四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

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三行詩 第百二十六章(子罕第九②)

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○日曜日の朝、2月11日、森

 

大宰問於子貢曰、夫子聖者与、何其多能也、子貢曰、固天縦之将聖、又多能也、子罕六

 

呉の大宰である嚭、子貢に問う、孔夫子は聖人であられるも、どうして諸事多能であられるのか。子貢はいう、孔夫子は天より許しを得た、真の聖人であられます。その上に天より多能も授けられたのです。

 

「高弟の子貢であれば、当然ながら孔夫子の出自も存じているし、聖人は多能ではない先王の教えも知っている。故にこのように、多能も天からの命であると嚭にお答えしたのだ。孔門きっての秀才、子貢らしい返答だし、子貢が如何に孔夫子を尊敬しているのかも伝わってくる」

 

#論語

○日曜日の朝、自宅

 

「ここ半年、アトピーの浸出液止まらず毎朝夕、包帯を巻き続けている」

 

「手首は最初を固定せねば回転し悪化する、薄く巻かねばジュクジュクが乾かない」

 

「脚は巻くよりも縦に貼り紙テープで抑える方法がよい、PDCAを繰り返すのは仕事と変わらない」

 

#アトピー性皮膚炎 #三行詩

 

「問題はメンタル維持だ、浸出液からの悪臭や、不定期の痒み発作はアトピー歴30年でも堪える」

 

「身体は動かさねばならぬ、しかし動かすと浸出液は止まらぬ、ジレンマか」

 

「やがて始まる仕事日に向けて、少しでも肌を回復=身体を動かさない、せめてSNSでボヤくくらいが目一杯とは情けない」

 

#三行詩

 

○日曜日の夕方、ウオーキング

 

シューベルト、魔王を聴きながら、そろりとそろりと歩いている」

 

「傷口が開かないように、痛みを堪えつつ、花粉で涙目になりながら」

 

「Siehst, Vater, du den Erlkönig nicht?、まさに、こういう気分だ」

 

#三行詩

 

○月曜日の午後、散髪屋さん

 

子聞之曰、大宰知我者乎、吾少也賤、故多能鄙事、君子多乎哉、不多也。子罕篇六

 

大宰である嚭と子貢との話しを聞いた孔夫子はいわれた、大宰は私を知る人であるな。私は低い身分から志を得て今がある。故に、諸事において多能なのだ。君子が多能であるべきか、いや、多能である必要はないものだ。

 

「孔夫子は王族や貴族の出ではない。年若くして父親に先立たれ、若い頃には倉庫番や牧畜で生計を立てておられた。君子とは多能である必要はない、との言葉は苦労人である孔夫子にとって、自らの生まれを振り返るとても重い言葉であることが伝わってくる」

 

#論語

 

○月曜日の夕方、ウオーキング

 

「子の髪が鳥の巣に、散髪屋へ連れていき、のち松屋で昼飯、子はチー牛大好き」

 

「帰りにユニクロへ、子の服を買う、無地黒ばかりは親の影響かも」

 

「のち子は家へ、太るばかりの父は森へ、ここ三日安静にしたお陰か皮膚回復する」

 

#三行詩

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○火曜日の朝、通勤

 

牢曰、子云吾不試、故芸。子罕篇七

 

子張はいう、孔夫子はかつていわれたことがある、私は若い頃には官職に就くことが出来なかった。故に多能多芸なのだよ。

 

「孔夫子の弟子たちの、ほとんどの者は低い身分のものだ。孔夫子は生計を得る為に多能多芸となられたが、弟子たちには学問の道を歩み、自らの徳を広げて仕官する道を開いた。いつの時代でもパイオニアとは大変な苦労を重ねるものだと改めて思う」

 

#論語

 

○火曜日の朝、乗り換え

 

「日中は暖かいとアウターを一枚減らすも朝は寒い、結果、駅トイレに駆け込んだ」

 

「見知らぬ人と一斉に歩く梅田の歩道橋、旅行者の笑い声が妙に癇に障る連休明け」

 

「車内にて睡魔に膝カックンで意識戻る、慌てて案内表示装置を見るもハングル語で焦る」

 

#三行詩

 

○火曜日の午前、一休み

 

無宗教の人は信仰はない、本当にそうなのだろうか」

 

「信じ仰む対象とは宗教だけではない、例えば自然現象に人は人の限界を覚え、畏憚、敬憚、畏敬するのは当たり前のことだ」

 

無宗教者はロボットではない、雷鳴が轟けば不安に駆られ空を仰ぐ、心は人だ」

 

#三行詩

 

「そもそも、無宗教の人たちという括りで、儒学は理解出来ないとすることに疑問を感じる」

 

「人であれば、人の心があれば、孔夫子の教えは、学び修め続ければ身につく」

 

「仮に、出来ないとするならば、獣や畜生の類、或いは私利私欲の傲慢不遜な権力者、または驕慢独智の人ではないか」

 

#三行詩

 

「敬うという気持ちの根本には父母からの慈しみ、兄弟への孝悌がある」

 

「おそらくは、この仁徳の人の世界から、それらを包みこむ、存在する全てを包みこむ、世界観、汎神論的な意味合いで全てを『敬う』思いの大切さ、ということを述べられたかったのだと思う」

 

「であれば十分に理解出来る。思想、哲学はおろか、芸術、音楽、絵画、等々、、汎神論的な世界観、それを追い求める感覚とは、私たち火宅の人の求める究極の姿かも知れない」

 

#三行詩

 

○火曜日の午後、二休み

 

「何故、無宗教の人に対するネガティヴな言葉に反応してしまうのか」

 

「亡父が無宗教であったこともあるし、自らに信仰がないこともある」

 

「聖書を繰り返し読み、教会に行き牧師様に繰り返し質問したこともある」

 

#三行詩

 

歎異抄は大好きだ、かつて毎日、原文を素読し、前半分は暗唱出来るくらいに今でも大好きだ」

 

「しかし、信仰はない、得ようとして得れるものではないのかも知れない」

 

「今は、一遍上人全集と柳宗悦著『南無阿弥陀仏』で留まっている、ここが居場所かも知れない(以前、信仰はないが)。一遍上人があるお坊さんに念仏札を配ろうとし、お坊さんは信仰がない自分は受け取らないという、一遍上人はそれでも念仏札をお坊さんに配る。 何故か、全知全能の南無阿弥陀仏が自らのご意思で人を救うのだ、人が自らの行いで救われるわけではない。私は無宗教、無信仰の人間ではあるが、この話しが妙に肚に収まる。少なくとも他人の宗教の有無を気にするよりは、独り、南無阿弥陀仏と唱えるほうが好きだ」

 

#三行詩

 

○火曜日の夕方、通勤

 

子曰、吾有知乎哉、無知也、有鄙夫、来問於我、空空如也、我叩其両端而竭焉。子罕篇八

 

孔夫子はいわれた、私のことを世の人は博学で何でも知っていると聞き及ぶが、そのようなことはない。田舎の人がわざわざ私の家の門を叩き、何かを問うとする。私はその質問の意図すること、背景、知りたいこと、等々を端から端まで確認し、最後に最適解を述べているに過ぎない。

 

「人に全知は不可能な領域だ。しかし物ごとの中庸、最適解は導き出すことは出来る。当然ながら中庸に至るには相当の学問が必要だ。ある意味、世の人の言葉は間違ってはいない。孔夫子とは学問の人であり、あり続ける人だ。博学で何でも知っているとは、忠恕(仁)を以て正しい判断(義)を行う人のことだ」

 

#論語

 

○火曜日の夜、自宅

 

「根本通明先生『論語講義』雍也第六、二百十四項にある」

 

『親たる者は長い間、子の為に心配をして、子たる者の為に心を盡くす。其の愛する所の心が死ぬまで衰えない。これを慈と伝ふ』

 

「子であった自らと、親である自らが繋がるとき、慈愛を自覚する、仁とはここだ」

 

#三行詩

 

○水曜日の朝、通勤

 

子曰、鳳鳥不至、河不出図、吾已矣夫。子罕篇九

 

孔夫子はいわれた、終に、聖天子が世に現れる瑞兆であるとされる鳳凰は現れず、黄河に河図(竜馬の背に描かれた図。八卦の元とされる)も現れなかった。私とて、どうしようもない。

 

「苦しむ民を救い世の中を天下泰平にするべく、君子たる君主を待ち望むも、国を外遊すれども私利私欲の君主ばかりであり、終に夫子も晩年を迎えてしまった。孔夫子をして『吾已矣夫(吾已んぬるかな)』どうしようもない、と述べられた、私心なき救世ままならぬ嘆きが伝わってくる」

 

#論語

 

○水曜日の午後、一休み

 

「自らの学問を誇る、学んだ知識で美文、名文を書く、学問の道はそこではない」

 

「大学の三綱領にある。明徳を明らかにする。 民に親しむにあり。至善に止まるに在り」

 

「自戒せねばならない、傲慢不遜とは、権力者だけではない、独学の世界にもある」

 

#三行詩 #自戒

 

○水曜日の夕方、通勤

 

子見斉衰者冕衣裳者与瞽者、見之雖少必作、過之必趨。子罕篇十

 

孔夫子は喪服を着た人、衣冠束帯(高官や貴人)をした人、目の見えない人を見かけられたら、年齢の高い低いを問わず、必ず立って道を譲られた。そして、ご自分がその人たちの前を通る場合は、必ず足を早められた。

 

「人として当たり前のことを行うのが孔夫子の教えであり、父母から受けた慈愛を他の人に広げるとは、日常生活の当たり前の行いにあることが良くわかる。一方、昨今、親切な行いの根本に何があるか省みれず、人に思いやりを示せない、困った人を見ても無視や傍観する人が増えているのも、一つの現実だ」

 

#論語

 

○木曜日の朝、通勤

 

顔淵喟然歎曰、仰之弥高、鑽之弥堅、瞻之在前、忽焉在後、子罕篇十一

 

顔回、孔夫子と自らの学問の差を思い、歎じていう、孔夫子の仁徳とは、仰げば山脈のように高みに居られ、これを穿とうとしても金剛石の如くびくともしない。前を進まれていたので追いかけてみれば、いつの間にか後ろから見守っておられる。

 

顔回は天才で聖人だ。この人が此処まで絶賛する孔夫子とは、やはり人類史上の偉人なのだ。また、顔回の孔夫子を賛し形容した言葉も興味深い。天才・顔回ならではの視点だと思う。同じ高弟の子路や子貢でもこうは述べれまい、と思う」

 

#論語

 

○木曜日の朝、乗り換え

 

「自らを悪人と思っている人は少なかろうし、当然ながら私も属性は中か善寄りだと」

 

「最近、学問のお陰か、自らの独善に、日和見に気付く」

 

「自らが善と思うことが必ずしも人の善とはならない、それでも善は善と突き進むべし、と」

 

#三行詩

 

「中途半端な気概で学問はするものではない」

 

「関西風に述べれば、おもんない(面白くない・笑いが足らない)のを恥とすべきだ」

 

「まだまだ独善が足らない、小さな善に固まり、大きな善に寄っていない」

 

#三行詩

 

○木曜日の夕方、通勤

 

夫子循循然善誘人、博我以文、約我以礼、子罕篇十一

 

(顔回はいう)孔夫子が学問を教えられるときは、学ばなければならないこと(目的)を整理整頓し、順序を立てて(目標を刻んで)、一つ一つ導かれた。そして、経書を学ばせることにより知識を広くさせ、先王から伝わる礼儀礼式を実践させることにより規律を心身に覚えさせた。

 

「学問の眼目とは、幅広く文(経書史書)を読んで自ら学ぶことと、学んだ文を自分なりに約(整理・整頓)して(自らの課題や疑問点を明確にしてから)、師に習うことだ。文と約の意味するところは、学問の道にとって切実かつ必須でもある」

 

#論語

 

○木曜日の夜、自宅

 

「根本通明先生の『論語講義』を毎夜写経し、自らの学問が進むを理解する」

 

「次が見えだした、必然的に苦手である老子に進まねばならない、と確信する」

 

「同じく新釈漢文大系〈8〉荘子 下巻も購入する。諸橋轍次先生の『老子の講義』をベース基地に、蜂屋邦夫先生の老子福永光司先生の老子、今回の明治書院、こつこつと集めてきた老子がようやく日の目を見る時、来たれり。ただ、『孝経』の次なので、2025年夏くらいの予定、学問の時間が足らない」

 

#三行詩

新釈漢文大系〈7〉老子荘子 上巻

 

○金曜日の朝、通勤

 

欲罷不能、既竭吾才、如有所立卓爾、雖欲従之、末由也已。子罕篇十一

 

(顔回はいう)私は学問の道のあまりの厳しさに途中で力尽きようとし、才も枯れ尽きてしまった。しかしながら、依然として、遥か先に山脈のように孔夫子は聳え立たれている。夫子の歩まれた道を私も歩もうとするも、あまりの高さにどうしようもないのが現実だ。

 

「天才顔回、故に孔夫子の歩まれてきた道の凄まじさ、あまりにも高みにある夫子の学問の域を理解する出来るのだと思う。このレベルは、もはや語る言葉がない、推察すら出来ない」

 

#論語

 

○金曜日の朝、乗り換え

 

「去年の年末に購入した、明治書院史記(各巻)をぼちぼち読んでいたが、中断する」

 

「孝経を先に通読しよう、通勤中の論語の意訳と夜の根本先生の論語講義の写経は継続する」

 

「せっかくの明治書院老子荘子だ、来年まで待てない、取り敢えず通読のラインへ」

 

#三行詩

 

○金曜日の夕方、通勤

 

子疾病、子路使門人為臣、病間曰、久矣哉由之行詐也、無臣而為有臣、吾誰欺、欺天乎、子罕篇十二

 

孔夫子の病、いよいよ重くなり、子路、万が一のことを思い、せめて大夫としての葬儀を行うべく、門人たちを臣下として準備させた。のち、病、持ち直した時にこのことを知り、孔夫子は子路にいわれた、由(子路)よ、汝の取り繕うのを見るは久方ぶりであるな。私は隠棲して今は家臣を持つ身ではない、誰を欺いて大夫としての葬儀を望もうか、ましてや、天を欺くことなど、私が望むわけがあるまい。

 

子路らしい。門人たちも孔夫子なら、そのようなことを望まれぬと知りながらも、塾頭格の子路の命じるままに準備をしていたのだ。門下生の暗然たる気持ちと、不世出の偉大なる師を、せめて大夫の格礼でお見送りしたいという思いが伝わってくる。孔夫子も弟子たちの思いを十分に理解されている」

 

#論語

 

○金曜日の夜、自宅

 

「世界を一つの国とし、仁徳を以て民を主として、民の幸せを一とする君子を上にいだく政を行う」

 

「ここが儒学の限界かも知れない」

 

「一に君子の育成条件に問題を思う、二に民の幸せの定義があやふやである、三にこれが仁とは限らない」

 

#三行詩

 

「孔夫子の教えに限界はない、何故か、夫子の教えとは普遍であり人の未来を述べている」

 

儒家儒家で良い、ただ、変わらないこと、変えなければならないこともある」 

 

吉田松陰先生はいわれた、孟子に阿るなと、現代に則した孟子の教えがあり、現代で全うすべき孔夫子の教えがある」

 

#三行詩

 

儒学を学ぶのは足らずに過ぎる、私利私欲、独善の自らを改め善き人になる為だ」

 

「しかし、学問の道を学び思う、この国と人の問題の原因と結果とは個ではない」

 

「私が、今、そうであるべき私であるのは国家の教育にあり、自らが望んだ私とは、学問の道にある」

 

#三行詩

 

「何故、儒学を学ぶと生まれてから擦り込まれた、こうであるべきと矯正された現実から解放されるのか」

 

論語孟子とは人としての至善、人の本来の姿たる中庸が述べられているからだ」

 

儒学を学ぶとは、今、此処の本当の現実、真実に気付く方法だ、本来の人の性とは、忠恕であり、礼節と義にある」

 

#三行詩

 

「人とは、ままならぬ自らの私利私欲により自ら悲しみ、自ら苦しむ生き物であるが、一つを抱けば変わることが出来る」

 

「私心を私欲を、思いやりへ」

 

「自らの心を誠にし人への思いやりを抱く、自ら規範(礼)を示し、自らの悪を憎み、周りにこれらを及ぼす、人は善に至れる」

 

#三行詩

 

○土曜日の夜、自宅

 

明治書院荘子(下)来たれり、ほぼ新書状態、ラッキーだ」

 

荘子は、よく乾いた干し草の匂いがする、岩波文庫版は繰り返し読む」

 

「ただ儒学対比での一部表現は気にはかかる、が、荘子は好きだ、性に合う」

 

#三行詩

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○日曜日の夜、自宅

 

「AIを活用したイノベーションとは素晴らしい可能性、未来を感じる、世界は変わる」

 

「しかし、過去の技術革新と同様に兵器活用が世界中で最重要課題となっている現実もある」

 

「衛星とリンクする最新型の自動運転付きの車や位置情報を発信する腕時計等を仕事で使うのであれば、勿論受け入れる、しかし、プライベートであれば正直、機械式の車や腕時計の匂いや面倒くささの方が私は好きだな」

 

#三行詩

 

所感)

■学問の道ー「偽善のすすめ」

1、傍観や無視が、奇妙なことに社会の暗黙のルールと化した今日この頃。

偽善や独善ですら消え去り、無関係、無関心であることが社会の常識、良識になりつつある。

 

礼は、無意味な動作と定例句の往復と化した。

義は、他人の悪を集団で憎むことと化した。

 

文字通り、世界はあちこちの動物園となりつつある。これなら、偽善、独善の世界の方が、まだましではないか。

偽善でも善は少しは残る、独善でも(少なくとも)善という意識はある。

 

人の性は善だ。工場で赤ちゃんが生産され、管理、出荷されない限りは望みはある。

父母から子に与える慈愛は普遍、不朽だ。

善とは、ここから始まる。

 

・偽善も、全てを善で通せば善となる。善を受けた者は善となる、及ぼされる。

・独善も、小さな善、周りを省みない善ではなく、大きな大きな善を描けばよい。

 

世界を大きく包む善(仁徳)は孔夫子であるが、少なくとも家族を包みこむことから、善は始まる。

現代で道徳が失われつつある原因は、家族の中身にある。家族の内でも個人主義が横行し、父母を、子を、お互い思いやれないまま社会に出てしまう。

 

2、思いやりとは、及ぼす、及ぼされるものだ。

昨今の凄惨な事件を例に取ると、極端過ぎるきらいはあるが、一つの真実ではある。

今、家庭では、偽善や、独善ですら消えつつある。無関心、無関係、傍観、無視、これらの発生源は家庭からだ。

昔であれば、毒親とは偽善、独善の固まりのような人であったが、今やそれすら失せ、無関係、無関心の集まり(家族)から、挙げ句に殺人事件までいく。

 

なら?、嘘でも良い、家庭内でも失われた偽善、独善を復活することだ。

きっかけは、偽善を大きく広げる、独善を爆発させればよい、小ぢんまりするからよくない。

叱る、怒る、怒鳴り合う。

そこから感情と感情がぶつかる、毎日ぶつかり合うことが、いつかお互いの理解へと繋がる。

親子関係とはドロドロでいい。そこから互いが学ぶ、成長するものだ。

少なくとも、無関心、無関係、傍観、無視はなくなる。

 

・十全偽善でも、善を貫けば、いつかは本当の善となる。善を受けた者にとって善であればよい。

・独善✕独善✕…、独善も小さな善を大きく、正しい方向へ広げていけば本当の善となる。

と、私は思う。