明)」

 

#三行詩

 

○木曜日の夕方、通勤

 

執圭鞠躬如也、如不勝、郷党篇五

 

(天子が領土を与えた証拠として、諸侯に与えた宝玉のついた王笏とされる)圭を受けとる(君主の代理人として他の諸侯の国へ訪れる)ときには、身を丸くかがめ、圭の重さに耐えられないように見せる。

 

「杖は古くから権威の象徴、ペルシャ王の王笏については旧約聖書エステル記にも記述がある。古代ギリシアの笏は長い杖で、アガメムノーンが振るった杖、長老らが使った杖がある。その後、裁判官、軍司令官、神官などが権威の象徴として使うようになった。参考Wikipedia

 

#論語

 

○金曜日の朝、通勤

 

上如揖、下如授、郷党篇五

 

圭(王笏)を高く捧げ持つときは、揖の礼(小揖は15度、深揖は45度のお辞儀)をする高さにし、低く下げるときは、人に物を丁寧に授ける時の高さにする。

 

「具体的、且つ筋道を追って、王笏を取り扱うときに必要な礼儀作法が述べられる」

 

#論語

 

○金曜日の朝、乗り換え

 

「混み合う電車の中を、回遊魚のように移動する人たち、高が車両一台分を移動して何のメリットがあるのだろう」

 

「通路に立つ乗客たちを押しのける、そして都度、押し退けられる(常に立ち位置はここ)自分がいる」

 

「ひょっとして、肥満していることに注意を促す健康神(?)のお告げかも知れない、彼(彼女)ら、電車内回遊乗客は神の使者なのだ。そういえば、ドンと当たり、相手が横にずれると使者たちは皆、満足そうな笑みを浮かべている。神の意を叶えて祝福を受けているのだ、もはや光り輝き神々しくもある」

 

#三行詩

 

○金曜日の午前、通勤

 

勃如戦色、郷党篇五

 

(君主の代理として赴く)緊張した様子、(その責任の重さに)恐れおののく様な顔色を見せる。

 

「礼儀作法とは、時と場合、場所に合致した思い、行いをいう」

 

#論語

 

○金曜日の午前、乗り換え

 

「会社を早退する、アトピー具合悪し、広範囲の痛みに脳みそが縮む気がする」

 

「冬眠しよう、肌の回復を待とう、じっとするのだ」

 

「ホームには観光客の行列、なんとなく国破れて山河ありと呟く、次に、城春にして 草木深しと思う、 杜甫は良いものだ」

 

#三行詩

 

 

○金曜日の午後、梅田

 

「古本街にて購入、東洋文庫版の前に読んでみよう」

 

平凡社の中国古典体系は比較的安価で入手可能なので重宝している」

 

「世界での旅が好きだ、独り旅が好きだ、元バックパッカーの血が滾る」

 

#三行詩

中国古典文学大系〈22巻〉大唐西域記 (1971年)

 

○土曜日の夜、自宅

 

「今、尚、年1,600万本の杉の苗木を植え続ける林野庁こそ、解体してはどうか」

 

「1割は花粉の少ない品種改良杉だ、予算(税金)が足らないから花粉大量発生の杉を今年も植林する」

 

「狂気としか思えない、わざとこの国に花粉症を蔓延させている、政治家も見て見ぬふり」

 

#三行詩

 

○土曜日の夜、自宅

 

「(農林水産省)林野庁の花粉発生源対策とは」

 

「(ア)花粉を飛散させるスギ人工林の伐採・利用と植替えの促進(イ)花粉の少ない苗木の供給拡大(ウ)花粉飛散抑制技術の開発」

 

「でも、花粉大量発生杉の苗木の植林は継続します。林野庁は狂っている、例えれば火を消そうとして、油も撒いているとしか思えない」

 

#三行詩

 

○土曜日の夜、自宅

 

「単純に花粉杉を切れないのは理解出来る、森を守ることは国益(国土の土砂崩れを防ぐ、水源地の確保、二酸化炭素の吸収、etc…)といって良い」

 

「問題は、花粉症が国民病になって尚、十年前も去年も今年も(来年も)、ずっと花粉杉の植林を千万本単位で継続していることだ」

 

「杉や檜、以外に林野庁は木を知らないらしい、今は戦後ではない(杉や檜の材木が品不足で経済が停滞しているとか、真逆だ、余りに余っている)、林野庁はいつまで昭和のままなのだろう」

 

#三行詩

 

○日曜日の午後、自宅

 

足縮縮如有循也、郷党篇五

 

(宮殿での)足運びは歩幅を小さくしてすり足で歩むように見せる。

 

「時代劇で江戸城内を歩むようなイメージだろうか」

 

#論語

 

○月曜日の朝、通勤

 

私覿愉愉如也。郷党篇五

 

(公式の享礼が終り、使者が自身の土産物を捧呈する私的な儀式である)私覿になると、笑顔を浮かべて、如何にも楽しそうに見せる。

 

「使者としての公私の区別と、訪問した国を個人的には好んでいるという態度を取る、心憎い気配りと思う」

 

#論語

 

○月曜日の朝、電車内

 

「ずらっと乗客が座っている、左端の男性が咳をする」

 

「すると横の女性も咳、つられて二つ先の男性も咳、まるで鍵盤のようだ」

 

「なんとなく思った、カエルの歌が、聞こえてくるよ、ゲロッゲロッゲロッゲロッ ゲロゲロゲロゲロ グワッグワッグワ」

 

#三行詩

 

○月曜日の朝、乗り換え

 

「車内、車掌室から大声で笑う声、横の女性二人は各駅の特色について話している」

 

「ホームは冷たい風、観光客の浮かれた会話と通勤客の沈黙」

 

「再び車内、中高生の笑い声が響く、進路、友人の噂、朝飯は何を食べたか、野球、向こうで英語が聞こえる、眠気がする」

 

#三行詩

 

○月曜日の午前、通勤

 

君子不以紺取飾、紅紫不以為褻服、郷党篇六

 

孔夫子は時、場合、場所に適した服装を着るように注意を払われた。物忌みの色である紺や、喪明けを示す色である赤茶色の布で襟や袖口を飾ったりはしなかった。

 

「贅沢な服装ではない、TPOをわきまえた服装を礼節とされた」

 

#論語

 

○月曜日の午前、通勤

 

「仕事の段取りを終わらせ、あとは部下に任せて退勤する、アトピーでボロボロだ」

 

「少し出るのが遅れた、午前の診察は厳しいかも」

 

環状線は満員、スペイン語が聞こえるので後ろを向くと2m越えの外国人の背中あり」

 

#三行詩

 

「電車のつり革をつるす棒が耳の位置にある、これは大きい」

 

「白人男性、30代、髭を生やし、ベビーカーを守っている」

 

「前に口を抑えず咳をし続ける人あり、白人は不快な顔をしている、赤ちゃんはきょとんと」

 

#三行詩

 

月曜日の午後、薬局

 

「病院での診察終わる、かなりアトピー酷く、肌の炎症凄まじい、ステロイドを薦められる」

 

「断わる」

 

「抗菌剤の服用で様子見する、ここまで酷いと痒み発作は意思では抑えられない、入院か」

 

#三行詩

 

○月曜日の午後、ランチ

 

餃子の王将でヤケ食い中、餃子定食にニラレバ炒め、鶏の唐揚げに王将ラーメン」

 

「食欲がある限りは、病気(アトピー)と戦える」

 

「最新の医療情報の収集、対アトピーの戦略と戦術を練っている、目的と目標の再設定中」

 

#三行詩

 

「何ごとも論理的に進めること、トライ・アンド・エラー、PDCAを回すことに仕事も闘病も変わりなし」

 

「目的を更新、闘病へ変更、目標を、まず痒みで掻かないことへ」

 

「あとは、ひたすらPDCAを回すだけだ、片っぱしからプランを立てていく、失敗から学べる、さあ、論理的に進めよう」

 

#三行詩

 

〈お知らせ〉

持病(アトピー性皮膚炎)の悪化により、しばらくXのポスト、及びブログ『四端録』はお休みします。

2024年3月19日 aristotles200、記す

 

所感)

アトピー性皮膚炎の治療に関しての覚書

アトピー具合悪し、会社を早退する日もあり。

真夜中に肌を掻き壊し、自室床に積もる落屑を見るのは久しぶりだ。

花粉との因果関係が年々悪化に向かう原因のように思える。

 

アトピー治療7原則

①水分量摂取制限、1日1,100ml(max900)以下

②痒いときは掻く

③シャワーを出来る限り短時間へ

④継続的な運動

⑤掻き壊した箇所にはガーゼを紙テープで止める

⑥精神的に参らないこと(ストレス発散)

⑦脱ステロイド、脱保湿治療(✳)

✳阪南中央病院皮膚科部長、佐藤健二先生

 

日常生活を過ごす方が予後が良い。肌を掻き壊したから会社を休み、終日布団で過ごしても、掻き壊す回数が増え、翌日の出勤を思い精神的に堪えることが多い。

今回のアトピー悪化は花粉が原因であり、日にち薬で必ず良くなる。

 

36歳のとき(2月末から悪化し、3月末で欠勤が続き、4月半ばから休職、5月初から入院)のような、大リバウンド(入院53日+自宅養療48日)と同じ経緯を辿らないこと。

・保湿剤の多用はしない

・繰り返しシャワーを浴びない

・水分の大量摂取(アルコール飲料)をしない

三行詩 第百二十九章(子罕第九②)

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○月曜日の朝、3月4日、通勤

 

子曰、可与共学、未可与適道、子罕篇三十

 

孔夫子はいわれた、共に学問を行うことは出来よう、しかし同じ学問の道を歩むことは出来ない人もいる。

 

「志や学問に対する思いが異なれば、孔門を叩いた時は変わらぬも学問が進めば次第に溝が広がる人もいる、悲しいことだ」

 

#論語

 

「学問の道とは、学問をすることが目的ではない」

 

「学問をして、自らを磨き上げる、故に道なのだ。自らの学問を誇ってどうするのか」

 

四書五経を読んだ、全て写経した、良いことだが、それを誇るより学んで何を得たか、省みたか、改めたかが眼目だ」

 

#三行詩

 

○月曜日の朝、一休み

 

素読という勉強方法がある、短期的には意味不明であるが、長期的には真に良いものだと思う」

 

「これまで東洋思想なら歎異抄孟子、西洋思想なら自省録、論理書簡集Ⅰ、Ⅱといった、自分の中で随一と思う本を素読してきた」

 

「今回、初見である孝経を素読している、素読という勉強方法を強化してどのような結果となるか、検証したい」

 

#三行詩

 

○月曜日の午後、二休み

 

「例えば内閣支持率が最低を更新する、を民意と報道するも、誰も○国の庇護を離れよ、とは言わない」

 

「良い悪いは抜きにして、報道とは、既に思想忖度された民意を語る動画再生(YouTube)と変わらない」

 

「日本の報道は全て同じ方向だ、船団型というか、一糸乱れぬ戦前、戦中報道と似ている、数社くらい内閣支持率は孤高の境地を彷徨うとか、褒める(?)報道があってもよい(今の内閣を支持する、支持しないは置いといて)」

 

#三行詩

 

「要は、思想忖度の余地がある出来事に、最初から民意の決定であるかの様に全社一律報道をする現実だ」

 

「私は独善で偏固者、故に間違っているのだ」

 

「周囲と同じように、マスコミの報道する勧善懲悪に一喜一憂し、皆と同じことを言う方が安全なのだ、そういう世界、そういう時代になりつつある」

 

#三行詩

 

「故ナワリヌイ氏は、最果ての地、北極圏の刑務所でプーチン大統領の演説を繰り返し強制視させられたとか」

 

「ある意味シュールであり、スターリンの時代を思い起こす」

 

「日本でも、いつ始まるのか怪しいものではないか、TVの前で1日中、民放とN○Kを強制視聴させられる、ああ、既に済みか」

 

#三行詩

 

「政治は空洞化し、民意を語るマスコミは無双、民衆はポピュリズムに熱狂する、アジテーター(煽動者)の時代来たれり」

 

「までは、まだ至ってはいない」

 

「歴史は繰り返すがこんな歴史は御免被りたい、日本の良識的な知識層は沈黙、拝金事なかれ主義層は迎合、要は、普通の市民が自ら意思を持たねばならない」

 

○月曜日の夜、自宅

 

「不思議だ、資源ある大国を外部から倒せたことは少ない、全て内部崩壊であることは高校の世界史Bにすら書いてある」

 

「防衛側には防衛に必要な兵器を渡し、国内の反政府派に莫大な支援をするのが定番だ、欧米はその手法に精通している(過去も現在も繰り返している)」

 

「現代にも明石元二郎大佐の如き人物はいるはずだ、内部崩壊に仮に100億ドルを費やせるのであれば戦争はもう終わっている。であれば欧米の事情、欧米軍需コングロマリットの意向とか、下衆の勘繰りが広がる」

 

#三行詩

 

「結局、誰が儲けているのかが戦争を紐解く方程式であることは歴史が証明している」

 

「私は孫子の兵法のド素人だが、今回の戦争は変だ、欧米側は金を湯水の如く使うも、長期的戦略が見えない」

 

「戦争とは悲惨なことであり、一片の正義もない、常に弱者が蹂躙され虐殺される、悪の中の悪だ」

 

#三行詩

 

「独裁者とは、自国の若者の戦死に心痛むことはなく、自らの権威や地位を守る為なら国を売り渡そうが平気な類の畜生だ」

 

「故に、外敵に敗れる状況とは、国全て(市民の犠牲、都市の破壊)が崩壊してからという悲惨な事態となる」

 

「独裁者が一番怖れるのが国内の反政府派、反乱分子、敵国との内応者であり、自分にとって何者が一番危険であるか、独裁者が一番知っている」

 

#三行詩

 

「故に、まともに戦争で倒そうとする(撤退させようとする)ことが上手くいくわけがない」

 

「相手は今畜生だが、その代わりに独裁者を倒せば、状況は変わる」

 

「やはり、革命、反乱は進行中なのだ、独裁者の次にまた独裁者が来ようが今よりましと信じて、歴史は繰り返すのだろう」

 

#三行詩

 

「ロシアがアメリカの大統領選に介入して、アメリカがロシアの反政府派を支援しない、理屈がない」

 

「大国の正義とは、常に大国の為にある、過去現在未来もだ」

 

「どんな独裁者でも永遠に生きれない(幸いだ)、超高齢の為政者とは、超高齢故に周囲に群がる利権者集団から好まれる、そういうことだ」

 

#三行詩

 

「いくら優秀だとしてもだ、八十を越えた人が、超大国のトップを務められるものだろうか」

 

「若い頃から超人なら別だが、彼が大統領になれたのは超高齢だからだ」

 

「おそらく全盛期は六十代だろう、しかし彼は六十では若すぎて決して大統領にはなれない、有能では大統領に相応しくないからだ」

 

#三行詩

 

○火曜日の朝、通勤、雨

 

可与立、未可与権、子罕篇三十

 

(孔夫子はいわれた)次に、同じ学問の位(積み重ね)に立てたとしよう、しかし学問を経書から学ぶだけで実践しない、省みない、改めてない。画竜点睛を欠くとは残念なことだ。

 

「孔夫子は同じことを、繰り返し言葉を変えて述べられている」

 

#論語

 

○火曜日の朝、乗り換え

 

「ホームで行列、また、例の間隔(2m)を開けて立つ人あり」

 

「彼女から後ろに19人並び蛇行、彼女の前は3人のみ」

 

「背中のオーラが前に人が入ることを許さない、まるでラオウ、そう、覇王色の覇気だ」

 

#三行詩

 

○火曜日の朝、一休み

 

「曰く、選挙で民意を問いたい、それが毎回この有り様だ」

 

「選挙も民意も、お得意の『骨抜き』としか思えない」

 

「選挙はお金がかかるものとか、そうしたのは勿論国民ではないし、会計責任者でもない」

 

#三行詩

 

「権力と特権にしがみついた八十歳を越える人が選挙には強い」

 

「これを民意とすること自体が言葉の使い方を間違っている」

 

「権力と特権を離さない猫又と化した政治家に、コバンザメの如く利権をねだる人たちの民意とは、明らかに政治の腐敗に他ならない」

 

#三行詩

 

「骨抜きにされた利権塗れの選挙、と読むと遠い外国のように感じる」

 

「利権に絡む経営者、富裕層の意思、或いはマスコミが自ら思う統一した意思、これを民意とするのも言葉の使い方を間違えている」

 

「民意ではなく、權力者、及び利権に群がるコバンザメ様のご意向だ」

 

#三行詩

 

「選挙=腐敗、民意=權力者側のご意向」

 

「マスコミも相変わらずマスコミの民意(戦前、戦中からの悪しき習慣である)、売れれば何でもいいを掲げる」

 

「やはり、今の世の中は不仁で満ち溢れている、早々に隠棲せねば、身に危険が及ぶかも知れない、という結論となる」

 

#三行詩人

 

○火曜日の午前、二休み

 

「もし、私がアジテーター(煽動者)ならこういうだろう、権力にしがみつく長老、世襲議員から政治を取り戻そう」

 

「腐敗した政治は、選挙そのものにある、利権と政治を切り離すしか方法はない」

 

「政治家個人の権限を弱くして日本も二大政党制を実現させる、政党を主体とする政治へ、と」

 

#三行詩

 

「弱い野党など要らない、強すぎる与党も要らない」

 

「派閥を解散する、結構なこと、次に政党も解散し、二大政党制へと移行する」

 

「政治の仕組み、そのものを変えなければ、この国の腐敗は無くならない、と」

 

#三行詩

 

「この国の腐敗とは何か、個人に利権が集中する、選挙にお金がかかる制度そのものにある」

 

「国会議員は偉いのか、否、偉いのは、世界第二位の高額納税をしている私たち国民にある」

 

「果たして、利権を甘受している今の国会議員が、仕組みを変えようとするだろうか、与野党よ共にだ、と」

 

#三行詩

 

○火曜日の午前、三休み

 

「何かを非難するからには非難だけではなく、自らの意見を、拙くとも述べることが道理だ」

 

「しかし、どうも大雑把で拙すぎるように思う」

 

「やはり、現代のことは餅は餅屋にお任せして、二千五百年前に話しは戻そう、らしくなかった」

 

#三行詩

 

○火曜日の夕方、通勤

 

唐棣之華、偏其反而、豈不爾思、室是遠而、子曰、未之思也、夫何遠之有哉。子罕篇三十

 

民謡に『庭梅の花びら、風にゆらゆらと揺れる、貴方を思う気持ちに変わりはないが、貴方の家が遠いのだ』とある。それを聴いた孔夫子はいわれた、男の気持ちが離れているのだ、本当の愛があれば、距離など関係あるものか。

 

論語の中でも変わった句。男女の恋愛を述べられた。愛があれば、遠方に居ようと関係なく結ばれるものだと。或いは前の句にかけて学問の道で解釈する識者もいるが、美しい民謡なのだ、恋愛でよいと思う」

 

#論語

 

○水曜日の朝、通勤

 

孔子於郷党恂恂如也、似不能言者、郷党篇一

 

孔夫子が郷里の人たちと居られるときは、穏やかで恭しく、言葉を発せられることも余りなかった。

 

「時と場所、場合に適った思い行い、夫子は日常生活でも中庸を体現されていた」

 

#論語

 

○水曜日の朝、乗り換え、雨

 

「珍しく、アラブ王族風の若い夫婦が前に立っている、富裕層、異国の香水の薫り」

 

「身長も高いが、欧米人とは明らかに雰囲気が違う」

 

「西洋風の服を着ているが生活感が皆無、トーブが似合う顔立ち、なんとなく、遠い砂漠の国を思う」

 

#三行詩

 

○木曜日の朝、通勤

 

朝与下大夫言、侃侃如也、郷党篇二

 

朝廷で、位の低い役職の者と話すときには穏やかな様子であられた。

 

「以下、孔夫子の朝廷でのご様子を述べる句が続く」

 

#論語

 

○木曜日の朝、乗り換え

 

「毎夜、座禅をする、最近は腹を据えるより、頭の上に糸を思い身体を吊り上げるイメージ」

 

「いわゆる、糸あやつり人形になる、ストンと坐る」

 

「良い悪いは判らない、しかし心の落ち着きは良いように思う、仕事中でもたまにする」

 

#三行詩

 

「通勤中、調子が良いと脳裏に音楽が流れる、大概はクラッシック音楽だ」

 

「この二三日、韓国映画『素晴らしき世界』の主題曲がピアノで流れる」

 

「ブラザーでも登場するのだろうか、たまにフレーズを忘れサビばかり流れる、不思議だ」

 

#三行詩 

 

○木曜日の夕方、通勤

 

与上大夫言、言言如也、郷党篇二

 

(朝廷で)位の高い役職の者と話すときには中正であられた。

 

「識者の現代語訳で、和やか→慎み深く→恭しくとあり、三者(下大夫→上大夫→君主)対比であれば、こちらの方が、私の意訳よりわかり易いと思う」

 

#論語

 

○金曜日の朝、通勤

 

君在叔昔如也、与与如也。郷党篇二

 

(朝廷で)君主と話されるときには慎み深く、礼に則された。

 

「孔夫子は朝廷に於いて、三者三様に正しき礼節にて接せられた。当時の形容詞を現代語に意訳する難しさも改めて思う」

 

#論語

 

○金曜日の朝、乗り換え

 

「花粉の影響か、アトピー酷く、痒み涙目で視界ぼやける」

 

「深夜の痒み大発作に参っている、苦しみで脳みそが縮む気がする」

 

「車内ではじっと目を閉じる、北斗神拳の奥義、無想転生、無より転じて生を拾うことを思う、も、やはりよく解らない」

 

#三行詩

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○金曜日の夕方、通勤

 

君召使擯、色勃如也、足攫如也、郷党篇三

 

君主から国賓の接待役を命じられると、顔色を改められ、足どりを慎ましくされた。

 

「以下、礼儀作法に則った孔夫子の鮮やかな朝廷での所作が述べられる」

 

#論語

 

所感)

■土曜日の夜、自宅

例の如く、アトピー悪し、終日寝る。

三行詩 第百二十八章(子罕第九②)

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○日曜日の午後、2月25日、ウオーキング

 

子謂顔淵曰、惜乎、吾見其進也、未見其止也。子罕篇二十一

 

孔夫子、早世した顔回を評していわれた、惜しいことかな、彼の学問は進むばかりで、止まることは無かったのだ。

 

「惜乎(惜しいことかな)とは、早世した顔回を惜しむ気持ちと、いつか大成した顔回が、孔夫子の跡を継いで、為すであろう栄光の未来が消えてしまったことを惜しまれたのだ。前に進むのみの学問とは、控えめに述べても聖人の御業、以外には思い当たらない」

 

#論語

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○日曜日の午後、森

 

「アマプラMで米津玄師さんの曲集を聴きながら、雨中そろりとそろりと歩いている」

 

「読書と学問、食べては昼寝、良き三連休であった」

 

「学問はどんなに短くても毎日続けた方が良い、連なりである以上、切れると惰性的になる、緩む、緊張感のない学問は良くない」

 

#三行詩

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○月曜日の朝、通勤

 

子曰、苗而不秀者有矣夫、秀而不実者有矣夫。子罕篇二十二

 

孔夫子はいわれた、植えた苗でも成長しないものもあれば、花を咲かせても実を結ばないものもある。

 

「学問の道を歩む人を苗に例えている。いくら指導しても仁徳の道を理解できない者もいれば、仁徳の道を開花させて将来を嘱望されながらも早世してしまう者もいる。顔回を述べたという識者もいれば、師として一般的な思いを述べたという識者もいる。前後の文脈であれば、やはり顔回ではないかと思う」

 

#論語

○月曜日の朝、乗り換え

 

貝塚茂樹先生の孔子(岩波新書)を再読する」

 

「連続性の少ないバラバラの句を小説のように組み直された手腕は流石としか」

 

「聖人としてではなく、一人の人間として描かれている、反乱に加わろうとし子路に度々諌められる後半は秀逸だと思う」

 

#三行詩

 

○月曜日の朝、一休み

 

「世の中、朗らかに有能であり、コミュ力もありながら世に出ない人がいる」

 

「前々から不思議に思う」

 

「根っこが武将か侍かも知れない、不合理でも頭を地べたに下げれる商人でなければ向かない仕事もある、良い悪いではなく、世の中とは残酷でクソゲーなのだろう」

 

#三行詩

 

○月曜日の夕方、通勤

 

子曰、後生可畏也、焉知来者之不如今也、子罕篇二十三

 

孔夫子はいわれた、学問の道を真剣に歩む後人とは畏れるに値するものだ。彼(彼女)ら後人の積み重ねられた学問が、どうして、自分は学問の先人だと称するような傲慢な人の下にあろうか。

 

「学問の道を歩むとは、これまでの学問の積み重ねに慢心することなく終生学ぶ、実践する、省みることだ。残念ながら学問に胡坐をかく先人はいる。後人を些細なことで馬鹿にし優越感に浸る。本来、学問にそんな暇はない、以前に自らを先人と称すること自体が恥であると思う。論語を読めば、学べば、当たり前のことだ」

 

#論語

 

○火曜日の朝、通勤

 

四十五十而無聞焉、斯亦不足畏也已矣。子罕篇二十三

 

(孔夫子はいわれた)そして、歳が四十、五十になっても、学問の積み重ねが人の耳に入らない、この人は先人、後人を問わず、畏れることはあるまい。

 

「学問の道とは、人の噂になる為に行うことではない。それぞれの人生があり、それぞれの学問がある。孔夫子が述べられた四十、五十の歳とは、当時の王族や大夫に仕官するには、ということだ。自らの仁徳を広げる=学問の道とは、何れにしろ終生行うことに変わりはない」

 

#論語

 

○火曜日の朝、乗り換え

 

「眠い、眠たい、寝不足の通勤路、シス卿のようにダウンコートのフードを深く被り睡魔と戦っている」

 

「電車内、車掌室に車掌さんが二人、サイゼの話しで盛り上がっている」

 

「ふと、銀河帝国皇帝なる職業も大変だろうと思う、今どきシス卿などなり手不足だろうし、ブラック臭そのものではないか」

 

#三行詩

 

○火曜日の夕方、通勤

 

子曰、法語之言、能無従乎、改之為貴、子罕篇二十四

 

孔夫子はいわれた、学問に於いて、正しき言葉を学ぶ機会を得ると、人は感動し、自らも正しきことを為そう思う。しかし思うだけではいけない。学んだことを実践し、省みる、改めるからこそ貴い、即ち学問の道なのだ。

 

「主客を何にするかで、この句の意も変わる。主が道理となると、私には広すぎる。道を聞いて改めれる人が世の中に幾人いるだろうか。目的とは、細かい目標を達成し、刻むものだ。故に、昨今の識者の解釈では見られなかった、主を学問の道とする意訳を行う」

 

#論語

 

○水曜日の朝、通勤

 

巽与之言、能無説乎、繹之為貴、悦而不繹、従而不改、吾末如之何也已矣。子罕篇二十四

 

仮に、優しく易しい言葉で教えられたとする。受ける者は文字通りに喜んではならない。その言葉の真意を考え、質問するからこそ貴い。学問とは、自ら考える、省みる、改めることだ。教えられた言葉にだけ満足し、そこから学問をしない者を、私とてどう伸ばせようか。

 

「下の句を通すと、やはり主題は学問の道であると思う。孔夫子は論語で、同じことを言葉を変えて繰り返し述べられている。仁徳であり、忠恕であり、先王の教えであり、この句のように学問とはどうするか(学ぶとは)だ。有り難いことだ」

 

#論語

 

○水曜日の朝、車内

 

「混み合う電車内で立つ人たちを、ぐいっと押しのけて進む人たちあり」

 

「毎朝、ぐいっと押される、隣車両からの距離などたかが知れている」

 

「トイレは真逆だし数駅で終着駅だ、考察すると彼らの主題はぐいっとにある、押し方も入り身で腰が入っている、鍛錬なのだ」

 

#三行詩

 

「力点、押しのける人をPとし、作用点、電車に立つ人をWとする、W×L1=P×L2」

 

「支点からの距離をL1とL2する。W×L1=P×L2、P=WL1/L2」

 

「力点Pから力が加わる瞬間、作用点WはPと同じ方向+斜め30度に移動、力点Pは作用点Wの移動に伴いスカタンを食らいバランスを崩す(はずである)」

 

#三行詩

 

○水曜日の夕方、通勤

 

子曰、主忠信、毋友不如己者、過則勿憚改。子罕篇二十五

 

孔夫子はいわれた、人と接するには、自らを誠にして、外にも内にも嘘偽りがない。また、傲慢や不遜、慢心した人を友として交わることはない。そして、過ちを冒したときには、過ちを認め、速やかに改めることだ。

 

「人間関係に於いて、儒家が取るべき態度を述べられている。学問が浅く『信』を自らの言葉で約することに手間取るも、これまでの学問を省みて『信』とは、外にも内にも嘘偽りがないこと、であることが明確になった。学問を積み重ねてのち、再び『信』を省みたい」

 

#論語

 

○水曜日の夜、自宅

 

儒学の徳目の一つである『信』とは難しく思う」

 

「人から信を得る、果たして、信を得る為に信であろうとするのだろうか」

 

「孔夫子の教えとは、自ら発するものだ、人の顔色を見る徳などない。故に「内に外に嘘偽りがない」のが『信』であるべきだと思う」

 

#三行詩 #独学

 

仁義礼智信、残りひとつ、自らの言葉に約せない徳がある『智』だ」

 

儒学の『智』を述べた書籍、ネット等を片っ端から読むも心に響かない」

 

「要は自らの学問が浅いことにあり、自らの言葉で智を約せない、しかし諦めない」

 

#三行詩 #独学

 

○水曜日の夜、自宅

 

「人、皆苦しんで其の死を迎える者であるが」

 

「生の連なり、死の連なり、亡父や祖父母は何処かで待っているのだろうか」

 

「仮に不死を得たとする、独り生き続ける、永遠の孤もまた死と均しい、死は必要必然、生きることとは死を目的に歩むことだ」

 

#三行詩

 

「仮にだ、ドラゴンボールを7つ集めて神龍に、日本人は不老不死にしてと願う」

 

「不死は独りでは死だが、国中1,257億人ならどうか」

 

アメリカやロシア、中国はどうするか、あまり良い未来は浮かばない、仮にアメリカ人が全て不老不死になっても同じだろう、やはり死は必然なのだ」

 

#三行詩

 

「死は必然、ならば生も必然、その生を良く生きるとは何か」

 

「怪力乱神、孔夫子は終生語られなかったが、生と死は違う」

 

「天命として自らの運命を受けいれられた。如何なる運命も肯定して生きる、死ぬ、勇気を持つことも孔夫子の教えなのだ」

 

#三行詩

 

○木曜日の朝、通勤

 

子曰、三軍可奪帥也、匹夫不可奪志也。子罕篇二十六

 

孔夫子はいわれた、周の兵制による三軍、つまり上軍、中軍、下軍それぞれ一万二千五百人、計三万七千五百人の諸侯の軍に守られた将軍といえども、策を練れば奪うことも出来ようが、一人の民が抱いた志を奪うことは出来ないものだ。

 

「事の成否、生き死にを兎も角とすれば人の意志に不可能はない。人間の世界で最も尊く、最も恐るべきなのは、結局は人間一人の意志に尽きる」

 

#論語

 

○木曜日の夕方、通勤

 

子曰、衣弊薀袍、与衣狐貉者立而不恥者、其由与、子罕篇二十七

 

孔夫子はいわれた、破れた綿入りの服を着て、狐と狢の毛皮を用いた高級な外套を羽織った人と並び立っても、恥とも思わず平気なのは由(子路)であるな。

 

「我らが快男児子路が登場する。質実剛健、弱き者に優しく悪人にはめっぽう強い。毀誉褒貶、何するものぞ。男の中の男、故に、ボロを着ていようが関係ない、気にもしない。師を心の底から信頼し、仁と義を実践することこそ我が天命。男の名は、姓は仲、名は由、字は子路だ!」

 

#論語

 

○木曜日夕方、お弁当屋さん

 

「効率的に配置されたキッチン、揚げ物、洗い場、冷蔵庫、中央に4段の棚を置く」

 

「5人がそれぞれの配置につき淀みなくお弁当をつくる」

 

「冬雨のせいか注文が殺到しているらしい、次々と袋に入れている、配達待ち、ウーバーの人、まだまだ時間がかかりそうだ」

 

#三行詩

 

○金曜日の朝、通期

 

不支不求、何用不臧、子路終身誦之、子曰、是道也、何足以臧。子罕篇二十七

 

(孔夫子はいわれた)詩経に『人の有るを妬みて心破れず、人の無きを恥じらい心惑わず』とあるが、子路そのものであるな。子路、これを聞きたいそう喜び、終始この句を口ずさむ。孔夫子はいわれた、善きことであるが、学問の道はまだまだ続くものだ。

 

子路は単純な男だ、心から尊敬する師から褒められ、『不忮不求、何用不臧』という詩経の句を朝に夕に口ずさみ喜んでいる。しかし孔夫子は子路の様子を見て釘を刺す、学問の道はこれで終わりではない、由よまだまだぞ、と」

 

#論語

 

○金曜日の夕方、通勤

 

子曰、歳寒、然後知松柏之後彫也。子罕篇二十八

 

孔夫子はいわれた、厳寒になってこそ、松や柏の葉の緑が遅く枯れ落ちることが明らかになるものだな。

 

「困難の時にこそ人の真価が問われるもの。学問の道を歩む者は、度々その厳しさに打ちのめされるものだが、本来何の為に学問を始めたのか、目的と志を明確に懐く者はへこたれない。初心こそ原点であり、貫くことが出来るか、出来ないかでその人の学問は大きく変わる」

 

#論語

 

○金曜日の夜、自宅

 

「何故気付かない、Aの肯定B、Aの否定C、何れも同じ結論Aに至るべく仕組まれている、いつまで犠牲を強いるのか」

 

「同じ土俵のままで勝てる道理があるものか」

 

「そのもの自体、卓袱台をひっくり返す以外に勝つ方法などあるものか、歴史を省みるべきだ、拙すぎる」

 

#三行詩

 

「世の理不尽という不公平を思う、曰く、為すべくして為すべく因果とか」

 

「世界中の人、全てを幸せには出来ないとか、」

 

「でも私は幸せになりたい、私だけは、私のみは幸せになりたい。だから皆幸せになれない、理解しても変われない」

 

#三行詩

 

「故にいう、人である限り苦しみ、のた打ち回るのだ、我らはそういう生き物だ」

 

「動物、生体である限りは、弱肉強食の縛りからは逃れられない」

 

「人が三大欲求から解放される(不可能だろう)、されない限りは無理ではないか。人間一匹、所詮は獣だ、全ての獣の頂点でもある」

 

#三行詩

 

「多くの獣たちの頂点に立つ人という動物は、自らを省みるべきだ」

 

「成すべきことを為せとは、それぞれの立場においてそれぞれの中庸(如何なる時、場所、場合に於いても最適解)たる存在たれということだ、栄えるにしろ滅ぶにしろ、人の創造した最善の徳である中庸であればよい、と思う(所詮、50億年後、地球は太陽に呑み込まれるのだ)」

 

「で、なければ、獣の頂点に立つ本能のままに、植物を、動物を、資源を、全てを喰らい尽くして最後は自らを喰らう、それだけだ」

 

#三行詩

 

○土曜日の午後、ウオーキング

 

子曰、知者不惑、仁者不憂、勇者不懼。子罕篇二十九

 

孔夫子はいわれた、仁徳を知る知者は物ごとの正しきことを知るが故に何かに惑うことがない。仁徳を実践する仁者は世界のあるべき姿とともに存在するが故に憂えることがない。仁徳を指針とする勇者は物ごとの正しきことを行うが故に何者にも怖れることがない。

 

「仁徳とは、広義には世界を忠恕にて包みこむことであり、狭義には父母から受けた慈愛を広げるこという。根本には孝があり、枝葉を伸ばす為には学問の道を歩まなければならない。故に仁徳と共に歩む者とは、惑わず、憂えず、恐れない」

 

#論語

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所感)

■学問の道ー「派閥解散のすゝめ」

論語を学ぶのに注釈書を手元に置くのは当たり前のことだ。

集注、集解、義疏、古義、論語徴、それぞれに長短あるも、最後は好みで良いのではないか。

宜しくないことは、集注派とか古義派とか、論語に向き合うのではなく、派閥争い、他派を貶す、陥れることを学問とする人たちだ。

人の粗を探して、我が派(私は)正しいとする。

良くない。目的は論語を学ぶ、実践する、省みる、改めることだ。

二千五百年前に実在した人の語録集で、この二千五百年の間、あれこれ注釈されてきたのだ。どうして完璧であろうか。

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三行詩 第百二十七章(子罕第九②)

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○月曜日の朝、2月19日、通勤

 

且予与其死於臣之手也、無寧死於二三子之手乎、且予縦不得大葬、予死於道路乎。子罕篇十二

 

(孔夫子はいわれた)そのような偽の家臣団に偽の大夫として天に見送られるより、門弟の二三人に見送られるほうがよい。大夫としての大葬がなされなくても、まさか亡くなったのち道に捨てられることはあるまい。

 

「重病で、このまま亡くなるかもしれない時の話し。孔夫子は礼節は尊ぶも、権力や世間の評判に対しては単に付属することであり、重きを置いていないことがよく理解る。孔夫子は私利私欲の人ではなく、終生を学問の道に歩まれたのだ。当然ながら先に亡くなった子路が登場する為、この時は病は持ち直された」

 

#論語

 

○月曜日の朝、乗り換え

 

「毎朝乗り換えで車内12分の待ちがある、座れたら寝る、不思議とこの短い時間で意識消え熟睡することが多い」

 

「駅到着1分前にアラームが鳴るようにしている」

 

「寝ぼけ眼でひょろひょろ車内を歩きながら出口に向かう、定年まで変わるまい、正直、朝は苦手らしい」

 

#三行詩

 

○月曜日の午後、一休み

 

イノベーションを受入れ、医療や生活の質を上げるのは賛成だ」

 

「しかし、古いもの、古くて良いものもある」

 

「機械式時計に愛着があり、この十七年間、腕時計は黒ミルガウスだ、最期は子に譲りたい」

 

#三行詩

 

○月曜日の夕方、通勤

 

子貢曰、有美玉於斯。韞匵而藏諸。求善賈而沽諸。子曰、沽之哉、沽之哉。我待賈者也。子罕篇十三

 

子貢はいう、ここに天下一の美玉があります。箱にしまって大切に保管しましょうか、或いは、善い買い手を探して、高値で売りましょうか。孔夫子はいわれた、売ろう、売ろうとも。ただ、私は善い買い手を待っているのだよ。

 

「孔夫子を天下一の美玉に例えて、高弟の子貢が孔夫子に仕官意思を尋ねた句。しかし孔夫子自ら仕官を君主へ働きかけはしない。何故なら、孔夫子は先王の教えを実践する人だ、自らの仁徳を広げて、周りから推薦されることが先王の教えである。そもそも目的は仕官ではない(自らの栄達や名声、権力を得る為ではない)、君子である君主を導き、天下泰平、苦しむ民を救うのだ。優秀な子貢は勿論、孔夫子の思いを理解している。しかし、諸国を遊説して十四年、君子たる君主は見つからず、孔夫子ほどの人が政を行うこともなく諸国を漂泊している。

忸怩たる思いで、師に、天下一の美玉をどうしましょうかと尋ねたのだ。それでも孔夫子はぶれない、何故なら、自らの存在に天命を自覚し、遥か遠い未来すら見据えておられたからだ」

 

#論語

 

○月曜日の夕方、乗り換え

 

「モラルを守らない隣人たちに怒る、そして法を強くする、社会全体に不満が広がる」

 

「モラルとは、自ら広げるものだ、他人への批判や増悪は、さらなる批判と増悪の連鎖しか生まない」

 

「孔夫子の教えとは、自らを誠にすることと人への思いやりだ。社会全体のモラルを上げるとは、個々が自らを誠にし、人を思いやる、実践しなければならない。その為にはやはり道徳教育を強化すべきだと思う。何を学ぶかは議論があってよいが、私は儒家を目指しているので論語と孝経の素読を奨めたい」

 

#三行詩

 

○月曜日の夜、自宅

 

「ひたすら焚き火の映像を流すYouTubeがある、最近お気に入りだ、寝る時に流す」

 

「2024年2月19日を生きる一人の日本人であるが、血筋を遡れば弥生、縄文時代に至る」

 

「13000年前のご先祖もこうやって焚き火を見ていたのだ、もっとも現代はiPadProだが」

 

#三行詩

 

○火曜日の朝、通勤

 

子欲居九夷、或曰、陋如之何、子曰、君子居之、何陋之有。子罕篇十四

 

(仁徳を省みない世の中を歎じて)孔夫子、遥か東方にある九夷という国に赴こうとする。或る人はいう、蛮族が住む国ではありませんか。孔夫子はいわれた、貴方のような君子が赴けば、瞬く間に仁徳に教化されるでしょう(道なきこの国より、未開でも純真な民が住む蛮族の国のほうがましではないですか)。

 

「九夷とは、昔、中国の漢民族が東方にあると考えた九つの野蛮国。畎夷  ・于夷 ・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷をいう。一説では、儒教の経典を学ぶことが好きで、文学や史書を愛読する民であったらしい」

 

#論語

 

○火曜日の夕方、通勤

 

子曰、吾自衛反於魯、然後楽正、雅頌各得其所。子罕篇十五

 

孔夫子はいわれた、諸国外遊中に衛や鄭で、周王朝から伝わる正しい演奏を学ぶ機会を得た。魯に帰国のち誤った演奏を改めさせた。今では朝廷の舞楽なる雅、宗廟の舞楽なる頌が、魯でも正しく演奏されるようになったのだ。

 

「後半の『得其所』(其の所を得たり)とは、かの周公旦を祖とする魯の国の礼楽が、先王の教えに則って正しく行われ演奏されるようになったことだ。孔夫子の故国を思う、故国を誇らしく思うお気持ちが伝わってくる」

 

#論語

 

○火曜日の夜、自宅

 

日課論語講義写経のち、明治書院『孝経』を毎夜ぼちぼち読んでいる」

 

「これは良書だ、初心者向けらしいが、儒学を学んでいる者からすれば根本を学べる」

 

「同じく初心者向けの朱熹の『小学』より、私は孝経のほうが好きだ、孔夫子の匂いがする、論語と同じ匂いだ」

 

#三行詩

 

○水曜日の朝、通勤

 

子曰、出則事公卿、入則事父兄、喪事不敢不勉、不為酒困、何有於我哉。子罕篇十六

 

孔夫子はいわれた、外に出ては朝廷にて君主に忠であり、内においては家で父兄に孝を尽くす。葬儀の場では礼節に則り弔慰を表し、酒席にて呑み過ぎることはない。私が行っていることは、このくらいのことだ。

 

「孔夫子は奇跡は起こさない、偉大なる中庸の人だ。如何なる時と場合、場所においても中庸たるとは、人、そのものの仁が礼と義、智と一つにならねばならない。仁とは道であり、道を楽しむとは学問の道においては究極にある。しかし、そのお姿はこの句にあるように、日常生活の普通にある」

 

#論語

 

○水曜日の朝、一休み

 

儒家の力量(積み重ねた学問)を知りたければ、仁とは何かを問えばよい」

 

儒家こそ仁徳屋の本領であるが、肝心の仁を述べることが実は難しい」

 

「禅問答や落語のネタのようであるが、自らを省みても思う、仁とは究極でもあり初心でもある、その人の学問そのままだ」

 

#三行詩

 

「私の仁を述べる、仁とは自らの内に広げるものだ」

 

「仁を究極的、宗教的に捉えると孔夫子の教えから外れる、日常生活での思いやり、その実践こそ仁であるべきだ」

 

「自らを誠にし、人を思いやる(忠恕)ことが儒学の目的ではない、仁とは広げる、周囲に及ぼすものだ。民を苦しみから救い、世界を天下泰平にする為の手段でなければならない」

 

#三行詩

 

○水曜日の午前、二休み

 

「幕末・明治の漢学者である根本通明先生ともなると、仁を述べるにも簡潔、要領を得られている、曰く、仁とは道なり」

 

「しかし、この言葉は、生半可な気持で向き合ってはならない」

 

「命懸けで学問に取り組んだ時代の人だ、先生の積み重ねた凄まじき学問、故に、仁は道であると述べれる。仁は人を現すとはそういうことだ」

 

#三行詩

 

○水曜日の夕方、通勤

 

子在川上曰、逝者如斯夫、不舎昼夜。子罕篇十七

 

川の流れを前にして孔夫子はいわれた、あらゆる事象はこの川のように過ぎ去ってしまった。そしてこの流れは昼に夜に止むことはないのだ。

 

論語の中でも『川上の歎』として特に有名な句。過ぎ去っていく川面に浮かぶ残像は、先に亡くなった顔回子路、伯牛、子の孔鯉たちが表れたのだろうか、或いは十三年間に渡り諸国を外遊した様々な出来事であろうか、自らの老い先の短さも自覚されている、故に孔夫子は人の世の無常を述べられたのだ」

 

#論語

 

○水曜日の夜、自宅

 

「兵器のステルス化+無人(AI)+低コスト=戦争の方法が変わる、平等化の四騎士の時代へ」

 

「犠牲者か、犠牲者しか生まれない敗者ばかりの平等化された世界に」

 

「いっそAIに任せたら=ターミネーターリスク有り、結局は人は地球の破壊者なのだろうか」

 

#平等化の四騎士(戦争・革命・崩壊・疫病 )

#三行詩

 

○木曜日の朝、通勤

 

子曰、吾未見好徳如好色者也。子罕篇十八

 

孔夫子はいわれた、人が美しい女性を好むように学問を好む者を私は未だに見たことがない。

 

「学問の道とは、人の三大欲求を越えて学び修めることだ(そうらしい)」

 

#論語

 

○木曜日の朝、乗り換え

 

「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲作品102が脳裏に流れている」

 

「どうも疲れているようだ、疲れるとブラームスを聴きたくなる」

 

ブラームスは良い、儒学に例えれば孟子だ、じっくり聴けば聴くほどに心に染みる」

 

#三行詩

 

○木曜日の夕方、通勤

 

子曰、譬如為山、未成一簣、止吾止也、子罕篇十九

 

孔夫子はいわれた、仮に山を造るとしよう、どうであれ天頂に最後の土を盛ることが出来ないのであれば、その山は完成はしないのだ。そしてその責任は、最後の土を盛ることが出来ない自らにある。

 

「山(学問)を造る(積み重ねる)に、四書五経を学ぶなり、日常生活での仁の行いなり、最後まで土を盛る(実践する)からこそ学問の積み重ねとなり、自らの仁を広げることになる。学問の道の成否とは、他人の行いや事象ではなく、あくまで自らの意思と行動の範囲内にある」

 

#論語

 

○木曜日の夜、自宅

 

「何ごとも因果律、原因と結果、運命とは必然だ」

 

「物ごととは、斯くあるべくして在るべき存在に帰結する、悲しみ、苦痛、後悔、絶望、虚無を伴いながらだ」

 

「故に『歓喜の主題』は歌う、怒りよ、全てを消し去れと」

 

#三行詩 #ベートーヴェン交響曲九番

 

「全身の皮膚に派生する耐え難き痒みの発作」

 

「十本の指で、十本の爪で、皮膚を繰り返し繰り返し掻き壊す、皮膚はなくなり肉を削る、血と浸出液にまみれても痒みは止まらない、これがアトピー性皮膚炎の現実だ」

 

「故に『歓喜の主題』を歌う、怒りよ、全て消し去れと」

 

#三行詩 #アトピー性皮膚炎

 

「根本に何が残る、少なくとも怒りと復讐は込みだろう」

 

「学問の道を歩もう、中庸に則り、来たるべき時に洋洋乎として笑みを浮かべて遺恨を晴らすのだ」

 

「故に『歓喜の主題』よと歌う、怒りよ、全て消し去れと」

 

#三行詩 

 

○金曜日の午前、自宅

 

譬如平地、雖覆一簣、進吾往也。子罕篇十九

 

(孔夫子はいわれた)仮に土地を平らにするとしよう、大きさはどうであれ、石塊を一つ取り除くことが出来たのであれば、その土地は平らに近づいたのだ。そしてその成果は自らにある。

 

「日常生活の中で一つ学問を重ねる、この一つを継続することが学問の道だ」

 

#論語

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○金曜日の午後、マクド

 

「不安定な時代、故に若い頃から老後を考える、堅実かな」

 

「不思議だ、私は老後を考えていない、何故なら死ぬまで現役のままだからだ、これからも学問の道を歩み続けるからだ」

 

「学問を学ぶ限り老後はこないと思っている、動けなくなったら多分、天国か地獄に居るのではないか、老後はなくていい」

 

#三行詩

 

○金曜日の夜、自宅

 

「気づきとは、得ようとして得れるものではなく、得るべく条件下にて起動する」

 

「しかし、真は、学び続ける限り気づきは不要である」

 

「何故なら、仁とは全てであり、どのような時、場所、場合でも、彼(彼女)が学問を学び求め続けている限り、仁であり続けるからだ」

 

#三行詩

 

「気づきを求めている事象、自体が学問に対しての不遜、仁、以外のもの、私利私欲を望んでいる自らが居る」

 

「目的と目標、方法と手段を逆転させられるとは私利私欲の巧妙な罠だ」

 

「根本に何があるのか、仁とは父母からの慈愛からぶれてはいけない。学問そのものが汚染される。自らではなく他者の思いやり不足を責める仁、傲慢不遜な一方向の正義を語る義、歪んだ学問は人にとって甘美、且つ危険であり、真の仁を駆逐すらするものだ」

 

#三行詩

 

○土曜日の午後、ウオーキング

 

子曰、語之而不惰者、其回也与。子罕篇二十

 

孔夫子はいわれた、多くの弟子に教育を施してきたが、学んだことを自ら考え、省み、改め、ずっと続けることが出来たのは、、、ああ、顔回のみであるな。

 

「師が述べることを聴くのは出来る、しかし教わったことを自らに約する人は少なく、約した教えを実践(礼)する人はさらに少ない。さらに結果を省みて改める人とは相当の人であり、ここから顔回は、これらを繰り返す、維持、継続出来る。三千人といわれた孔夫子の弟子でも無二の天才だったのだ」

 

#論語

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○土曜日の夜、自宅

 

孟子素読は毎日の日課だが、加えて、古事記を少しづつ素読している」

 

「よくわからないが、いち日本人の血脈か、奇妙に魅かれるものがある」

 

「敢えて現代語訳、意味の執着を捨てて韻のままに素読している、言葉が心、心が言葉になる感覚に、正直、戸惑っている」

 

#三行詩

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所感)

■学問の道ー「孝経に関しての私見

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孝経、天子章第二に、こうある、

『子曰く、親を愛する者は、敢て人を悪まず、親を敬する者は、敢て人を慢らず』

孝とは仁徳の根本であることが、よく理解る。

 

仁徳を説いた孔夫子の教えに、人として新たなステージや世の中を変える革新性を誘う箇所はない。

人であれば皆備わる、父母から与えらた慈愛を根本に、父母を敬うことを、周囲へ広げることを終生述べられた。

 

父母を敬するには礼節がなければならぬ。

父母に恥じぬ人間、足らんとすれば自らの悪を憎まねばならぬ。

思いやりと礼節、正しき義を得て、物ごとの在るべき姿を知る。

そして、最後は自らを誠に、人への思いやり、忠恕を周囲へ広げることとなる。

これら全ては、根本に父母からの慈愛があり、仁、礼、義、智へと広げる、即ち学問の道だ。

孝経を学ぶとは、自らのルーツを振り返ることであるし、自らの徳を学問で広げることだ。

 

孝経は他の経書四書五経に比べれば内容がシンプルで、理解し易く、儒学の根本を述べている。素読にも向いている思う。

 

古事記に関して

以前にこのブログでも書いた。

岩波文庫ホメロスの『イーリアス』、『オデュッセイア』は魅力に満ちあふれ、確かに面白い本だ。

岩波文庫の現代語訳も原作と同じく詩であり、素読して読む、読めば読むほど目の前の荒荒しき戦場で戦う英雄たち、神々の姿が浮かび上がる。

しかし、根本のところで違うのだ。

日本人では、理解出来ない異文化、民族の壁にぶち当たり、登場人物の顔が薄ぼんやりとしか見えない。

 

ところが、『古事記』の素読は違う。

日本人という民族の血のなせる御業か、遠いご先祖からの連なりが為せることか、言葉が心に伝わり、心が言葉になる感覚が、理解出来る。

古事記素読は、現代語訳に拘らない方が理解しやすい。

繰り返し、原文からの口語訳を素読していると、一身に、心に、この地で生まれることが出来た感謝と、自らの根本がここにあることの共感、感動が生まれてくる。

不思議だ。