『樊遅問仁、子曰、居処恭、執事敬、与人忠、雖之夷狄、不可棄也、』
○「樊遅問仁、子曰、居処恭、執事敬、与人忠、」
▶樊遅、仁を問う。
孔夫子はいわれた、常、日頃から行いは恭しく、事を為すに慎み深く、人とは誠を以て接する。
❖ 儒家、行動基本原則
誠実、実直、筋肉マンの樊遅が夫子に仁徳を問うた。文に進まぬ(経書を学ばぬ)樊遅の伸びしろは少ない。
故に、夫子は儒家、基本の徹底を述べられた。
言葉を少なく(余計なことは喋らない)し、行いは礼儀作法に則り恭しく、ことは必ず為
し遂げて周囲から信頼を得る、何ごとも自らの誠を以て人と接しなさい、と。
○「雖之夷狄、不可棄也、」
▶たとえ、異国の野蛮な土地に居ようが、変わらずに続けることだ。
❖ 樊遅の仁
(仮に)異国の地で仕官しようとも、儒家基本形をしっかりと身に付けていれば、「樊遅の仁徳」を周囲に広げる、及ぼすことが出来るであろう。
ひいては、世の中を善い方向へと変えるに違いあるまい、と。
樊遅の長所を伸ばそうとする夫子の思いが溢れる出ている。
『子貢問曰、何如斯可謂之士矣、子曰、行己有恥、使於四方不辱君命、可謂士矣、曰、敢問其次、曰、宗族称孝焉、郷党称弟焉、曰、敢問其次、曰、言必信、行必果、脛脛然小人也、抑亦可以為次矣、曰、今之従政者何如、子曰、噫、斗肖之人、何足算也、』
○「子貢問曰、何如斯可謂之士矣、」
▶子貢は問う、どのような人が士なのですか。
❖ 玉石混合の時代
何故、子貢は士を問うのだろう、周王朝では支配階層の最下層を士とし、春秋時代では自らの能力により仕官出来た(出来る)者を士とした。
つまるところ、本来の士が揺らぎ、高き徳や能力により士となった者や、下克上により成り上がる士が玉石混合していた。
斉の桓公に仕えた管仲や、斉の景公に仕えた晏嬰もいれば、私利私欲で君主を滅ぼそうとしたり、権力抗争に明け暮れる士もいる
故に、子貢は自らを省みるとともに士とは何かを問う。
○「子曰、行己有恥、使於四方不辱君命、可謂士矣、」
▶孔夫子はいわれた、(学問を積み重ねて)自らの行いに恥を知り、他国へ使者として赴いても礼節に則り、堂々とした言動が出来る、君主の命を辱めることがない、
❖ 本来の士とは
これは明らかに子貢のことを述べている。
確かに、子貢は孔門三千人に中でも5本の指に入る逸材であり、史記にもその名を残した。
学問の積み重ねは、君主の代行を行える、或いは国政を改めれる、第一級の人材こそ本来の士であると夫子は述べられる。
そして、次の戦国時代では、諸子百家様々な思想家が現れ多様化した士が戦国の世を駆け巡る。
更に、次の秦朝では貴族社会は崩壊し、官僚制の中での士へと移り変わっていく。
○「曰、敢問其次、宗族称孝焉、郷党称弟焉、」
▶子貢は問う、次に士といえるのは、どのような人でしょうか。
孔夫子はいわれた、親族から孝が篤いと評され、地元でも慎み深いと評されていることだ。
❖ 儒家の士
国政を左右する、或いは君主の代理として他国へ赴く、次の人材、士とは何かを述べる。
ある意味、学問の道を歩む儒家のスタンダード像に等しい。
孔門とは、士になる為の私塾であり、礼楽、経書(詩経・書経)の研鑽を重ね、日常生活で実践する、せめてこのクラスまでが士である、と言外に夫子は述べられている。
○「曰、敢問其次、、曰、言必信、行必果、脛脛然小人也、抑亦可以為次矣」
▶子貢は問う、更に次に士といえるのは、どのような人でしょうか。
孔夫子いわれた、言葉に誠あり、行ないは確実に為す、だけの小人ではあるが、辛うじて士と云える。
❖ 辛うじて士
士の上中下の下を述べられる夫子。このクラスでも本来は小人なのだ、と驚きを禁じ得ないが、確かにその場限りの徳は、徳に遠い。
自らを誠にして、志を立てる、その志の為に命を失っても何ら省みることがない、士とは自らに厳しいものだ。
そして士と小人の違い、線引は何だろうか。
自らを誠に出来るか否か、私利私欲を満たす為に思い行うかに他ならない。
故に、夫子は、辛うじて士と表現された。
○「曰、今之従政者何如、子曰、噫、斗肖之人、何足算也、」
▶子貢はいう、今の為政者はどうですか。
孔夫子はいわれた、ああ、何ごとも桝で計る様な小人ばかりだ、士として数えるに値しない。
❖ 論外の人たち
上中下の最後に、論外の士を述べる夫子。
問う子貢も、答えが分かっていながら問うている。
下克上、権力抗争に明け暮れる貴族たちを、桝でまとめて計る様な小人たち、と表現する夫子の言葉も皮肉が効いている。
『子曰、不得中行而与之、必也狂狷乎、狂者進取、狷者有所不為也、』
○「子曰、不得中行而与之、必也狂狷乎、」
▶孔夫子はいわれた。中庸の人を周囲に見つけきらないのであれば、狂者か狷者を友としなさい。
❖ 友とは
昨今、中庸の人を見ないと述べられたのは夫子自身だ。
論語、雍也第六27にある、
「子曰わく、中庸の德たるや、其れ至れるかな。民鮮なきこと久し」、と。
故に、友と出来る人は狂者か狷者である、と述べられている。
何故ならば、一つで貫く、付和雷同しない、とは、儒家の重要な徳目に違いない。
そして、この二つは、自らを誠にする過程で重要な線引となる。
○「狂者進取、狷者有所不為也、」
▶狂者は、自らの信じるところを貫くであろうし、狷者は、周囲に妥協して付和雷同することが無い。
❖ 儒家とは
忠恕、一つで貫くのが儒家である。
また、礼楽により民を和合させるのも儒家である。
狂者を友として、一つを貫くことを学び、狷者を友として、周囲への妥協する心強くを戒める。
論語学而第一1にある、
「子曰く、学びて時に之を習う。亦説ばしからずや。朋有り、遠方より来る。亦楽しからずや。人知らずして慍おらず、亦君子ならずや」と。
儒家とは、狂者か狷者をも含む。
狂者か狷者から学問を重ねて儒者になれる。
私利私欲に染まり、付和雷同するくらいなら、狂者か狷者の方がましだ、とも解釈出来る。
如何に、私利私欲の輩を夫子が嫌われたのかも伝わってくる。
『子曰、南人有言、曰、人而無恒、不可以作巫医、善夫、不恒其徳、或承之羞、子曰、不占而已矣、』
○「子曰、南人有言、曰、人而無恒、不可以作巫医、」
▶孔夫子はいわれた、南方には、人として恒心が無ければ、巫覡や医術をしてはならない、との言葉がある。
❖ 恒心について1
恒心とは、儒家の眼目でもある。
孟子、梁恵王篇上11にある。
「孟子曰く、恒産無くして恒心有る者は、惟だ士のみ能くするを為す。民のごときは則ち恒産無ければ、因りて恒心無し。苟しくも恒心無ければ、放辟邪侈、為さざる無きのみ」と。
忠恕、自らを誠にして人を思いやることが出来た、実践出来たとして、常に定まらねば何の意味があろうか。
決して揺らぐことのない恒心あらずして、どう苦しむ民を救い、天下を泰平に出来ようか。
儒家にとって恒心を抱くとは、原理原則に等しい。
【言葉】恒心/つねに定まっており、不変の正しき心。 揺らぐことのない、しっかりした心。
○「善夫、不恒其徳、或承之羞、」
▶善き言葉と思う。恒心なき徳とは辱めを受ける、と古語もある。
❖ 恒心について2
辱めを受けるとは、外界だけではない、否、恒心があれば外界の辱めなどに心折れはしない。
むしろ恒心なき徳とは、自身の私利私欲に、自身の心が負ける、呑み込まれることに他ならない。
いくら学問を積み重ねても、私利私欲への方向性で進めば、もはや学問ではなく、立身出世の手段に過ぎなくなる。
恒心とは、それだけ儒学の肝なのだ。
ここが振れれば、もはや取り返しがつかない。
現代の書店に並ぶ、立身出世の為の儒学や、こともあろうか儒学から帝王学を学ぶ、180°真逆を進むことになる。
○「子曰、不占而已矣、」
▶孔夫子はいわれた、恒心なき者に占いは出来まいて。
❖ 国を正す儒家
二千五百年前の巫覡や医術である、ある意味権威であり、当時の科学でもある。
共通しているのは、人の運命、命に関わる重要な職業であった(身分は低くとも)ということだ。
逆に見れば、人の運命、命に関わる案件とは正しい方向性が重要であり、儒家も国家の巫覡や医術と同じ様に、責任が重く、君主を、民を導かねばならぬと夫子は述べられている。
『子曰、君子和而不同、小人同而不和、』
○「子曰、君子和而不同、」
▶孔夫子いわれた、君子とは和合するが、付和雷同はしない。
❖ 君子の道は学問の道
礼楽により和合するのだ、自らが規律・規範となりてこそ君民を和合させ得るのだ。
君子のただならぬ道を述べ、次に不動の恒心があるからこそ、付和雷同しない。
学問の道とは、全て、積み重ねだ。
正しい方向に学問を積み重ねていけば、必ずや君子となれる(能力の有無によりスケールは前後すれど)。
○「小人同而不和、」
▶小人とは付和雷同するが、和合することはない。
❖ 学問の道は内省から始まる
和合とは、公正無私であらねばならない。
公正無私とは、学問の道を重ねて、仁・礼・義・智の四徳を得て、自らに在ることを理解する。
皆、小人であるとはいえ、志低き人、私利私欲の人からと、学問を好む人とではスタートが異なる。
勿論、何れも、どう志を得るかによるが、より自ら内面に向き合う、心に向き合える(苦行には違いない)タイプの方が、比較的に学問の道に入り易いと思う。
儒学を学ぶ人自身に優劣はない、思いを正す、恒心を抱けるかにかかっている。