四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

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三行詩 第百三十八章(先進第十一②)

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○日曜日の午後、6月16日、自宅

 

子曰、回也非助我者也、先進篇四

 

孔夫子はいわれた、高弟の顔回は、(その才、ずば抜けて秀で、しかも好学であるが)私に何かを啓発する、或いは共に議論を交わせれる人ではない。

 

「天才、顔回を述べている、彼は人となりが穏やかで、怒りや人と争うことがなかった」

 

#論語

 

○日曜日の午後、自宅

 

ヨウ化銀による人口降雨は、その地域の総雨量内の制約下ある」

 

「同時に、世界的な異常気象の原因とも」

 

「(隣国の)国家的事業と化して繰り返される人口降雨は、確実に地球の気候を狂わせているのではないか」

 

#三行詩

 

○月曜日の朝、通勤

 

於吾言無所不説。先進四

 

彼(高弟の顔回)は、私の述べたことを、乾いた砂が水を吸うように我がものとしたのだ。

 

顔回は聖人であり、元来、仁徳を備えていたに違いない、故に孔夫子の説く先王の教えを、瞬く間に自らの学問と出来たのだろうと思う」

 

#論語

 

○月曜日の夕方、通勤

 

「人が私利私欲から離れれるものか」

 

「しかし学べる、経験から反省し、改めることは出来る」

 

「なら言い直そう、人は私利私欲を遠く置くことは出来る、但し努力せねばならない、常に学問をすること、哲学を学ぶこと、つまるところ私たちの多くは凡人なのだ」

 

#三行詩

 

○火曜日の朝、通勤

 

子曰、孝哉、閔子騫、先進五

 

孔夫子はいわれた、高弟の閔子騫とは、何と孝徳に優れたことだろう。

 

「継母と二人の腹違いの弟にひどい扱いを受けたがそれを父に知られないように耐え抜き、さらに継母たちを弁護までした。※ウイキペディア『閔 子騫』より抜粋」

 

#論語

 

「現在の山東省臨沂市沂水県に閔公山というのがあり、閔子騫が登用を避けるために逃げた場所として伝えられている。※ウイキペディアより抜粋」

 

「若い頃、仕事で臨沂市には度々訪れた(と思う)」

 

「中国の何処にでもある地方都市のイメージ、以外に記憶が残っていない」

 

#三行詩

 

「確か・・青島からエアーに乗って、よく揺れる飛行機で、帰りの深夜便は低空飛行、街路灯にそって飛ぶ」

 

「離陸前、窓を開けて、操縦士がタバコを吸っていた光景も記憶にある」

 

「大都市の臨沂市から迎えの車で片道4時間、工場地区なれど小さなホテルと工場以外に電気は通らず、夜は、信じられないくらいに星々が見える、仕切り無しトイレ(横に溝)、日本人は私一人、休日は工場の人と湖に泳ぎにいった、強烈な太陽と砂ぼこりの道路、大陸の匂いが脳裏によみがえる」

 

#三行詩

 

○火曜日の夕方、通勤

 

「怒り、という感情に注意すること」

 

「彼(彼女)は(君にとっての)正義を囁やき、王様のように君を猛らせる」

 

「君はヒーローではない、波動拳は打てないし竜巻旋風脚も無理だ、何故怒るのかを分析すること、つまらないプライドなど捨てる、ただ忠恕であれば良い」

 

#三行詩

 

○水曜日の朝、通勤

 

於吾言無所不説。先進四

 

顔回は)私の教えたことを、全て、喜んで我がものとしたのだ。

 

「人は学んでも、そうそう理解出来ない、繰り返し学び、省みる、改める、この工程なしに学ぶ、実践出来た顔回とは伝説の聖人の再来であり、既に偉人といえる」

 

#論語

 

「仮に、六字(南無阿弥陀仏)を唱えるとする、普通の人は、一回目で阿弥陀仏に救われた、ことの感謝の二回、三回の六字が続く」

 

「天才でも一回目は変わるまい、しかし」

 

「二回目で、六字を唱えている(本体は)は阿弥陀仏自身であると気付く、三回目で自身は仏と一体なっていると知る、のが天才だ」

 

#三行詩

 

「単に六字を唱える、一つでも、数兆回唱えてもこの理屈(実は主は御仏にあり、私たちは客なのだ)に気付けない人もいる」

 

「解答を聞けば何でもないが、その過程は凄まじき積み重ねがある」

 

「ここを一瞬で気づき、我がものとするのが天才であり、聖人といえる。故に、顔回のような人は奇跡なのだ、聞く、理解する、実践するをワンターンでされれば、孔夫子といえども絶句するしかない」

 

#三行詩

 

○水曜日の朝、一休み

 

鎌倉時代時宗の開祖である一遍上人は妻子を修行途中で捨てる、そこが理解出来ない、もとより妻子は、(郷里)伊予に居場所があろうはずもない存在だ、その二人を異境の地で捨てたのだ」

 

「あと、例の(紙に南無阿弥陀仏と自筆した)御札を貰うのを断る僧侶に、それでも御札を渡すシーンだ」

 

「僧侶は自力本願の人ではなかったか、解答を潔しとせず修行に励む人に敢えて渡す必要はあるのだろうか、さらに臨終間際で自著を燃やしてしまう、残った信者はどうすればいいのか、『只六字のみ』とは凄まじ過ぎる(なら最初から独りで良いのではないか)と、思う私は今日も火宅の世に生きている」

 

#三行詩

 

○水曜日の夕方、通勤

 

「運命の神が(仮に、存在するとして)常に君に微笑むとする」

 

「もし、或いは、ひょっとして、君は金持ちだし、名誉も権力もある」

 

「やがて老いる、死を迎える、残るのは運以外、何もない人だ、学問もなければ仁徳もない、何の為に生まれてきたのか、君は人だろう」

 

#三行詩

 

○木曜日の朝、通勤

 

人不問於其父母昆弟之言、先進五

 

閔子騫の孝徳は本物であり)父母や弟がその孝徳を褒め讃えても、世の人誰も(身内びいきと)文句をいう人は現れなかった。

 

閔子騫の父は、先妻が亡くなり後妻を得るも、貧乏で、後妻から生まれた閔子騫の弟に対して、真冬でも満足に綿入の防寒着を与えることが出来ない。後妻は我が子の命を守る為に、先妻の子である閔子騫の衣服に綿を入れないで我が子の服に入れた。それを知り閔子騫の父は後妻を離縁しようとするも、閔子騫は泣いて止める。残された弟はどうなるのですか。閔子騫の父と義母は、閔子騫の孝徳の高さに涙し、心を改めたという逸話が後世に残されている」

 

#論語

 

○金曜日朝、通勤

 

南容三復白圭、先進六

 

高弟の南容は、詩経、大雅・抑にある「白圭の玷くるは、尚を磨く可なり。斯の言の玷るは、為さむ可らざるなり」という箇所を、日に三度、繰り返して吟じていた。

 

「白圭とは傷一つない玉のこと。白圭は仮に傷を付けようが磨けば修復出来るが、言葉は一度発せば取り返しはつかない、との意。のち孔夫子は南容を、君子にふさわしき徳がある、とその人となりを評された」

 

#論語

 

「姓は南宮、名は括、字は子容、詩経を繰り返し読み暗唱もできる、その白圭の内容も良い」

 

「道徳的、且つ温厚なイメージ、学問にも通じている」

 

「君子たる人物である、と評された雰囲気が伝わってくる、派手さはない(出世もそうはしない)が堅実、いつの世でも無難に過ごせるタイプ、名脇役に相応しい」

 

○金曜日の夜、自宅

 

韓国映画『新しき世界』を繰り返し観ている」

 

「一に、音楽が素晴らしい、二に、兄貴役のファン・ジョンミンさんと、ブラザー役のイ・ジョンジェさんの好演が光る」

 

「三に、世の中は理不尽である、且つ、各々の正義に人は背けない、『美しさ』とは無数にあり、司法や倫理とは別の世界も存在する、ということかも知れない」

 

#三行詩

 

所感)

■本を読みながら旅をし、歴史を思う

ブログでは度々述べているが、司馬遼太郎さんの歴史観、小説、エッセイが大好きだ。

中学の頃、父の書斎に並ぶ本の大半は歴史小説で、司馬遼太郎さんが多く、当時は毎夜、読み耽る。

53歳を越えて、ぼんやりとしたいと思っていたことが形になってきた。

街道をゆく』というエッセイ集があり、司馬遼太郎さんの歩んだ道を、本を確かめながら旅をする。司馬さんが何を思ったのか、現地を観ながら考えたい。

おそらくは老後になるかも知れない、近畿地方なら週末にでも行ける。

 

※『街道をゆく』(かいどうをゆく)は、司馬遼太郎による紀行文集。1971年(昭和46年)、作者47歳の時に「週刊朝日」にて読み切りによる連載を開始。1996年(平成8年)2月の作者逝去により、43冊目の「濃尾参州記」を最後に絶筆(未完)した。ウイキペディアより抜粋

 

 

■人不問於其父母昆弟之言、先進五

X(旧Twitter)で述べた内容と、当ブログで述べた内容は真逆だ。

すべては、浅学非才のaristotle200の愚かさにある。後の反省の為にXのポストは消さない。

いわゆる情報収集不足からくる『下衆の勘ぐり』になってしまった。

言い訳はしない、過ちは、速やかに改めなければならない。今、このままが私の学問だ。

 

■学問の道、つれづれ

物ごとに取り組むとは、まず、現状を正しく把握する、整理整頓が必要だ。

学問の道、儒学論語)を学ぶに関しても、5W2Hに則して考えねばならない。

特に、

What(何を):実行すべき内容

Why(なぜ):行動の目的

How(どのように):具体的な取り組み方法

ここは常に省みる、現状に則して修正する必要がある。

漫然と学ぶのではいけない。

 

大きなところ(儒学を学ぶ、自らの内面を磨く)は良いとして、今年、四半期、今月、今日、何時間、時間軸と、今、得たい成果は何かは、そのとき学ぶ時間を減らしても、テキストを開く前に整理する。

学問も連なりであり、積み重ねだ。

土台からしっかりと積み重ねていけばピラミッドのように崩れない。

 

ただ、私のような独学で学んでいる者は、現状(学問の程度)を正しく把握することから難しい。

いつの間にか独善に陥っている、進捗を測る物差しの感覚自体が狂うときがある。

ピラミッドの例えなら、中心点がずれて歪な三角形になっている(今回の閔子騫の評価も然り)。

やはり、同学の朋友が必要かも知れない。

顔の見えないネット上ではなく、リアルな意味でだ。