四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

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三行詩 第百二十八章(子罕第九②)

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○日曜日の午後、2月25日、ウオーキング

 

子謂顔淵曰、惜乎、吾見其進也、未見其止也。子罕篇二十一

 

孔夫子、早世した顔回を評していわれた、惜しいことかな、彼の学問は進むばかりで、止まることは無かったのだ。

 

「惜乎(惜しいことかな)とは、早世した顔回を惜しむ気持ちと、いつか大成した顔回が、孔夫子の跡を継いで、為すであろう栄光の未来が消えてしまったことを惜しまれたのだ。前に進むのみの学問とは、控えめに述べても聖人の御業、以外には思い当たらない」

 

#論語

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○日曜日の午後、森

 

「アマプラMで米津玄師さんの曲集を聴きながら、雨中そろりとそろりと歩いている」

 

「読書と学問、食べては昼寝、良き三連休であった」

 

「学問はどんなに短くても毎日続けた方が良い、連なりである以上、切れると惰性的になる、緩む、緊張感のない学問は良くない」

 

#三行詩

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○月曜日の朝、通勤

 

子曰、苗而不秀者有矣夫、秀而不実者有矣夫。子罕篇二十二

 

孔夫子はいわれた、植えた苗でも成長しないものもあれば、花を咲かせても実を結ばないものもある。

 

「学問の道を歩む人を苗に例えている。いくら指導しても仁徳の道を理解できない者もいれば、仁徳の道を開花させて将来を嘱望されながらも早世してしまう者もいる。顔回を述べたという識者もいれば、師として一般的な思いを述べたという識者もいる。前後の文脈であれば、やはり顔回ではないかと思う」

 

#論語

○月曜日の朝、乗り換え

 

貝塚茂樹先生の孔子(岩波新書)を再読する」

 

「連続性の少ないバラバラの句を小説のように組み直された手腕は流石としか」

 

「聖人としてではなく、一人の人間として描かれている、反乱に加わろうとし子路に度々諌められる後半は秀逸だと思う」

 

#三行詩

 

○月曜日の朝、一休み

 

「世の中、朗らかに有能であり、コミュ力もありながら世に出ない人がいる」

 

「前々から不思議に思う」

 

「根っこが武将か侍かも知れない、不合理でも頭を地べたに下げれる商人でなければ向かない仕事もある、良い悪いではなく、世の中とは残酷でクソゲーなのだろう」

 

#三行詩

 

○月曜日の夕方、通勤

 

子曰、後生可畏也、焉知来者之不如今也、子罕篇二十三

 

孔夫子はいわれた、学問の道を真剣に歩む後人とは畏れるに値するものだ。彼(彼女)ら後人の積み重ねられた学問が、どうして、自分は学問の先人だと称するような傲慢な人の下にあろうか。

 

「学問の道を歩むとは、これまでの学問の積み重ねに慢心することなく終生学ぶ、実践する、省みることだ。残念ながら学問に胡坐をかく先人はいる。後人を些細なことで馬鹿にし優越感に浸る。本来、学問にそんな暇はない、以前に自らを先人と称すること自体が恥であると思う。論語を読めば、学べば、当たり前のことだ」

 

#論語

 

○火曜日の朝、通勤

 

四十五十而無聞焉、斯亦不足畏也已矣。子罕篇二十三

 

(孔夫子はいわれた)そして、歳が四十、五十になっても、学問の積み重ねが人の耳に入らない、この人は先人、後人を問わず、畏れることはあるまい。

 

「学問の道とは、人の噂になる為に行うことではない。それぞれの人生があり、それぞれの学問がある。孔夫子が述べられた四十、五十の歳とは、当時の王族や大夫に仕官するには、ということだ。自らの仁徳を広げる=学問の道とは、何れにしろ終生行うことに変わりはない」

 

#論語

 

○火曜日の朝、乗り換え

 

「眠い、眠たい、寝不足の通勤路、シス卿のようにダウンコートのフードを深く被り睡魔と戦っている」

 

「電車内、車掌室に車掌さんが二人、サイゼの話しで盛り上がっている」

 

「ふと、銀河帝国皇帝なる職業も大変だろうと思う、今どきシス卿などなり手不足だろうし、ブラック臭そのものではないか」

 

#三行詩

 

○火曜日の夕方、通勤

 

子曰、法語之言、能無従乎、改之為貴、子罕篇二十四

 

孔夫子はいわれた、学問に於いて、正しき言葉を学ぶ機会を得ると、人は感動し、自らも正しきことを為そう思う。しかし思うだけではいけない。学んだことを実践し、省みる、改めるからこそ貴い、即ち学問の道なのだ。

 

「主客を何にするかで、この句の意も変わる。主が道理となると、私には広すぎる。道を聞いて改めれる人が世の中に幾人いるだろうか。目的とは、細かい目標を達成し、刻むものだ。故に、昨今の識者の解釈では見られなかった、主を学問の道とする意訳を行う」

 

#論語

 

○水曜日の朝、通勤

 

巽与之言、能無説乎、繹之為貴、悦而不繹、従而不改、吾末如之何也已矣。子罕篇二十四

 

仮に、優しく易しい言葉で教えられたとする。受ける者は文字通りに喜んではならない。その言葉の真意を考え、質問するからこそ貴い。学問とは、自ら考える、省みる、改めることだ。教えられた言葉にだけ満足し、そこから学問をしない者を、私とてどう伸ばせようか。

 

「下の句を通すと、やはり主題は学問の道であると思う。孔夫子は論語で、同じことを言葉を変えて繰り返し述べられている。仁徳であり、忠恕であり、先王の教えであり、この句のように学問とはどうするか(学ぶとは)だ。有り難いことだ」

 

#論語

 

○水曜日の朝、車内

 

「混み合う電車内で立つ人たちを、ぐいっと押しのけて進む人たちあり」

 

「毎朝、ぐいっと押される、隣車両からの距離などたかが知れている」

 

「トイレは真逆だし数駅で終着駅だ、考察すると彼らの主題はぐいっとにある、押し方も入り身で腰が入っている、鍛錬なのだ」

 

#三行詩

 

「力点、押しのける人をPとし、作用点、電車に立つ人をWとする、W×L1=P×L2」

 

「支点からの距離をL1とL2する。W×L1=P×L2、P=WL1/L2」

 

「力点Pから力が加わる瞬間、作用点WはPと同じ方向+斜め30度に移動、力点Pは作用点Wの移動に伴いスカタンを食らいバランスを崩す(はずである)」

 

#三行詩

 

○水曜日の夕方、通勤

 

子曰、主忠信、毋友不如己者、過則勿憚改。子罕篇二十五

 

孔夫子はいわれた、人と接するには、自らを誠にして、外にも内にも嘘偽りがない。また、傲慢や不遜、慢心した人を友として交わることはない。そして、過ちを冒したときには、過ちを認め、速やかに改めることだ。

 

「人間関係に於いて、儒家が取るべき態度を述べられている。学問が浅く『信』を自らの言葉で約することに手間取るも、これまでの学問を省みて『信』とは、外にも内にも嘘偽りがないこと、であることが明確になった。学問を積み重ねてのち、再び『信』を省みたい」

 

#論語

 

○水曜日の夜、自宅

 

儒学の徳目の一つである『信』とは難しく思う」

 

「人から信を得る、果たして、信を得る為に信であろうとするのだろうか」

 

「孔夫子の教えとは、自ら発するものだ、人の顔色を見る徳などない。故に「内に外に嘘偽りがない」のが『信』であるべきだと思う」

 

#三行詩 #独学

 

仁義礼智信、残りひとつ、自らの言葉に約せない徳がある『智』だ」

 

儒学の『智』を述べた書籍、ネット等を片っ端から読むも心に響かない」

 

「要は自らの学問が浅いことにあり、自らの言葉で智を約せない、しかし諦めない」

 

#三行詩 #独学

 

○水曜日の夜、自宅

 

「人、皆苦しんで其の死を迎える者であるが」

 

「生の連なり、死の連なり、亡父や祖父母は何処かで待っているのだろうか」

 

「仮に不死を得たとする、独り生き続ける、永遠の孤もまた死と均しい、死は必要必然、生きることとは死を目的に歩むことだ」

 

#三行詩

 

「仮にだ、ドラゴンボールを7つ集めて神龍に、日本人は不老不死にしてと願う」

 

「不死は独りでは死だが、国中1,257億人ならどうか」

 

アメリカやロシア、中国はどうするか、あまり良い未来は浮かばない、仮にアメリカ人が全て不老不死になっても同じだろう、やはり死は必然なのだ」

 

#三行詩

 

「死は必然、ならば生も必然、その生を良く生きるとは何か」

 

「怪力乱神、孔夫子は終生語られなかったが、生と死は違う」

 

「天命として自らの運命を受けいれられた。如何なる運命も肯定して生きる、死ぬ、勇気を持つことも孔夫子の教えなのだ」

 

#三行詩

 

○木曜日の朝、通勤

 

子曰、三軍可奪帥也、匹夫不可奪志也。子罕篇二十六

 

孔夫子はいわれた、周の兵制による三軍、つまり上軍、中軍、下軍それぞれ一万二千五百人、計三万七千五百人の諸侯の軍に守られた将軍といえども、策を練れば奪うことも出来ようが、一人の民が抱いた志を奪うことは出来ないものだ。

 

「事の成否、生き死にを兎も角とすれば人の意志に不可能はない。人間の世界で最も尊く、最も恐るべきなのは、結局は人間一人の意志に尽きる」

 

#論語

 

○木曜日の夕方、通勤

 

子曰、衣弊薀袍、与衣狐貉者立而不恥者、其由与、子罕篇二十七

 

孔夫子はいわれた、破れた綿入りの服を着て、狐と狢の毛皮を用いた高級な外套を羽織った人と並び立っても、恥とも思わず平気なのは由(子路)であるな。

 

「我らが快男児子路が登場する。質実剛健、弱き者に優しく悪人にはめっぽう強い。毀誉褒貶、何するものぞ。男の中の男、故に、ボロを着ていようが関係ない、気にもしない。師を心の底から信頼し、仁と義を実践することこそ我が天命。男の名は、姓は仲、名は由、字は子路だ!」

 

#論語

 

○木曜日夕方、お弁当屋さん

 

「効率的に配置されたキッチン、揚げ物、洗い場、冷蔵庫、中央に4段の棚を置く」

 

「5人がそれぞれの配置につき淀みなくお弁当をつくる」

 

「冬雨のせいか注文が殺到しているらしい、次々と袋に入れている、配達待ち、ウーバーの人、まだまだ時間がかかりそうだ」

 

#三行詩

 

○金曜日の朝、通期

 

不支不求、何用不臧、子路終身誦之、子曰、是道也、何足以臧。子罕篇二十七

 

(孔夫子はいわれた)詩経に『人の有るを妬みて心破れず、人の無きを恥じらい心惑わず』とあるが、子路そのものであるな。子路、これを聞きたいそう喜び、終始この句を口ずさむ。孔夫子はいわれた、善きことであるが、学問の道はまだまだ続くものだ。

 

子路は単純な男だ、心から尊敬する師から褒められ、『不忮不求、何用不臧』という詩経の句を朝に夕に口ずさみ喜んでいる。しかし孔夫子は子路の様子を見て釘を刺す、学問の道はこれで終わりではない、由よまだまだぞ、と」

 

#論語

 

○金曜日の夕方、通勤

 

子曰、歳寒、然後知松柏之後彫也。子罕篇二十八

 

孔夫子はいわれた、厳寒になってこそ、松や柏の葉の緑が遅く枯れ落ちることが明らかになるものだな。

 

「困難の時にこそ人の真価が問われるもの。学問の道を歩む者は、度々その厳しさに打ちのめされるものだが、本来何の為に学問を始めたのか、目的と志を明確に懐く者はへこたれない。初心こそ原点であり、貫くことが出来るか、出来ないかでその人の学問は大きく変わる」

 

#論語

 

○金曜日の夜、自宅

 

「何故気付かない、Aの肯定B、Aの否定C、何れも同じ結論Aに至るべく仕組まれている、いつまで犠牲を強いるのか」

 

「同じ土俵のままで勝てる道理があるものか」

 

「そのもの自体、卓袱台をひっくり返す以外に勝つ方法などあるものか、歴史を省みるべきだ、拙すぎる」

 

#三行詩

 

「世の理不尽という不公平を思う、曰く、為すべくして為すべく因果とか」

 

「世界中の人、全てを幸せには出来ないとか、」

 

「でも私は幸せになりたい、私だけは、私のみは幸せになりたい。だから皆幸せになれない、理解しても変われない」

 

#三行詩

 

「故にいう、人である限り苦しみ、のた打ち回るのだ、我らはそういう生き物だ」

 

「動物、生体である限りは、弱肉強食の縛りからは逃れられない」

 

「人が三大欲求から解放される(不可能だろう)、されない限りは無理ではないか。人間一匹、所詮は獣だ、全ての獣の頂点でもある」

 

#三行詩

 

「多くの獣たちの頂点に立つ人という動物は、自らを省みるべきだ」

 

「成すべきことを為せとは、それぞれの立場においてそれぞれの中庸(如何なる時、場所、場合に於いても最適解)たる存在たれということだ、栄えるにしろ滅ぶにしろ、人の創造した最善の徳である中庸であればよい、と思う(所詮、50億年後、地球は太陽に呑み込まれるのだ)」

 

「で、なければ、獣の頂点に立つ本能のままに、植物を、動物を、資源を、全てを喰らい尽くして最後は自らを喰らう、それだけだ」

 

#三行詩

 

○土曜日の午後、ウオーキング

 

子曰、知者不惑、仁者不憂、勇者不懼。子罕篇二十九

 

孔夫子はいわれた、仁徳を知る知者は物ごとの正しきことを知るが故に何かに惑うことがない。仁徳を実践する仁者は世界のあるべき姿とともに存在するが故に憂えることがない。仁徳を指針とする勇者は物ごとの正しきことを行うが故に何者にも怖れることがない。

 

「仁徳とは、広義には世界を忠恕にて包みこむことであり、狭義には父母から受けた慈愛を広げるこという。根本には孝があり、枝葉を伸ばす為には学問の道を歩まなければならない。故に仁徳と共に歩む者とは、惑わず、憂えず、恐れない」

 

#論語

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所感)

■学問の道ー「派閥解散のすゝめ」

論語を学ぶのに注釈書を手元に置くのは当たり前のことだ。

集注、集解、義疏、古義、論語徴、それぞれに長短あるも、最後は好みで良いのではないか。

宜しくないことは、集注派とか古義派とか、論語に向き合うのではなく、派閥争い、他派を貶す、陥れることを学問とする人たちだ。

人の粗を探して、我が派(私は)正しいとする。

良くない。目的は論語を学ぶ、実践する、省みる、改めることだ。

二千五百年前に実在した人の語録集で、この二千五百年の間、あれこれ注釈されてきたのだ。どうして完璧であろうか。

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