四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

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三行詩 第百二十七章(子罕第九②)

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○月曜日の朝、2月19日、通勤

 

且予与其死於臣之手也、無寧死於二三子之手乎、且予縦不得大葬、予死於道路乎。子罕篇十二

 

(孔夫子はいわれた)そのような偽の家臣団に偽の大夫として天に見送られるより、門弟の二三人に見送られるほうがよい。大夫としての大葬がなされなくても、まさか亡くなったのち道に捨てられることはあるまい。

 

「重病で、このまま亡くなるかもしれない時の話し。孔夫子は礼節は尊ぶも、権力や世間の評判に対しては単に付属することであり、重きを置いていないことがよく理解る。孔夫子は私利私欲の人ではなく、終生を学問の道に歩まれたのだ。当然ながら先に亡くなった子路が登場する為、この時は病は持ち直された」

 

#論語

 

○月曜日の朝、乗り換え

 

「毎朝乗り換えで車内12分の待ちがある、座れたら寝る、不思議とこの短い時間で意識消え熟睡することが多い」

 

「駅到着1分前にアラームが鳴るようにしている」

 

「寝ぼけ眼でひょろひょろ車内を歩きながら出口に向かう、定年まで変わるまい、正直、朝は苦手らしい」

 

#三行詩

 

○月曜日の午後、一休み

 

イノベーションを受入れ、医療や生活の質を上げるのは賛成だ」

 

「しかし、古いもの、古くて良いものもある」

 

「機械式時計に愛着があり、この十七年間、腕時計は黒ミルガウスだ、最期は子に譲りたい」

 

#三行詩

 

○月曜日の夕方、通勤

 

子貢曰、有美玉於斯。韞匵而藏諸。求善賈而沽諸。子曰、沽之哉、沽之哉。我待賈者也。子罕篇十三

 

子貢はいう、ここに天下一の美玉があります。箱にしまって大切に保管しましょうか、或いは、善い買い手を探して、高値で売りましょうか。孔夫子はいわれた、売ろう、売ろうとも。ただ、私は善い買い手を待っているのだよ。

 

「孔夫子を天下一の美玉に例えて、高弟の子貢が孔夫子に仕官意思を尋ねた句。しかし孔夫子自ら仕官を君主へ働きかけはしない。何故なら、孔夫子は先王の教えを実践する人だ、自らの仁徳を広げて、周りから推薦されることが先王の教えである。そもそも目的は仕官ではない(自らの栄達や名声、権力を得る為ではない)、君子である君主を導き、天下泰平、苦しむ民を救うのだ。優秀な子貢は勿論、孔夫子の思いを理解している。しかし、諸国を遊説して十四年、君子たる君主は見つからず、孔夫子ほどの人が政を行うこともなく諸国を漂泊している。

忸怩たる思いで、師に、天下一の美玉をどうしましょうかと尋ねたのだ。それでも孔夫子はぶれない、何故なら、自らの存在に天命を自覚し、遥か遠い未来すら見据えておられたからだ」

 

#論語

 

○月曜日の夕方、乗り換え

 

「モラルを守らない隣人たちに怒る、そして法を強くする、社会全体に不満が広がる」

 

「モラルとは、自ら広げるものだ、他人への批判や増悪は、さらなる批判と増悪の連鎖しか生まない」

 

「孔夫子の教えとは、自らを誠にすることと人への思いやりだ。社会全体のモラルを上げるとは、個々が自らを誠にし、人を思いやる、実践しなければならない。その為にはやはり道徳教育を強化すべきだと思う。何を学ぶかは議論があってよいが、私は儒家を目指しているので論語と孝経の素読を奨めたい」

 

#三行詩

 

○月曜日の夜、自宅

 

「ひたすら焚き火の映像を流すYouTubeがある、最近お気に入りだ、寝る時に流す」

 

「2024年2月19日を生きる一人の日本人であるが、血筋を遡れば弥生、縄文時代に至る」

 

「13000年前のご先祖もこうやって焚き火を見ていたのだ、もっとも現代はiPadProだが」

 

#三行詩

 

○火曜日の朝、通勤

 

子欲居九夷、或曰、陋如之何、子曰、君子居之、何陋之有。子罕篇十四

 

(仁徳を省みない世の中を歎じて)孔夫子、遥か東方にある九夷という国に赴こうとする。或る人はいう、蛮族が住む国ではありませんか。孔夫子はいわれた、貴方のような君子が赴けば、瞬く間に仁徳に教化されるでしょう(道なきこの国より、未開でも純真な民が住む蛮族の国のほうがましではないですか)。

 

「九夷とは、昔、中国の漢民族が東方にあると考えた九つの野蛮国。畎夷  ・于夷 ・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷をいう。一説では、儒教の経典を学ぶことが好きで、文学や史書を愛読する民であったらしい」

 

#論語

 

○火曜日の夕方、通勤

 

子曰、吾自衛反於魯、然後楽正、雅頌各得其所。子罕篇十五

 

孔夫子はいわれた、諸国外遊中に衛や鄭で、周王朝から伝わる正しい演奏を学ぶ機会を得た。魯に帰国のち誤った演奏を改めさせた。今では朝廷の舞楽なる雅、宗廟の舞楽なる頌が、魯でも正しく演奏されるようになったのだ。

 

「後半の『得其所』(其の所を得たり)とは、かの周公旦を祖とする魯の国の礼楽が、先王の教えに則って正しく行われ演奏されるようになったことだ。孔夫子の故国を思う、故国を誇らしく思うお気持ちが伝わってくる」

 

#論語

 

○火曜日の夜、自宅

 

日課論語講義写経のち、明治書院『孝経』を毎夜ぼちぼち読んでいる」

 

「これは良書だ、初心者向けらしいが、儒学を学んでいる者からすれば根本を学べる」

 

「同じく初心者向けの朱熹の『小学』より、私は孝経のほうが好きだ、孔夫子の匂いがする、論語と同じ匂いだ」

 

#三行詩

 

○水曜日の朝、通勤

 

子曰、出則事公卿、入則事父兄、喪事不敢不勉、不為酒困、何有於我哉。子罕篇十六

 

孔夫子はいわれた、外に出ては朝廷にて君主に忠であり、内においては家で父兄に孝を尽くす。葬儀の場では礼節に則り弔慰を表し、酒席にて呑み過ぎることはない。私が行っていることは、このくらいのことだ。

 

「孔夫子は奇跡は起こさない、偉大なる中庸の人だ。如何なる時と場合、場所においても中庸たるとは、人、そのものの仁が礼と義、智と一つにならねばならない。仁とは道であり、道を楽しむとは学問の道においては究極にある。しかし、そのお姿はこの句にあるように、日常生活の普通にある」

 

#論語

 

○水曜日の朝、一休み

 

儒家の力量(積み重ねた学問)を知りたければ、仁とは何かを問えばよい」

 

儒家こそ仁徳屋の本領であるが、肝心の仁を述べることが実は難しい」

 

「禅問答や落語のネタのようであるが、自らを省みても思う、仁とは究極でもあり初心でもある、その人の学問そのままだ」

 

#三行詩

 

「私の仁を述べる、仁とは自らの内に広げるものだ」

 

「仁を究極的、宗教的に捉えると孔夫子の教えから外れる、日常生活での思いやり、その実践こそ仁であるべきだ」

 

「自らを誠にし、人を思いやる(忠恕)ことが儒学の目的ではない、仁とは広げる、周囲に及ぼすものだ。民を苦しみから救い、世界を天下泰平にする為の手段でなければならない」

 

#三行詩

 

○水曜日の午前、二休み

 

「幕末・明治の漢学者である根本通明先生ともなると、仁を述べるにも簡潔、要領を得られている、曰く、仁とは道なり」

 

「しかし、この言葉は、生半可な気持で向き合ってはならない」

 

「命懸けで学問に取り組んだ時代の人だ、先生の積み重ねた凄まじき学問、故に、仁は道であると述べれる。仁は人を現すとはそういうことだ」

 

#三行詩

 

○水曜日の夕方、通勤

 

子在川上曰、逝者如斯夫、不舎昼夜。子罕篇十七

 

川の流れを前にして孔夫子はいわれた、あらゆる事象はこの川のように過ぎ去ってしまった。そしてこの流れは昼に夜に止むことはないのだ。

 

論語の中でも『川上の歎』として特に有名な句。過ぎ去っていく川面に浮かぶ残像は、先に亡くなった顔回子路、伯牛、子の孔鯉たちが表れたのだろうか、或いは十三年間に渡り諸国を外遊した様々な出来事であろうか、自らの老い先の短さも自覚されている、故に孔夫子は人の世の無常を述べられたのだ」

 

#論語

 

○水曜日の夜、自宅

 

「兵器のステルス化+無人(AI)+低コスト=戦争の方法が変わる、平等化の四騎士の時代へ」

 

「犠牲者か、犠牲者しか生まれない敗者ばかりの平等化された世界に」

 

「いっそAIに任せたら=ターミネーターリスク有り、結局は人は地球の破壊者なのだろうか」

 

#平等化の四騎士(戦争・革命・崩壊・疫病 )

#三行詩

 

○木曜日の朝、通勤

 

子曰、吾未見好徳如好色者也。子罕篇十八

 

孔夫子はいわれた、人が美しい女性を好むように学問を好む者を私は未だに見たことがない。

 

「学問の道とは、人の三大欲求を越えて学び修めることだ(そうらしい)」

 

#論語

 

○木曜日の朝、乗り換え

 

「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲作品102が脳裏に流れている」

 

「どうも疲れているようだ、疲れるとブラームスを聴きたくなる」

 

ブラームスは良い、儒学に例えれば孟子だ、じっくり聴けば聴くほどに心に染みる」

 

#三行詩

 

○木曜日の夕方、通勤

 

子曰、譬如為山、未成一簣、止吾止也、子罕篇十九

 

孔夫子はいわれた、仮に山を造るとしよう、どうであれ天頂に最後の土を盛ることが出来ないのであれば、その山は完成はしないのだ。そしてその責任は、最後の土を盛ることが出来ない自らにある。

 

「山(学問)を造る(積み重ねる)に、四書五経を学ぶなり、日常生活での仁の行いなり、最後まで土を盛る(実践する)からこそ学問の積み重ねとなり、自らの仁を広げることになる。学問の道の成否とは、他人の行いや事象ではなく、あくまで自らの意思と行動の範囲内にある」

 

#論語

 

○木曜日の夜、自宅

 

「何ごとも因果律、原因と結果、運命とは必然だ」

 

「物ごととは、斯くあるべくして在るべき存在に帰結する、悲しみ、苦痛、後悔、絶望、虚無を伴いながらだ」

 

「故に『歓喜の主題』は歌う、怒りよ、全てを消し去れと」

 

#三行詩 #ベートーヴェン交響曲九番

 

「全身の皮膚に派生する耐え難き痒みの発作」

 

「十本の指で、十本の爪で、皮膚を繰り返し繰り返し掻き壊す、皮膚はなくなり肉を削る、血と浸出液にまみれても痒みは止まらない、これがアトピー性皮膚炎の現実だ」

 

「故に『歓喜の主題』を歌う、怒りよ、全て消し去れと」

 

#三行詩 #アトピー性皮膚炎

 

「根本に何が残る、少なくとも怒りと復讐は込みだろう」

 

「学問の道を歩もう、中庸に則り、来たるべき時に洋洋乎として笑みを浮かべて遺恨を晴らすのだ」

 

「故に『歓喜の主題』よと歌う、怒りよ、全て消し去れと」

 

#三行詩 

 

○金曜日の午前、自宅

 

譬如平地、雖覆一簣、進吾往也。子罕篇十九

 

(孔夫子はいわれた)仮に土地を平らにするとしよう、大きさはどうであれ、石塊を一つ取り除くことが出来たのであれば、その土地は平らに近づいたのだ。そしてその成果は自らにある。

 

「日常生活の中で一つ学問を重ねる、この一つを継続することが学問の道だ」

 

#論語

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○金曜日の午後、マクド

 

「不安定な時代、故に若い頃から老後を考える、堅実かな」

 

「不思議だ、私は老後を考えていない、何故なら死ぬまで現役のままだからだ、これからも学問の道を歩み続けるからだ」

 

「学問を学ぶ限り老後はこないと思っている、動けなくなったら多分、天国か地獄に居るのではないか、老後はなくていい」

 

#三行詩

 

○金曜日の夜、自宅

 

「気づきとは、得ようとして得れるものではなく、得るべく条件下にて起動する」

 

「しかし、真は、学び続ける限り気づきは不要である」

 

「何故なら、仁とは全てであり、どのような時、場所、場合でも、彼(彼女)が学問を学び求め続けている限り、仁であり続けるからだ」

 

#三行詩

 

「気づきを求めている事象、自体が学問に対しての不遜、仁、以外のもの、私利私欲を望んでいる自らが居る」

 

「目的と目標、方法と手段を逆転させられるとは私利私欲の巧妙な罠だ」

 

「根本に何があるのか、仁とは父母からの慈愛からぶれてはいけない。学問そのものが汚染される。自らではなく他者の思いやり不足を責める仁、傲慢不遜な一方向の正義を語る義、歪んだ学問は人にとって甘美、且つ危険であり、真の仁を駆逐すらするものだ」

 

#三行詩

 

○土曜日の午後、ウオーキング

 

子曰、語之而不惰者、其回也与。子罕篇二十

 

孔夫子はいわれた、多くの弟子に教育を施してきたが、学んだことを自ら考え、省み、改め、ずっと続けることが出来たのは、、、ああ、顔回のみであるな。

 

「師が述べることを聴くのは出来る、しかし教わったことを自らに約する人は少なく、約した教えを実践(礼)する人はさらに少ない。さらに結果を省みて改める人とは相当の人であり、ここから顔回は、これらを繰り返す、維持、継続出来る。三千人といわれた孔夫子の弟子でも無二の天才だったのだ」

 

#論語

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○土曜日の夜、自宅

 

孟子素読は毎日の日課だが、加えて、古事記を少しづつ素読している」

 

「よくわからないが、いち日本人の血脈か、奇妙に魅かれるものがある」

 

「敢えて現代語訳、意味の執着を捨てて韻のままに素読している、言葉が心、心が言葉になる感覚に、正直、戸惑っている」

 

#三行詩

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所感)

■学問の道ー「孝経に関しての私見

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孝経、天子章第二に、こうある、

『子曰く、親を愛する者は、敢て人を悪まず、親を敬する者は、敢て人を慢らず』

孝とは仁徳の根本であることが、よく理解る。

 

仁徳を説いた孔夫子の教えに、人として新たなステージや世の中を変える革新性を誘う箇所はない。

人であれば皆備わる、父母から与えらた慈愛を根本に、父母を敬うことを、周囲へ広げることを終生述べられた。

 

父母を敬するには礼節がなければならぬ。

父母に恥じぬ人間、足らんとすれば自らの悪を憎まねばならぬ。

思いやりと礼節、正しき義を得て、物ごとの在るべき姿を知る。

そして、最後は自らを誠に、人への思いやり、忠恕を周囲へ広げることとなる。

これら全ては、根本に父母からの慈愛があり、仁、礼、義、智へと広げる、即ち学問の道だ。

孝経を学ぶとは、自らのルーツを振り返ることであるし、自らの徳を学問で広げることだ。

 

孝経は他の経書四書五経に比べれば内容がシンプルで、理解し易く、儒学の根本を述べている。素読にも向いている思う。

 

古事記に関して

以前にこのブログでも書いた。

岩波文庫ホメロスの『イーリアス』、『オデュッセイア』は魅力に満ちあふれ、確かに面白い本だ。

岩波文庫の現代語訳も原作と同じく詩であり、素読して読む、読めば読むほど目の前の荒荒しき戦場で戦う英雄たち、神々の姿が浮かび上がる。

しかし、根本のところで違うのだ。

日本人では、理解出来ない異文化、民族の壁にぶち当たり、登場人物の顔が薄ぼんやりとしか見えない。

 

ところが、『古事記』の素読は違う。

日本人という民族の血のなせる御業か、遠いご先祖からの連なりが為せることか、言葉が心に伝わり、心が言葉になる感覚が、理解出来る。

古事記素読は、現代語訳に拘らない方が理解しやすい。

繰り返し、原文からの口語訳を素読していると、一身に、心に、この地で生まれることが出来た感謝と、自らの根本がここにあることの共感、感動が生まれてくる。

不思議だ。