四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

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三行詩 第百二十二章(述而第七②)

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○日曜日の午後、1月14日、ウオーキング

 

子曰、若聖与仁、則吾豈敢、抑為之不厭、誨人不倦、則可謂云爾已矣、述而篇三十三

 

孔夫子はいわれた、学問の道の目標とは、自らを聖人や仁者へと近づけることであるが、私は未だにそれらに及ばない。ただ、止まることなく学問の道を歩み、飽きることなく人に教えることだけだな。

 

「若聖與仁、則吾豈敢とあるも、常に学ぶ、省みて実践する人こそ聖人であり、仁者なのだと思う」

 

#論語

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○日曜日の夜、自宅

 

「毎日、根本通明先生の論語講義を少しずつ繰り返し読み、ノートに写経している」

 

「参照として、諸橋轍次先生の論語の講義を横に開くと、どうも形が良くない、机上が狭すぎる」

 

「明日が誕生日なので、Amazon書見台を買う、ささやかながら自らへのご褒美としたい」

 

#三行詩

 

論語を解説した本としては、根本通明先生の本はとても中身が濃く、なるほど、と思うことばかりが続く」

 

「参照している、諸橋轍次先生の本との比較も面白い」

 

「問題は、夢中になり過ぎて睡眠時間を削ってしまうことだ、明日から金曜日までは仕事、ここらで寝るとしよう」

 

#三行詩

 

○月曜日の朝、通勤

 

公西華曰、正唯弟子不能学也。述而篇三十三

 

そして弟子の公西華はいう、それこそが私たち門人が達せない境地なのです。

 

「孔夫子は聖人であるが、宗教的というよりは先王の教えを学び、実践する、実務者としての聖人であられた。しかし42歳も年下の弟子の子華にとっては崇拝の対象であり、宗教的な意味あいすら師に感じている。孔夫子は自分が後世の弟子たちから宗教的対象とされることを望まれたのだろうか」

 

#論語

 

○月曜日の夕方、通勤

 

子疾病、子路請祷、子曰、有諸、述而篇三十四

 

孔夫子、重い病を得て床に伏される。子路、心配のあまり病を祓う祈祷を捧げることを願う。孔夫子はいわれた、そのような故実があっただろうか。

 

「快男児である子路も、心から尊敬する師の重い病では狼狽えるしかない。普段であれば子路のような硬骨漢が祈祷など思いも寄らぬ。しかし、病に苦しまれる孔夫子を見て、二進も三進も行かぬと神頼みの赦しを乞う姿は滑稽でもあり、師弟関係の深さに感動すら覚える」

 

#論語

 

○火曜日の朝、通勤

 

子路対曰、有之、誄曰、祷爾于上下神祇、子曰、丘之祷久矣。述而篇三十四

 

そこで子路はいう、誄という祈祷の言葉に、『汝の幸いを天地神明に祈る』とあります。孔夫子はいわれた、天の命に生きる私に、どうして天地神明に祈る必要があるかな、と祈祷をお断りになられた。

 

「孔夫子も弟子の子路もリアリストであり、祈祷を信じている訳ではない。しかし師は弟子の思いを汲み、言葉を返し、そして弟子に道を教えたのだ」

 

#論語

 

○月曜日の夜、自宅

 

「根本通明先生の論語講義は凄い、一々が肚に落ちる」

 

「例えば為政第二の異端の解釈、『異端といふは、今日、専ら修めて居る他が皆異端である。』とくる」

 

「学問が楽しい、寝る時間が勿体ない、写経しつつ時を忘れている」

 

#三行詩

 

「何を以って、あの孔夫子が何を異端とするのか」

 

「ここが意訳で引っかかる、道に生きる孔夫子が、他者や他の学問を差別などするだろうか」

 

「そこで、根本通明先生は、今進むこと以外は異端であるとする。凄い解釈だ、言葉に誤魔化されず、本質を得ている」

 

#三行詩

 

○火曜日の夕方、通勤

 

子曰、奢則不孫、倹則固、与其不孫也、寧固。述而篇三十五

 

孔夫子はいわれた、名声や富を得れば、人は傲慢で不遜になるし、貧しくて倹約に努めれば、人は吝嗇で頑固になるものであるが、不遜であるよりは頑固のほうがまだましだな。

 

「人の悪とは、富や権力を得て傲慢で不遜になることに尽きる。二千五百年前の中国の君主もそうであるし、利権を独占して、世襲治外法権で罪にも問われず、国民に増税を繰り返す、何処ぞの国会議員団もそうなのであろう」

 

#論語

 

○火曜日の夜、自宅

 

「一日の務め終わらし小さな書斎に籠る、今日はバッハ、ゴルトベルク変奏曲を微かに流す」

 

「根本通明先生の論語講義を書見台に置き、続きを開く、ノートとペンも準備よし」

 

「今から就寝までが至福の時間なり、白文からじっくり取り組む、考える、学ぶ、写経する」

 

#三行詩

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○水曜日の朝、通勤

 

子曰、君子坦蕩蕩、小人長戚戚。述而篇三十六

 

孔夫子はいわれた、仁徳で満たされている君子は穏やかでのんびりしているし、私利私欲で頭がいっぱいの小人は何時もびくびくしているものだ。

 

「私利私欲を追いかけて小さな幸せを得、次々と失うことを恐れて更に私利私欲を追いかけて生きるか。学問の道を歩み、自らの仁徳を広げて伸びやかな人生を歩むか、自らの選択肢による因果報応は避けられない。もちろん、私は後者を選ぶ」

 

#論語

 

○水曜日の夕方、通勤

 

子温而厲、威而不猛、恭而安。述而篇三十七

 

孔夫子のご様子は、温和でありながらも厳しさが垣間見られ、威厳がありながらも猛々しくはなく、礼儀正しくもゆったりと落ち着かれておられた。

 

「この句、難解なり。対になる形で夫子のご様子が述べられており、中庸を体現しておられたと思うも、孔夫子も人間であり、対句のような形ではなく、人を包み込むような温かさが全面に溢れておられたのではないか。威厳や厳しさは時と場合と場所により自然とにじみ出られたと思う」

 

#論語

 

○木曜日の朝、通勤

 

子曰、泰伯其可謂至徳也已矣、三以天下讓、民無得而称焉。泰伯篇一

 

孔夫子はいわれた、周の太王の長子であり、季歴(のちに周王朝を開いた文王の父)の兄である泰伯とは、なんと至徳の人物であろうか。三度、王位を弟の季歴に譲り、民にそれを知らせもせず国を去ったのだ。

 

「有能でありながらも、父である太王が、弟の季歴の子である姫昌(のちの文王)に王位を譲りたい意向であることを知り、次兄をも誘い、南方の国に隠れた人物。孔夫子はその徳を最上であるといわれた」

 

#論語

 

○木曜日の夕方、通勤

 

子曰、恭而無礼則労、慎而無礼則思、泰伯篇二

 

孔夫子はいわれた、いくら恭しく人に敬意を示そうが、礼儀と節度が無ければ相手にその心は伝わらず、お互い徒労に終わるものだ。また、いくら慎み深くして自らを律しようが、礼儀と節度が無ければ相手に自らはどういう人間かは伝わらず、恐れ慄いていると勘違いされるだけだ。

 

「形だけの礼儀や、節度なき作法は礼節とは遠い。ともに学問の道で学び、実践し、省みながら身に付けるものだ。いくら礼の本質、尊ぶことを理解はしていても、表現の方法を学ばず、自己流や見て真似ただけの礼儀では、自らの浅はかさを露呈するようなものではないか」

 

#論語

 

○金曜日の朝、通勤

 

勇而無礼則乱、直而無礼則絞、泰伯篇二

 

また、勇気があり、行動で示そうも礼儀と節度がなければ荒ぶる者と変わることがなく、素直で正直であっても、礼儀と節度がなければ辛辣な物言いと人から思われるだけだ。

 

「礼節とは人の根本にあり、社会生活での規律・規範を示すとともに、物理的な中庸をももたらす。そして美徳を美徳成らしめるのだ」

 

#論語

 

○金曜日の夕方、通勤

 

君子篤於親、則民興於仁、故旧不遺、則民不偸。泰伯篇二

 

君子が両親や兄弟への孝行を厚くすれば、それを見て民の間にも仁徳(思いやり)が広がる。また、君子が旧き友を大切に扱うのであれば、それを見て民の間にもお互いに親切し合うようになるものだ。

 

「仁徳とは広げるものであり、広げるとは、及ぼすことだ。プレゼンをしたり、アピール合戦、言葉で仁徳は広がるものではない。学問の道を歩み、学び実践する。徳治政治とはリーダーの仁徳を広げることから政が始まる」

 

#論語

 

○金曜日の夜、居酒屋さん

 

「心が言葉であった時がある、子が産まれ、初対面の時に呼んだ、決めておいた子の名前」

 

「あれは契約、なのかも知れない、この子が成人するまでは、この子の為に生きるのだ」

 

「仁徳、忠恕とは親から子への連なりに根本がある、言葉は心、重く尊く、であるべき存在だと思う」

 

#三行詩

 

○金曜日の夜、本屋さん

 

「微酔し、紀伊國屋書店梅田本店をぶらりと巡る」

 

「新書コーナーで、貝塚茂樹先生の『孔子』と目が合う」

 

「手に取り、読む、ああ、この本ともご縁があったらしい、有り難いことだ」

 

#三行詩

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「次いで東洋思想コーナーへ、ふむふむ、と背文字を追いかける」

 

「あるがままに生きよう、と腰巻にあるを見る」

 

「安易過ぎる、その為に成すべきことが、その本を読めば成せるのだろうか、著者は天才なのだ、私は小人なので及びもつかないと思う」

 

#三行詩

 

紀伊國屋書店横にある、古書店街へ寄る」

 

「古本屋さんに入ると、何時も緊張する、店主との真剣勝負な気がする」

 

「棚に明治書院の孝経、しかも1,500円、即買いする」

 

#三行詩

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○金曜日の夜、自宅

 

「最初はアメリカのいわゆる三流映画のノリ、飽き飽きだけど少し惹かれる」

 

「・・・凄く練られたシナリオだ、途中から先が見えて唸る、面白い」

 

「この映画は大好きだ、繰り返し観ても観飽きない、見事なり、アマプラV、コンテイニユー」

 

#三行詩

 

○土曜日の午後、ウオーキング

 

曾子有疾、召門弟子曰、啓予足、啓予手、泰伯篇三

 

曽子、病がいよいよ重くなり、門弟たちを床に集めていう、お前たち、私の足と手を布団から出しておくれ。

 

「曽子の述べた孝とは、仁徳の根本、或いは原理原則といえる。孝に関して為政篇二に『孟武伯問孝、子曰、父母唯其疾之憂。』とあり、また、為政篇七にも『子游問孝。子曰、今之孝者、是謂能養。至於犬馬、皆能有養。不敬何以別。』とある」

 

#論語

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○土曜日の夕方、マクド

 

「途中、ガチャガチャと目が合う、300円を入れて、回す」

 

「すべてがおしまいになったウサギ クリアーバージョン」

 

「なんとなく中2の子と似ている、今、横にいるが、本人は面白くもなんともないという」

 

#三行詩

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○土曜日の夜、自宅

 

「人は弱いものだ、故に強さに憧れる、しかし強さは二元論からの開放ではない」

 

「弱肉強食、現実は弱い者が虐げられる世の中、少なくともこの二千五百年変わらない」

 

「故に孔夫子の教えがある、人は平等であり、忠恕、思いやりの連鎖こそ全ての人に幸せをもたらすと」

 

#三行詩

 

所感)

■土曜日の夜、自宅

・仕事≦忙しい。

・家庭≡やや問題あり。

・趣味≪学問の道、楽しくも時間が足らない。

・健康≫アトピー、変わらず浸出液止まらず。

 

映画、コンテイニューがツボにはまる。

こういう映画は好きだ。

主役のフランク・グリロのマッチョでとぼけた、且つ、80年代ゲーム(永遠なれ)風に進みつつ、推理小説風に真相を読み解く、さらに親と子の連なりも描いている。

今も繰り返し観ている。

 

80年代アーケードゲームダブルドラゴンは高校時代、田舎のNとゲーセンで繰り返し遊ぶ。

肘打ち無双の面白いゲームだ。

SEGAアフターバーナー等、ゲーセン全盛の時代、8ビットの世界に来たるべき近未来を確信したのは16歳の頃だった。

 

大学時代はSF小説、 アメリカのR・A・ハインラインを読み耽り、P・K・デイックに心酔し、初期のS・キングの小説に涙する。

 

今や53歳、歳を経たものだ。

学問の道とは、積み重ねと連なりであるが、

人の生き方も変わらない、善悪はともかく、今、生きているということは、そういうことなのだろう。

三行詩 第百二十一章(述而第七②)

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○日曜日の夜、1月7日、自宅

 

子釣而不綱、弋不射宿。述而篇二十六

 

魚釣りはしても網でさらうことはなく、弓で鳥を狩っても巣を狙うことを孔夫子はなさらなかった。

 

「のちの季氏第十六 に『孔子曰、益者三樂、損者三樂。』とある通り、釣りも狩りも君子の嗜みとして楽しむのは良いが、何ごとも楽しみて過ぎるのは中庸から遠く外れる、ということではないか。」

 

#論語

 

○月曜日の午後、ウオーキング

 

子曰、蓋有不知而作之者、我無是也、述而篇二十七

 

孔夫子はいわれた、自らの才能を過信して自己流を良しとする人を見受けることがあるが、私は決してそのようなことはしない。

 

「仮に天才であれ、唯一無二の創造者とは人類史上、数人ではないか。何ごとも根(基本)を地中に広く伸ばす、先人の為したことを学ぶ、根本を固めてからこそ、その才能も花開くのだ」

 

論語

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○月曜日の午後、森

 

「今年は論語、白文の写経を始めた、少しずつ少しずつ書く」

 

「繰り返し読み、毎日意訳して、ようやく書くことが作業ではなくなった」

 

「書くことに三年かかる、私は浅学非才であり、小人なのだ」

 

#三行詩

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○月曜日の夕方、帰宅中

 

「怖くない、怖くない、怖くない、若い頃、教えてもらった言葉」

 

「以来、怖い、迷う、逃げるくらいなら、何ごとも飛び込むことにしている」

 

「学生時代、尊敬する合気道部のコーチに教えていただいた言葉、今も変わりない」

 

#三行詩

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○火曜日の朝、通勤

 

多聞択其善者而従之、多見而識之、知之次也。述而篇二十七

 

私は、多くの話を聞き、善い行いを選びてそれに従い、多くの書を読み、善い行いを選んで我が知識とする。道に至るには積み重ねが必要なのだ。

 

「学問の道の積み重ねとは、毎日の基礎的な行動の積み重ねにある。論語の意訳、孟子素読四書五経の通読、今年から始めた論語の写経、ささやかな学問ではあるが、継続こそ力なりと信じている」

 

#論語

 

○火曜日の夕方、通勤

 

互郷難与言、童子見、門人惑、述而篇二十八

 

頑固で偏屈な村人で有名な互郷という村から少年がやってきて孔夫子の門を叩いた。門人は取次いで良いものかと戸惑う。

 

「人間とは平等であり、孔夫子の教え、学問の道とは老若男女、あらゆる人の為に門を開けている。でなければ五十を越えて儒学を学びはしない。私にとって儒学を学ぶとは、人間を磨くことだと思っている」

 

#論語

 

○水曜日の朝、通勤

 

子曰、与其進也、不与其退也、唯何甚、人潔己以進、与其潔也、不保其住也。述而篇二十八

 

孔夫子はいわれた、学問の道を歩もうと我が門を叩いたのであれば、私は何人たりとも教えないことはない。一方、我が門を去るのであれば追うことはない。何を少年に戸惑うことがあろうか。人が自らを磨こうとしているのだ、教えるのみ。ただ、私から去るのであればそれは私の預かり知らぬことだ。

 

「学問の道を歩むか、歩まないかは自分自身の問題であり、学ぶ、自らを磨く、成長させる思いがなければ、他人がどうこうできるものではない。仁徳とは自らの内にある善性を広げるものだ、どうして他人が広げれようか」

 

#論語

 

○水曜日の夕方、通勤

 

子曰、仁遠乎哉、我欲仁、斯仁至矣。述而篇二十九

 

孔夫子はいわれた、仁徳とは神話のような高邁で高尚なものであろうか。いや、日常生活で、今日、今、誰もが行える、思いやりこそ仁徳に他ならないのだ。

 

「孔夫子の教え、忠恕(自らを誠にして人を思いやる)とは、二千五百年を経ても現実世界、日常生活での日々の実践にある。学問の道とは経書を暗記することではなく、如何に自らを磨く、内面を仁徳にて充実させることにある」

 

#論語

 

○水曜日の夜、自宅

 

「年始から、論語の写経に取り組んでいる」

 

「テキストは、根本通明先生の論語講義だ」

 

「古本で状態が良くない為、そろりそろりとページを開く、一文字残さずノートに写している」

 

#論語

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○木曜日の朝、通勤

 

陳司敗問、昭公知礼乎、孔子曰、知礼、孔子退、述而篇三十

 

陳国の司法長官、孔夫子に問う、魯国の昭公は礼を知っておられましたか。孔夫子はいわれた、礼を知っておられました。のち孔夫子は退出された。

 

「礼の根本とは尊ぶことであるが、同じく規律・規範も意味する。君主の徳は民に及ぶものであり、君主の不徳も民に及ぶ」

 

#論語

 

○木曜日の夕方、通勤

 

揖巫馬期而進之曰、吾聞、君子不党、君子亦党乎、君取於呉、為同姓、謂之呉孟子、君而知礼、孰不知礼、述而篇三十

 

司法長官、孔夫子の弟子の巫馬期にいう、君子は仲間であろうが依怙贔屓はしないと聞き及んでいたが、自分の君主を良くいうのはどうであろうか。魯国の昭公は、呉国から夫人を娶る時に、同じ姓故に結婚出来ない為、夫人の性を呉孟子と変えられたのだ。昭公が礼を知る人とするならば、この世の中に礼を知らない人などいないのではないかな。

 

「魯国の君主の家も呉国の君主の家も姓はどちらも姫であり、「同姓娶らず」が古代中国での習慣であったらしい。清王朝の末期まで続いたとのこと」

 

#論語

 

○金曜日の朝、通勤

 

巫馬期以告、子曰、丘也幸、苟有過、人必知之。述而篇三十

 

弟子の巫馬期、この話を孔夫子にいう。孔夫子はいわれた、私は幸せものだな。過ちを犯せば、誰かがそれに気づいてくれるのだ。

 

「昭公が礼を知らないことは孔夫子は存じ上げておられたに違いない。しかし、他国の司法長官にそれを述べるのは自国を恥ずかしめるとして、昭公は礼を知ると述べられた。さらに指摘されると潔く認められた。自らの評判など気にしない、これも君主に仕える忠なのだろう」

 

#論語

 

○金曜日の夕方、通勤

 

子与人歌而善、必使反之、而後和之。述而篇三十一

 

孔夫子が歌を唄われる時に、善き歌い手がいれば、繰り返し独唱を聴いて、共に合唱されるのが常であられた。

 

「孔夫子は2mを越える長身であったらしい。故に巨躯から発せられる歌声は例えれば、現代のルチアーノ・パヴァロッティのような美声であられた違いない」

 

#論語

 

○土曜日の夕方、ウオーキング

 

子曰、文莫吾猶人也、躬行君子、則吾未之有得也。述而篇三十二

 

孔夫子はいわれた、経書を学ぶことであれば人並みの学問は出来ようが、君子として先王の教えを実践しているかと問われれば、未だに遠いな、私は。

 

「学問の道とは、経書を学ぶ、学んだことを実践することにある。詩経書経、春秋左氏伝などは竹簡、木簡の綴じた帯を何度も切られるまで学ばれたに違いない。そしてだ。そこから実践せねばならない。学問の道とは大変なことだと改めて思う」

 

#論語

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所感):

■土曜日の夜、自宅

終日、冬眠する。

食べたら寝る、寝たら食べる。

あっという間に1日が終わる。

こういう日もあるさ。

三行詩 第百二十章(述而第七②)

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○月曜日の午前、1月1日、正月

 

子曰、三人行、必有我師焉、択其善者而従之、其不善者而改之。述而篇二十一

 

孔夫子はいわれた、学問の道とは、三人いれば必ずや師となる者に出会える。仁徳に優れた善き人であれば自らも倣い。私利私欲の悪き人であれば自らはどうか省みるのだ。

 

「学ぶに限りなし。自らの方向生が正しければ、学問の道を問わず、仕事、遊び、それこそ通勤時間でも人は学ぶことが出来る。孔夫子の教えに受け身なし。学ぶとは、常に積極的に歩み続けることだと思う」

 

#論語

 

○火曜日の午後、ウオーキング

 

子曰、天生徳於予、桓魅其如予何。述而篇二十二

 

宋の景公の寵愛を得て、悪逆無道を繰り返す大夫の桓魋、仁徳を説く孔夫子を深く怨むところあり、孔夫子を亡き者にしようとする。孔夫子はいわれた、私は天から命を授かりし者。桓魋如きに何が出来ようか。

 

「孔夫子はご自分の立ち位置を理解されている。没後二千五百年を経ても、孔夫子の教えは輝きをますばかりだ。桓魅如きが何が出来ようか。天命を受けて命に生きる偉人とは、遥か未来も見えているのだろうか。ふと、吉田松陰先生の留魂録を思い出す。帰宅のち読み返そう」

 

#論語

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○水曜日の午前、梅田

 

子曰、二三子、以我為隠乎、吾無隠乎爾、吾無行而不与二三子者、是丘也。述而篇二十三

 

弟子の何人かは、私を賢人として褒め称え、あたかも森羅万象の知識を隠しているかのようにいう。しかし、私は何も隠してはいない。君たちの前にいる普段と変わりない私、以外の私はいない。今、このままが私である。

 

「孔夫子は、魔法も魔術も使わない、空も飛べない、狼男に変身もしなければ、目からレーザーも発しない。普通の人であり、ありのままが孔夫子である。儒学とは、日常生活に於いて自らを誠にし人を思いやること(忠恕)の実践に尽きる」

 

#論語

 

○水曜日の午後、梅田

 

「梅田にてランチ、のち妻の買い物を付き合う」

 

ルクア・イーレで、イーレは何処かを店員さんに問う」

 

「周辺の本屋は詳しい、残りは雑居ビルとしか、良くわからない」

 

#三行詩

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○木曜日の午後、ウオーキング

 

子以四教、文行忠信。述而篇二十四

 

孔夫子は四つのことを教えられた。学問と実践、誠と思いやりだ。

 

「信で詰まる、信頼を得ることは目的ではない。学問の道と、結果(行動)を伴う忠恕こそ孔夫子の教えだと思う」

 

#論語

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○木曜日の午後、森

 

「八連休、終わる、明日から仕事、始まる」

 

「一日から災害や飛行機炎上、今年も波乱の年なのだろうか」

 

「自らの内を充足させること、その為に学問の道を歩むこと、家族が健康でありますように」

 

#三行詩

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○金曜日の朝、通勤

 

子曰、聖人吾不得而見之矣、得見君子者、斯可矣、述而篇二十五

 

孔夫子はいわれた、私は先王の教えを終生学ぶ者であるが、聖人と相見えることは、終に叶うことはなかった。しかし、君子のような人物と出会えたことは、十分に良いことだと思う。

 

「聖人とは、孔夫子を以ってしても特別なのだろうか。いや、ご自身が聖人故に述べられた言葉であり、儒家の最終目標であることには変わりない。そして、目的はあくまで世の中を仁徳で救うことにある」

 

#論語

 

○金曜日の夕方、通勤

 

子曰、善人吾不得而見之矣、得見有恒者、斯可矣、述而篇二十五

 

孔夫子はいわれた、私は先王の教えを終生学ぶ者であるが、善人と相見えることは、終に叶うことはなかった。しかし、常に変わることなく道を歩む恒心を備える者と出会えたことは、十分に良いことだと思う。

 

儒学の聖人や、完璧な善人は今の世の中にいないが、君子や恒心の者は世の中にいる。学問の道を歩む目標とは、君子や恒心の者を目指すことなのだ」

 

#論語

 

「孔夫子は、聖人と善人を見たことがないと述而篇で述べられた」

 

「これは儒学の限界なのだろうか、否、先の中庸の徳に繋がるものだ」

 

「先王の道、忠恕とは、人を中庸の徳に至らせる。人、自らが私利私欲から離れずとも道を歩める、徳に依り自立出来得る道を述べられたものかも知れない」

 

#三行詩

 

○金曜日の夜、自宅

 

「ジャック・ダニエルを呑みながら、アマブラV、ハリー・ポッターシリーズを今晩で観終えた」

 

「数度目なので、世界観、映像、音楽を楽しむ。原作も全て読んだが映画も良く出来ていると思う」

 

「飢渇の如く、速やかに新たな映画を観ている、ターミネーター新作、明日から三連休なり」

 

#三行詩

 

○土曜日の午後、ウオーキング

 

亡而為有、虚而為盈、約而為泰、難乎有恒矣。述而篇二十五

 

しかし、多くの者は、仁徳が無いのに有ると見せかけ、学問が空っぽであるのに積み重ねていると見せかけている。また、内面は窮しているのに外面は勇ましく構えている。仁徳や恒ありとは、学問の道を積み重ねて得るものであり、見せかけでは得難いものだな。

 

「内面を充足させるとは、日々、学問の道を歩むことに他ならない。人に自らを良く見せかけている人とは、浅はかであり、事あるごとに露呈するものだ」

 

#論語

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○土曜日の夜、自宅

 

「子が激辛料理を食べたいと、検索すると近所に新しく店が出店している」

 

「中国の人で家族経営、本場四川料理は、紛れもなく大陸の味、美味し、安し、大満足」

 

「食後、ご家族と北京語で会話する、とても楽しい時間なり、お店を手伝うお子さんは子と同い年、これも縁だろうか」

 

#三行詩

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「麻婆豆腐定食、中辛を注文するも、本場山椒辛すぎて思考が止まる、脳が痺れた」

 

「激辛好きの子は、ぐいぐい攻める、激辛坦々麺、中辛麻婆豆腐も問題なし」

 

「妻のワンタン麺も美味、鶏の足(もみじ)が日本で食べれるとは嬉しい、帰りに皮蛋をお土産に買う、また来よう」

 

#三行詩

 

「27年前、上海に居た頃、四川省出身の学生さんと友人となり夕食へ、勿論、お勧めのお店」

 

「真っ赤な火鍋には、惜しげもなく赤い唐辛子が大量に浮かぶ・・・」

 

「その場でも辛さで脳が痺れた、楽しい夕食であったが、のち二日寝込む、内蔵がついていけなかった」

 

#三行詩

 

所感)

■2024年始まる

初日、子の産神様である近所の神社へ。初詣のち妻が頑張ったおせち料理を食べる、美味し。あとはレモン酎ハイを呑みながらだらだらする。

二日目、だらだらする。映画と読書三昧で。

三日目、梅田へいく。昼飯はルクア地下のミュンヘンで。のちそれぞれ買い物。靴をABCマートで買う。妻の買い物が長いので、子とルクア上の屋上庭園で待つ。横のファミマでハイボールビーフジャーキーを買い休憩。のち茶屋町でロフト、子がお年玉でペンを買っていた。マクドでシェイクで休憩。のち丸善ジュンク堂書店へ。夕食は三番街の梅蘭。初梅蘭ながらも、とても美味しい。本場風の味付けに中国駐在時代を思う。レジの店員さんが中国の人だったので、北京語で謝意を伝えると、嬉しそうに、谢谢と。日本人向けの味付けにしているが、確かに中国の匂いがした。

四日目、だらだらする。映画と読書三昧で。

 

■土曜日の午後、マクド

昨年の忘年会の時に買った残りタバコを、外で吸っていたら子に見つかり、説教される。

理は向こうにあり、苦笑いするも、軽蔑の目で見られた。

禁煙してだいぶん経つも、呑み会のあとの貰いタバコは中々やめられず、その時につい買ってしまうも、普段は吸わない、否、血圧が高くてとても吸えない。

今回、理論整然と父を説教する子の成長は嬉しくも、妻に告げ口はほぼ確定であり、帰宅のち、さらなる厳しい説教が待ち受ける今日このごろ哉。

三行詩 第百十九章(述而第七②)

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○日曜日の午後、12月24日、ウオーキング

 

冉有曰、夫子為衛君乎、子貢曰、諾、吾将問之、述而十四

 

衞の霊公の太子蒯聵、霊公の夫人南子を追放しようとして失敗し、晋国へ亡命。後、霊公が死去、蒯聵の子、輒が即位する。晋の趙鞅、亡命した蒯聵を即位させようとして衞へ出兵、内乱が始まる。孔夫子一行は衞に滞在中でもあり、冉有がいう、孔夫子は衛の君主を助けられるのだろうか。子貢がいう、私もそのことを孔夫子にお尋ねしようと思っていたところです。

 

「霊公といい、あの南子といい、碌でも無いし、太子蒯聵の肩を持ちたいところだが、隣国の兵を率いて内乱とは民のことを蔑ろにし過ぎる。つくづく酷い時代だと思う」

 

論語

 

○日曜日の夕方、マクド

 

「金曜日の忘年会、のち風邪をひく、土日は寝込む」

 

「先週から千円前後の明治書院史記を古本で買い集めている」

 

「今で5冊、年始年末、来年は史記を読み耽る予定」

 

#三行詩

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○月曜日の朝、通勤

 

入曰、伯夷叔斉何人也、曰、古之賢人也、曰、怨乎、曰、求仁而得仁、又何怨乎、出曰、夫子不為也。述而十四

 

子貢、孔夫子の部屋に入り問う、伯夷・叔斉とはどのような人ですか。孔夫子はいわれた、古の賢人だな。子貢、更に問う、彼らは地位や名誉を自ら捨てました。後悔したのでしょうか。孔夫子はいわれた、仁の徳を求め、仁の徳を手に入れた結果ではないか、どうして後悔があろうか。部屋から出た子貢、冉有にいう、孔夫子は衛の現・君主である蒯聵の子、出公輒をお助けにはならないようだ。

 

「亡命した父、蒯聵を差し置いてその子、輒が即位するのは仁徳とは遠い、と孔夫子はいわれている。伯夷・叔齊の故事を例えに尋ねる時点で、頭の良い子貢もそう思っていたに違いないと思う」

 

論語

 

○月曜日の夕方、通勤

 

子曰、飯疏食飲水、曲肱而枕之、楽亦在其中矣、述而十五

 

孔夫子はいわれた、一椀の煮た雑穀を食べ、一椀の水を飲む。そして、あばら家で肘を枕にして寝る。君子とは貧しい生活の中でも学問の道を学び、実践し、楽しむことが出来るものだ。

 

「君子=君主とは限らない。儒学帝王学だと延べる識者もいるが、どの帝かによる。少なくとも秦の始皇帝とか、漢の武帝ではない。堯帝、舜帝であるべきであり、先王の教えと帝王+学という言葉は、私はイメージが繋がらない」

 

論語

 

○火曜日の朝、通勤

 

不義而富且貴、於我如浮雲。述而十五

 

一方、仁に依ることなく、私利私欲を満たす為に不正や不義を好み、富や名声、権力を得ることが幸せであるとする人たちがいる。私にとって彼らは浮き雲のように思えるだけだ。

 

世襲を繰り返しつつ政治に関わり、心に国を思う誠がなく、数十年単位で組織的に裏金を溜めていた浮き雲のような人たち。政治とは究極的には仁、民への思いやりであり、義、自らが率先して正しき道を歩まねばならない。率先して自らを思いやってどうするのだろう」

 

論語

 

○火曜日の夕方、通勤

 

子曰、如我数年、五十以学、易可以無大過矣。述而十六

 

孔夫子はいわれた、あと数年、五十になるまで易経を学び直せば、もはや大きな過ちを犯すことはあるまい。

 

「孔夫子の時代に易経はなかったという人もいる。しかし、朱子学(儒学)に於いて易経は、汎神論的な、この世界を説明している唯一の貴重な書だ。故に『易(また)大過なかるべし』ではなく『以て易(えき)を学べば、大過なかるべし』と意訳した。異論はあると思う」

 

論語

 

○火曜日の夜、自宅

 

アトピー具合悪く、浸出液、止まらず。母、独り待つ田舎への帰省ままならず」

 

「包帯の長さが肝、厚く巻くと乾かず悪化、薄いと捲れる」

 

「止めのガムテープの改善を検討、ドラクエⅱのミイラ男は大変だったのだと今更気付く」

 

#三行詩 #アトピー性皮膚炎

 

「今年最後の診察の日、近所の皮膚科医はいう、ここ十年変わらぬ同じ言葉」

 

「今の時期(春夏秋冬)、皆さん苦しんでますね。じゃあ、前回と同じお薬でいいですね」

 

「全て理解していう、お願いします。お大事に。やはり、アトピー性皮膚炎とは治らない病気なのだ、病と向き合うことが大切なのだ」

 

#三行詩 

 

○水曜日の朝、通勤

 

子所雅言、詩書、執礼皆雅言也。述而十七

 

周王朝があった西安での発音を雅言といい、孔夫子が詩経書経を読み上げるときは雅言であり、礼節を行う人も雅言で言葉を発するものだ。

 

「礼節に於いて言葉を発するのであれば正しく発音しなければならない。孔夫子の詩書を読まれたお言葉はどう聴こえるのだろうか。興味深い」

 

論語

 

○水曜日の夕方、通勤

 

葉公問孔子子路子路不対、子曰、汝奚不曰、其為人也、発憤忘食、楽以忘憂、不知老之将至云爾。述而十八

 

楚の重臣である葉公、子路に孔夫子の人柄を問う。子路、どうお答えすればよいか、言葉に詰まる。のちにこの件を聞き孔夫子はいわれた、このようにいえば良いのだ、私の師は学問の道に熱中するあまり、食事すら忘れられます。道を実践することを楽しまれ、憂うことすら忘れられます。ご自身が老境にあるのに、そのことにすらお気付きになりません、と。

 

「孔夫子がご自身を評された貴重な言葉。読んで嬉しくなる。見事なまでに学而第一、そのままではないか。孔夫子はぶれない、一つで通されている、老いてますます学問の道を歩まれている。儒家とは、孔夫子の教えを学ぶ者とは、斯くあるべきなのだと心から思う」

 

#論語

 

○水曜日の夜、焼き鳥屋さん

 

「本日で仕事納め、お疲れ様でした、仕事始めは五日から」

 

「この焼き鳥屋さんは子供の頃から通っている、亡父が若い頃からのお気に入りのお店だ」

 

「結婚前、妻が初めての来阪時にも最初にこのお店からだ、今のところ子も気に入っている」

 

#三行詩

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○水曜日の夜、梅田

 

「生き死にとは二つか、或いは一つなのか、という人あり」

 

「肉親の死とは現実的には二つであるし、のち遺影を見つつ過去と語り合うのは一つではないか」

 

「我が生死は、ただ単純でありたいと思う。日々悔いなく過す、その時はその時、じたばたしませんように」

 

#三行詩

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「・・・否だ、もちろん、じたばたするさ、とことん足掻いてやるさ」

 

「中指を上に上げて、呼吸できる限りは戦ってやる」

 

「で、あることが善く生きることだと信じている、こういう生き物で生まれてきた、父も、祖父も、曽祖父も、そして我が子も、そうなる必然であろう世界に今も生きている」

 

#三行詩

 

○木曜日の夕方、自宅

 

子曰、我非生而知之者、好古敏而求之者也。述而十九

 

孔夫子はいわれた、私は生まれながらに汎ゆることを知る超人などではない。ただ、先王の教えを好み、止まることなく学び続ける者に過ぎない。

 

「孔夫子は紛れもなく儒学の聖人であるが、この人を以ってしてこの言葉だ。後世の儒家(或いは儒家もどき)のような高慢と偏見さは皆無であるし、儒学とは自らの学問の積み重ねであることがよく理解る」

 

#論語

 

○木曜日の夜、サイゼリア

 

「子と二郎系ラーメンへ、のちサイゼリアで休息する」

 

「麺は普通盛り、他は全マシ、ニンニクマシマシ、これは美味しい」

 

「初めての二郎とは衝撃なり、子と語り合う、料理の女神は二郎に微笑んでいる」

 

#三行詩

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○日曜日の午前、ウオーキング

 

子不語怪力乱神。述而篇二十

 

孔夫子、怪奇・暴力・乱行・鬼神のことを語られることはなかった。

 

「孔夫子の教えとは、現実世界を善くする為にある。得体不明な事象に関わることはなかった(何ごとも礼を以って処した)」

 

#論語

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○日曜日の午前、森

 

明治書院史記は9冊(本記・世家・列伝を各3冊)、及び韓非子は上・下を年末年始、来年用に購入する」

 

「大掃除で明治書院コーナーを本棚中央に、24冊並ぶ」

 

「好きなベートーヴェンピアノソナタ集を聴きながら、ひたすら本を読んでいる、幸せな時を過ごしている」

 

#三行詩

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○日曜日の夜、大晦日

 

「夕食は、年に一度奮発する和牛の焼き肉1kg、中二の子はまだ食べている、のち書斎へ、明治書院 史記Ⅰ 五帝本紀を開く」

 

「勿体なくて、史記は大晦日から読もうと決めていた。徳間書店史記(全)は父の書斎にあり、中高生の頃に読む、とても面白かった記憶がある」

 

「お気に入りの錫のぐい呑みにジャック・ダニエルを波々と注ぎ、ベートーヴェンピアノソナタ全集を流す、至福の時間なり」

 

#三行詩

 

所感)

■2023年振り返り

・学問の道

今年は、通勤時、往復二時間半の間に行っている論語の意訳の一周目を終え、次は他の四書五経へと迷うが、結果的には同じ論語の意訳、二周目を選択したのは良かった。

同時並行で四書五経を平日夜や土日に通読している中で、余裕を持って論語を考え直す、新たな発見、感動を得ることが出来た。

意訳するのが目的ではない、論語の一句を深く考える方法は来年も継続したい。さらに句から行へ、より意訳する文を短くして、全体の意とその行の意を深堀りしていきたい。

 

・仕事

転職して5年目、仕事に慣れもあり、新たな挑戦=改善が出尽くしてしまう。

一方、日常は、テトリス状態で、新たな仕事、責任が増えるばかり、人手も足らず、忙しい日が多くなった。

儒学を学んでいるお陰だろうか、心が動揺することが少なくなり、眼の前の仕事ではなく、全体像を如何に善くするかが、具体的に見えるようになった。会議の場でも、自分は自分はではなく全体像を延べることが多くなった。

来年4月から大幅に責任が増える。社内教育で講師も務める。忙しくなりそうだ。

 

・健康

田舎の友人Nの勧めで、新ビオフェルミンS錠とカルシウム錠を毎日服用している。

アトピー性皮膚炎は、全体的には良くなっているが、脚と手首はむしろ悪化し、日常的に包帯を巻くようになる。

年齢もあるのか、剝けた皮が再生しなくなる。

包帯の巻き方も、自己流であるが改善に改善を行い上手くなってきた。

病と向き合う人生もある。百膳健康な人など、この世の中にはいないし、皆最後は消滅するのだ。よく生きる為に、よく病とも向き合いたい。

 

・総括

孔夫子の教えとは、日常の生活で実践してこその教え、学びであり、狭義には自分の周り、広義には世の中を善くすることが、孔夫子の門をくぐった者の貫く道となる。

毎日、通勤時間に論語を意訳する=孔夫子との対話の時間は、確実に自らを磨いていると実感している。

来年は53歳になる。

ますます学ばねばならない、実践せねばならない。わくわくしている、心が踊っている。

一生学ばなければならない、のではない。

今を繰り返す、学ぶ、周囲に仁徳を及ぼす、実践する。

これは楽しい。楽しいから学ぶのだ。

一生を、何故学ばないのか、人が人を根本から善くする一つの方法ではないか。