四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

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三行詩 第百十六章(雍也第六②)

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○日曜日の午後、12日3日、ウオーキング

 

冉求曰、非不説子之道、力不足也、子曰、力不足者、中道而廃、今女画。雍也十二

 

冉求はいう、孔夫子の教え、先王の道に感動を覚えていますが、私の力は及ばず、いくら学んでも実践出来ないのです。孔夫子はいわれた、力が足らない者とは中途半端で諦める。一つで貫き通すことなく諦めていて、何が力不足であろうか。

 

「一つで貫くことが孔夫子の教えであり、眼目である。力が足りていようが、足らずであろうが何の関係もない。学問の道を問わず、物ごとを成すには一つで貫き通せば良い。仮に結果を出せず墓場に行ったとしても、貫き通したこと自体が十分な結果である」

 

論語

 

○月曜日の朝、通勤

 

子謂子夏曰、女為君子儒、無為小人儒。雍也十二

 

孔夫子は高弟の子夏にいわれた、汝は民を救う儒家になりなさい。経典を読むばかりの口だけの儒家とならないこと。

 

「過ぎたるは及ばざるが如しの『及ばざる』子夏だ。文学(六経や古典)は子游・子夏と評された。後に彼の学問の系統から荀子が出る」

 

論語

 

○月曜日の朝、一休み

 

「不思議だ、別にネガティブでもないのに映画『シンドラーのリスト』のシーンが浮かぶ」

 

「ゲート所長は豚のように泣き叫びながら死刑台にて処刑された、と字幕が出るシーン」

 

「映像はなく、ナレ死すらない、字幕死で生きる災いの最後を描いた、凄まじき怒りの表現」

 

#三行詩

 

「続いでリチャード・バックマン(S・キング)の小説、バトルランナーの最後のシーン」

 

「キリアンの言葉と、中指を上げるリチャード、その後の街の描写」

 

「三十年前に読んだ小説や観た映画の一シーンがフラッシュバックする理由がわからない、興味深い」

 

#三行詩

 

○月曜日の昼、昼休み

 

「新釈漢文大系 礼記(中)読了。勿論、言葉を追ったのみで何も学んではいない」

 

「通読を繰り返し、頭の中に光景が浮かぶまで繰り返し読む」

 

孟子は三年前から繰り返し通読・素読している、礼記も今から三年は通読したい、言葉が心に伝わるまで読み続ける」

 

#三行詩

 

○月曜日の夕方、通勤

 

子游為武城宰、子曰、女得人焉爾乎、曰、有澹台滅明者、行不由径、非公事、未嘗至於偃之室也。雍也十四

 

高弟の子游、武城の長官に任命される。孔夫子はいわれた、武城で仁徳に優れたな者は居たのだろうか。子游はいう、澹台滅明という者を見つけました。道を行く時は近道をせず、公事がなければ私の部屋に来たことない公正無私の人物です。

 

「澹台滅明(たんだいめつめい)という人は醜悪な様相をしていた、と伝えられる」

 

論語

 

○火曜日の朝、通勤

 

子曰、孟之反不伐、奔而殿、将入門、策其馬曰、非敢後也、馬不進也。雍也十五

 

孔夫子はいわれた、魯の大夫であり、勇猛で知られた孟之反は、自らの功績を誇ることはなかった。戦争で敗北した時には最後尾を務め、最後に城門に入ろうとする時、馬を鞭打ちながらいったのだ、最後尾を務めたわけではないぞ、ただ、馬が遅くて進まなかっただけだ、と。

 

「大夫の馬が遅いわけがない。カラッと晴れた空の様な男っぷりと、私心のなさを孔夫子は褒められた。ユーモアさえも感じる」

 

論語

 

○火曜日の夕方、通勤

 

子曰、不有祝它之佞、而有宋朝之美、難乎免於今之世矣。雍也十六

 

孔夫子はいわれた、衛で雄弁家と知られた祝它のような能力もなく、美貌だけの宋朝のような男では、世の中を乗り切ることは難しい。

 

「孔夫子は巧言令色、不仁の輩を嫌われたのだ」

 

#論語

 

○水曜日の朝、通勤

 

子曰、誰能出不由戸、何莫由斯道也。雍也十七

 

孔夫子はいわれた、人は家から出るときは扉から出るものだ。なぜ、人でありながら仁徳を広げず、獣のように私利私欲へ走るのか。

 

「仁徳を広げるとは特別なことであろうか、否、人であれば皆生まれつき備えることであり、畜生・獣と人を分つ、人としての進化の姿に他ならい。孔夫子は深く嘆かれている」

 

論語

 

○水曜日の夕方、通勤

 

子曰、質勝文則野、文勝質則史、文質彬彬、然後君子。雍也十八

 

孔夫子はいわれた、素質や才能が優れても、礼を学ばなければ野人であろうし、礼のみが優れ、素質や才能を育てていなければ文書係で終わる。自らの素質や才能と、礼を、学問の道にて共に育ててこそ君子といえる。

 

「文質、彬彬(ひんぴん)として、然る後に君子なのだ。学問の道とは四書五経の知識を得るだけではない、学び得たことを実践し、自らを磨き上げるからこそ学問の道なのだ」

 

論語

 

○木曜日の朝、通勤

 

子曰、人之生也直、罔之生也、幸而免。雍也十九

 

孔夫子はいわれた、人とは本来、仁徳に基づき公正に直く生きるものだ。私利私欲に歪んで長く生きている者は偶然にしか過ぎない。

 

「私利私欲に顔を歪ませ、国民の生き血をすすりつつ、末永く生き続ける世襲某国会議員団とは、もはや人ではないかも知れない、欲の権化、妖怪の一種、火宅の住人たち、南無阿弥陀仏

 

論語

 

○木曜日の夕方、通勤

 

子曰、知之者、不如好之者、好之者、不如楽之者。雍也二十

 

孔夫子はいわれた、学問の道とは、知る者は好む者に及ばず、好む者は楽しむ者には及ばないものだ。

 

孟子にある、大舜(舜帝)は、善いことを行うことを楽しみとし、周りを巻き込んで皆で更に善いことを行うことを楽しまれたという」

 

論語

 

○金曜日の朝、通勤

 

子曰、中人以上、可以語上也、中人以下、不可以語上也。雍也二十一

 

孔夫子はいわれた、学問の道を人並みに行った者であれば、学び方を心得ているので更に学問を進ませるのが良いが、中途半端に学問をした者は、自ら考えることを理解しておらず、学問を進ませても得るものは少ない。

 

「師からの教えを受け止めて、自らはどう思うのか、どう実践すべきかを考えない人とは、やはり進捗が遅い。能力の有無ではなく方法論のレベルであるが、そのまま歳を取る人もいる。学び、思うから討論もすれば納得(改めること)も出来る」

 

論語

 

○金曜日の夕方、通勤

 

樊遅問知、子曰、務民之義、敬鬼神而遠之、可謂知矣、問仁、子曰、仁者先難而後獲、可謂仁矣。雍也二十二

 

弟子の樊遅、知を問う、孔夫子はいわれた、民の為に規律・規範を自ら示し行動する、鬼神を尊ぶも怪奇や奇跡から自らを遠くする、知といえよう。樊遅、さらに仁を問う、孔夫子はいわれた、民の苦しみを救う為に率先して難事に取り組み、民の笑顔を以って満足する、仁といえよう。

 

「孔夫子の教えはぶれることがない、先王の教えに徹しておられる。そして、一つに徹するが故に全てを包み込んでいる」

 

論語

 

○金曜日の夜、焼き鳥屋さん

 

「幸せの定義とは、をSNSで問う人あり」

 

「そもそも、人それぞれの幸せを定義付けられるものだろうか」

 

「定義、という言葉自体にむかつく、お偉い先生方の上から目線、人の幸せくらい放っといてくれ」

 

#三行詩

 

○金曜日の夜、紀伊國屋書店梅田本

 

「井波律子著『論語入門』、岩波新書、名著だと思う」

 

論語の内容は言うまでもなく、井波先生の美しい日本語の解説にうっとりする」

 

「文章が薫る人がいる、学問を正しく積み重ねられた匂いがする、良い買い物をした」

 

#三行詩

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論語コーナーへ、どうして明治書院版がないのか、謎」

 

「処世術、馬鹿を見ない、一分間で、人間学、珠玉の教え、心が冴えわたる、等々の言葉が並ぶ、」

 

安岡正篤先生の本が多く置いてあるのは◎だと思う」

 

#三行詩

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○金曜日の夜、自宅

 

「学問に男女差別はない、しかし、井波律子先生や塩野七生さんの文章を読むと怪しくなる」

 

「女性・母の視点だろうか、歴史上のやんちゃ坊主どもを軽くいなして、香り高く、誇らしげに描く様々は素晴らしいの一言だ」

 

「毎日、論語の一句一句を意訳して自分の思うことを述べているが、井波律子先生の『論語入門』の解説は素晴らしいと思う。きちんと先生の考えられたこと、自身の思いを述べられてる。蒲鉾を切ったような、似たような論語解説本が多いなか、普通の書店で手に入る本では白眉ではないか」

 

#三行詩

 

○土曜日の夕方、ウオーキング

 

子曰、知者楽水、仁者楽山、知者動、仁者静、知者楽、仁者寿。雍也二十三

 

孔夫子はいわれた、知者とは水の如く世の中を楽しみ、仁者は山の如く世の中を楽しむ。知者は流れるように動き、仁者は泰然としている。知者は楽しみが尽きることはなく、仁者は悠然として長寿を得る。

 

「仁者は何故、泰然自若としているのか、礼に基づき、中庸を以って常に仁徳の内に自らを置いているからだ。学問の道とは君子を目指すものであるが、聖人しかり、そう並大抵になれるものではない。故に仁者という存在がある」

 

論語

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○土曜日の夜、倉敷コーヒー

 

「夕食のち妻と近所の倉敷コーヒーへ、バッハの平均律クラヴィーア曲が流れている」

 

「今日、着いたばかりの新釈漢文体系、伝習録を開く」

 

「妻の今週の話しを聴きつつ、本に魅せられてゆく、伝習録は中公クラッシック版は読んだが、明治書院は初めてだ」

 

#三行詩

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所感)

■土曜日の午後、マクド

妻が仕事の為、朝、出勤前に家事を託された。

午後から、子を叱咤激励しながら二人で掃除、洗濯、皿洗いをする。

途中、洗濯物を入れるカゴを子に買いに行かせた。

あいにく、売っていなかったが代替品を自分で考えて買ってきたのは良かったと思う。

 

■学問の道

孔夫子の教えとは、実学でなければならない。

四書五経経書の知識を誇る、或いは言葉尻の中に思考を埋めてはいけない。

心とは、曖昧のようでいて正直だ。自らの行いが心となる。

孔夫子の教えとは、日常で実践してこそ、正した心を行いへ昇華してこそ、真価を発揮する。

 

縁があり伝習録を再び読み始めた。

以前は取り付く島もなく、曖昧模糊とした観念論に打ちのめされた。

今回は、「あらゆる儒学実学である」という物差しを使って読んでいる。

なんとなく、大好きなルキウス・アンナエウス・セネカ(ストア哲学)を読んでいるような感がある。王陽明セネカに共通点があるのか、よくわからないが、興味深く思う、のち明らかにしていきたい。