四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

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三行詩 第百二十章(述而第七②)

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○月曜日の午前、1月1日、正月

 

子曰、三人行、必有我師焉、択其善者而従之、其不善者而改之。述而篇二十一

 

孔夫子はいわれた、学問の道とは、三人いれば必ずや師となる者に出会える。仁徳に優れた善き人であれば自らも倣い。私利私欲の悪き人であれば自らはどうか省みるのだ。

 

「学ぶに限りなし。自らの方向生が正しければ、学問の道を問わず、仕事、遊び、それこそ通勤時間でも人は学ぶことが出来る。孔夫子の教えに受け身なし。学ぶとは、常に積極的に歩み続けることだと思う」

 

#論語

 

○火曜日の午後、ウオーキング

 

子曰、天生徳於予、桓魅其如予何。述而篇二十二

 

宋の景公の寵愛を得て、悪逆無道を繰り返す大夫の桓魋、仁徳を説く孔夫子を深く怨むところあり、孔夫子を亡き者にしようとする。孔夫子はいわれた、私は天から命を授かりし者。桓魋如きに何が出来ようか。

 

「孔夫子はご自分の立ち位置を理解されている。没後二千五百年を経ても、孔夫子の教えは輝きをますばかりだ。桓魅如きが何が出来ようか。天命を受けて命に生きる偉人とは、遥か未来も見えているのだろうか。ふと、吉田松陰先生の留魂録を思い出す。帰宅のち読み返そう」

 

#論語

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○水曜日の午前、梅田

 

子曰、二三子、以我為隠乎、吾無隠乎爾、吾無行而不与二三子者、是丘也。述而篇二十三

 

弟子の何人かは、私を賢人として褒め称え、あたかも森羅万象の知識を隠しているかのようにいう。しかし、私は何も隠してはいない。君たちの前にいる普段と変わりない私、以外の私はいない。今、このままが私である。

 

「孔夫子は、魔法も魔術も使わない、空も飛べない、狼男に変身もしなければ、目からレーザーも発しない。普通の人であり、ありのままが孔夫子である。儒学とは、日常生活に於いて自らを誠にし人を思いやること(忠恕)の実践に尽きる」

 

#論語

 

○水曜日の午後、梅田

 

「梅田にてランチ、のち妻の買い物を付き合う」

 

ルクア・イーレで、イーレは何処かを店員さんに問う」

 

「周辺の本屋は詳しい、残りは雑居ビルとしか、良くわからない」

 

#三行詩

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○木曜日の午後、ウオーキング

 

子以四教、文行忠信。述而篇二十四

 

孔夫子は四つのことを教えられた。学問と実践、誠と思いやりだ。

 

「信で詰まる、信頼を得ることは目的ではない。学問の道と、結果(行動)を伴う忠恕こそ孔夫子の教えだと思う」

 

#論語

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○木曜日の午後、森

 

「八連休、終わる、明日から仕事、始まる」

 

「一日から災害や飛行機炎上、今年も波乱の年なのだろうか」

 

「自らの内を充足させること、その為に学問の道を歩むこと、家族が健康でありますように」

 

#三行詩

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○金曜日の朝、通勤

 

子曰、聖人吾不得而見之矣、得見君子者、斯可矣、述而篇二十五

 

孔夫子はいわれた、私は先王の教えを終生学ぶ者であるが、聖人と相見えることは、終に叶うことはなかった。しかし、君子のような人物と出会えたことは、十分に良いことだと思う。

 

「聖人とは、孔夫子を以ってしても特別なのだろうか。いや、ご自身が聖人故に述べられた言葉であり、儒家の最終目標であることには変わりない。そして、目的はあくまで世の中を仁徳で救うことにある」

 

#論語

 

○金曜日の夕方、通勤

 

子曰、善人吾不得而見之矣、得見有恒者、斯可矣、述而篇二十五

 

孔夫子はいわれた、私は先王の教えを終生学ぶ者であるが、善人と相見えることは、終に叶うことはなかった。しかし、常に変わることなく道を歩む恒心を備える者と出会えたことは、十分に良いことだと思う。

 

儒学の聖人や、完璧な善人は今の世の中にいないが、君子や恒心の者は世の中にいる。学問の道を歩む目標とは、君子や恒心の者を目指すことなのだ」

 

#論語

 

「孔夫子は、聖人と善人を見たことがないと述而篇で述べられた」

 

「これは儒学の限界なのだろうか、否、先の中庸の徳に繋がるものだ」

 

「先王の道、忠恕とは、人を中庸の徳に至らせる。人、自らが私利私欲から離れずとも道を歩める、徳に依り自立出来得る道を述べられたものかも知れない」

 

#三行詩

 

○金曜日の夜、自宅

 

「ジャック・ダニエルを呑みながら、アマブラV、ハリー・ポッターシリーズを今晩で観終えた」

 

「数度目なので、世界観、映像、音楽を楽しむ。原作も全て読んだが映画も良く出来ていると思う」

 

「飢渇の如く、速やかに新たな映画を観ている、ターミネーター新作、明日から三連休なり」

 

#三行詩

 

○土曜日の午後、ウオーキング

 

亡而為有、虚而為盈、約而為泰、難乎有恒矣。述而篇二十五

 

しかし、多くの者は、仁徳が無いのに有ると見せかけ、学問が空っぽであるのに積み重ねていると見せかけている。また、内面は窮しているのに外面は勇ましく構えている。仁徳や恒ありとは、学問の道を積み重ねて得るものであり、見せかけでは得難いものだな。

 

「内面を充足させるとは、日々、学問の道を歩むことに他ならない。人に自らを良く見せかけている人とは、浅はかであり、事あるごとに露呈するものだ」

 

#論語

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○土曜日の夜、自宅

 

「子が激辛料理を食べたいと、検索すると近所に新しく店が出店している」

 

「中国の人で家族経営、本場四川料理は、紛れもなく大陸の味、美味し、安し、大満足」

 

「食後、ご家族と北京語で会話する、とても楽しい時間なり、お店を手伝うお子さんは子と同い年、これも縁だろうか」

 

#三行詩

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「麻婆豆腐定食、中辛を注文するも、本場山椒辛すぎて思考が止まる、脳が痺れた」

 

「激辛好きの子は、ぐいぐい攻める、激辛坦々麺、中辛麻婆豆腐も問題なし」

 

「妻のワンタン麺も美味、鶏の足(もみじ)が日本で食べれるとは嬉しい、帰りに皮蛋をお土産に買う、また来よう」

 

#三行詩

 

「27年前、上海に居た頃、四川省出身の学生さんと友人となり夕食へ、勿論、お勧めのお店」

 

「真っ赤な火鍋には、惜しげもなく赤い唐辛子が大量に浮かぶ・・・」

 

「その場でも辛さで脳が痺れた、楽しい夕食であったが、のち二日寝込む、内蔵がついていけなかった」

 

#三行詩

 

所感)

■2024年始まる

初日、子の産神様である近所の神社へ。初詣のち妻が頑張ったおせち料理を食べる、美味し。あとはレモン酎ハイを呑みながらだらだらする。

二日目、だらだらする。映画と読書三昧で。

三日目、梅田へいく。昼飯はルクア地下のミュンヘンで。のちそれぞれ買い物。靴をABCマートで買う。妻の買い物が長いので、子とルクア上の屋上庭園で待つ。横のファミマでハイボールビーフジャーキーを買い休憩。のち茶屋町でロフト、子がお年玉でペンを買っていた。マクドでシェイクで休憩。のち丸善ジュンク堂書店へ。夕食は三番街の梅蘭。初梅蘭ながらも、とても美味しい。本場風の味付けに中国駐在時代を思う。レジの店員さんが中国の人だったので、北京語で謝意を伝えると、嬉しそうに、谢谢と。日本人向けの味付けにしているが、確かに中国の匂いがした。

四日目、だらだらする。映画と読書三昧で。

 

■土曜日の午後、マクド

昨年の忘年会の時に買った残りタバコを、外で吸っていたら子に見つかり、説教される。

理は向こうにあり、苦笑いするも、軽蔑の目で見られた。

禁煙してだいぶん経つも、呑み会のあとの貰いタバコは中々やめられず、その時につい買ってしまうも、普段は吸わない、否、血圧が高くてとても吸えない。

今回、理論整然と父を説教する子の成長は嬉しくも、妻に告げ口はほぼ確定であり、帰宅のち、さらなる厳しい説教が待ち受ける今日このごろ哉。