四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

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三行詩 第百三十四章(郷党第十②)

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○日曜日の午後、ウオーキング

 

康子饋薬、拝而受之、曰、丘未達、不敢嘗。郷党篇十二

 

魯の国の大夫である季康子、病の孔夫子に薬を贈り、孔夫子、病中拝礼してこれを受け取る。のち孔夫子はいわれた、この薬が今の病気に効くかどうか私は知識がない、よって服用は止めておこう。

 

「礼儀には節度が伴わねばならない。礼(尊ぶ思い)には礼(思いを尊ぶ)でお応えする。そこから、どう行動するかは現実的、且つ論理的判断をせねばならない。

そして節度、中庸をもって行うのだ。孔夫子の教えとは、あくまで日常生活に於いての実践にある」

 

#論語

 

○日曜日の午後、森

 

「礼節を知るとは、社会的自由を得ることだ、主は最初に礼儀にあり、次に節度へと移る」

 

付和雷同ではない、勠力協心へと自らの判断で行う」

 

「礼儀で止まれば息苦しくもなる、節度で自らの意思を中庸の内で行う、自らを開放する」

 

#三行詩

 

「別に、難解な宮廷作法に精通する必要もない(必要があればするが)」

 

「根本のところから述べれば、野人でも礼節は行える」

 

「正しい心で物ごとを敬い、その敬いの心で行動する。かの舜帝は親から捨てられ山野にて生き、善いこと好む行う人だった、それは仁であり、礼節を知ることだ」

 

#三行詩

 

「勿論、私利私欲、人を思いやることない野人は野獣と変わらない(昨今、多い気がする)」

 

「人のあるべき本質とは、忠恕、自らを誠にし、人を思いやることに他ならない」

 

「いきなり忠恕には達しない、父母からの慈愛が根本にあり、行いは礼へ、思いは義へ、正しきを智る、仁徳へと至るのだ」

 

#三行詩

 

○月曜日の朝、通勤

 

厩焚、子退朝曰、傷人乎、不問馬。郷党篇十三

 

馬屋が焼け落ちたとの連絡を受け、朝廷から急ぎ戻られた孔夫子はいわれた、家人や門人に怪我はないか。そして馬のことを問われることは無かった。

 

「当時、馬はとても高価な財産であったが、そのことは問われない。孔夫子のお人柄が伝わってくる」

 

#論語

 

○月曜日の朝、乗り換え

 

「両手をポケットに入れて歩く人がいる、階段もだ」

 

「毎日酒を呑み過ぎる人もいる、咳をしながら煙草を好む人もいる、生活費を博打に注ぎ込む人もいる」

 

「全ての事象には原因と結果があり、太陽系ですら消える。何を好むか、生き物であれば進化の淘汰。人生は選択の連続であり、事象の地平線は宇宙だけではない。人の運命も一寸先は闇、予想出来得るリスクは避けねばならないが、所詮は人の選択枝など大きな流れには抗えぬ、つまり結局は南無阿弥陀仏か」

 

#三行詩

 

○月曜日の夜、自宅

 

「フライパンに米油、強火、豚肉バラ、塩胡椒少し、焼く」

 

「茄子、人参、玉ねぎを一口サイズ、アスパラガスは半分に切り、焼く」

 

「最後に中華麺四玉、塩胡椒少し、焼く、完成、焼き肉のタレを皿に、タレを付けて食べる、脳筋料理ではあるが美味し、妻と子も喜ぶ」

 

#三行詩

 

○火曜日の朝、通勤

 

「電車が遅れるときは、来たら取敢えず乗る、最近(先週〜)、よく遅れる」

 

「この時間帯に車内がガラ空きとは珍しい」

 

「3本ほど早く乗っているので遅延なら問題なし、新年度、GW明け、お盆開け、月曜日、だいたい遅れる」

 

#三行詩

 

○水曜日の朝、通勤

 

君賜食、必正席先嘗之、君賜腥、必熟而薦之、君賜生、必畜之。郷党篇十四

 

君主から食べ物を賜ったときには必ず席を正しくして食べる、君主から生肉を賜ったのであれば煮てから宗廟に捧げる、君主から家畜を賜ったときには生きたまま飼うこと。

 

「君主からの賜りものを家でどの様に扱うかを述べている。特徴として祭祀が絡むことであろうか。政治と宗教が密接に絡み合うのは過去、現代も変わらない。

宗廟での祭祀の対象は主にご先祖であり、縦の連なりを重んじる姿勢は、個、アイデンティティの成立過程に於いて重要事項でもあるとも改めて思う」

 

#論語

 

「私は無宗教者ではあるが、靖国神社への参拝は欠かしたことはないし、神仏を尊び敬うことは当たり前のことだと思っている」

 

無宗教も一つの宗教ではないかと思わないでもないが、真剣にそれを主張する人たち、宗教の有る、無い、双方の人たちにとっては暴論かも知れない」

 

「東洋思想、儒学を学ぶ一人として、宗教が生活と直結していた時代の感覚は必須であり、幸いなことに日本に残る風習は儒学の影響を強く受けており、日本人にとって儒学は学びやすい学問ではないかとも思う。

しかし、宗教、信仰を持ち得るかといえば、少なくとも私は持ち得ていない。

特に、信仰という感覚が掴めない以前、聖書を繰り返し読み、プロテスタント系の教会に行って牧師さんに質問を繰り返したことがあるが、終に信仰は持ち得なかった。

神仏を敬い尊ぶ気持ちはあっても、信仰がない以上、私は無宗教だと言うしかない。しかしながら、歎異抄に感動し、一遍上人全集を日々読み返す自分もいる。

亡父の遺影には般若心経を唱えるし、毎朝、語りかけている。つまるところ、神仏やご先祖様、亡くなった肉親を敬い尊ぶ気持ちは、宗教がある人と変わらないのだ。

故に、この国において宗教の有る無しを一つの区分けとすることは必ずしも正解ではない。人間から人間が生まれてくる限り、国の神仏や歴史、ご先祖を敬い、尊ぶことは、この国に生きる人として当たり前のことなのだ。

無宗教という選択は、この前提の上にある」

 

#三行詩

 

○水曜日の午後、昼休み

 

「この国の美的感覚の根底には、物ごとのあり様を尊ぶ、という東洋の思想が流れている」

 

「今、ここが尊い尊いを美しきとする」

 

儒学、仏教、神道の影響か、美しさとは自ら発せねばならない、所作、礼儀、武道、死生観、歴史、全てが積み重ねと連なりだ、今、ここ」

 

#三行詩

 

○木曜日の朝、通勤

 

侍食於君、君祭先飯。郷党篇十五

 

君主と食事をするときは、君主が食前の祭祀を行い、その後に食事に毒が入っていないことを証す為、毒味をすること。

 

「時は春秋戦国時代、下克上の世の中故に、君主との食事の場合、当時は毒味することが一種のマナーであったと思われる」

 

#論語

 

「毒とは独特の魅力がある、アルコールや煙草を人が嗜好品とする理屈はよく分かる」

 

「毒と薬は紙一重であり、用いる人の思惑で変わるのは、毒も人も変わらない」

 

「そして、毒にも薬にもなれない(私のような)モブキャラもいるのが世の中だ、本文の通り、毒味くらいなら出来るかも知れないが、恐らくは逃げると思う。街の門前でここは○○だ、と勇者パーティに教えるくらいが楽で良い、毒にも薬にもならない生き方も良いものだ」

 

#三行詩

 

○木曜日の朝、一休み

 

「毒にも薬にもなれない人は仕事が出来ない、誤解だ、よく出来る人が多い」

 

「そもそも仕事とは、出来て当たり前であり、そこからの+aに面白さ、醍醐味がある」

 

「工夫を積み重ねるのに毒か薬に傾くと中庸を欠く、仕事の個性とは無個性から目的に合せて変えるものだ」

 

#三行詩

 

「お客様視点を欠いて、自ら流れを生み出す毒、薬、いや強者もいるが、普通の人はああは成れない、なる必要もない」

 

「前職はブラックで、一騎当千多能工化社員、イエスマンしか生き残れない、毒には毒になるしか居場所がない世界だ」

 

「ホワイトに転職し、思う、普通の人で良い、普通に仕事をすれば良い、なんて天国なんだと、サビ残月80〜100時間の経験者にとって、定時退社は輝く世界であり、家族と一緒に居れる時間とは素晴らしいものだ、なら仕事も頑張る気になる、御礼でどんどん改善していこう、スキルも経験もたっぷり有る」

 

#三行詩

 

「勿論、ブラックを全否定はしない、就職氷河期に高学歴でもなく、イケメン高身長でもない私を拾ってくれたことは恩だ、終生、感謝の気持ちは忘れない」

 

「でなければ、私たちの世代に多くいる高齢者ニートは人ごとではない、皆、そうなる可能性があったと思う、一部のエリートを除いてだ」

 

「新卒者を社会人として一人前に育てるとは、企業側にとって育成に必要な費用を負担するということだ、教育と経験を積ませ資格を取らせる、社会人として一人前にする、大変なコストだ」

 

#三行詩

 

○木曜日の夕方、通勤

 

「モウシワケゴザイマセン、理不尽ではあるが、これも仕事だ、攻略本片手に解ける類いではない」

 

「コンチクショウ、と腹は煮えくるも笑顔で対応、これも仕事だ」

 

「イマニミテイロ、理不尽な仕組みごと変えてやる、と、虎視眈々と改善策を練る、これこそ仕事だ」

 

#三行詩

 

○金曜日の朝、通勤

 

疾君視之、東首加朝服、施紳。郷党篇十六

 

病中、君主がお見舞いに来られたときは、東枕にして礼服を布団の上から掛け、その上から広帯を横に置くこと。

 

「君主から見舞いを受ける際の礼儀作法であり、何故、東枕なのかは風水の情報が多く、今ひとつはっきりしない」

 

#論語

 

「人は立っては寝れない、従って何らかの方向に頭を向けて寝るのだ」

 

「これが君主の居城の方向とか、具体的な位置関係であれば理解できる」

 

「漫然と東だ、では困る、太陽が昇る方向、クラスの壮大な話しなのだろうか」

 

#三行詩

 

「死者を北枕にする風習は、仏教の影響らしい」

 

儒教ならば、仮に周王朝由来とすればBC1100年前から君主が病中見舞いにくると東枕にしたこととなる」

 

「枕、という道具自体も興味深い、原始人は枕を使用したのか、人類と枕の関係、枕の歴史、未来の枕とはどう進化するのだろう」

 

#三行詩

 

「そもそも、人体の構造上、枕という道具は必須なのか(無くても私は眠れる、、、)」

 

「防具、かも知れない、物理的には地面の凹凸から頭部を守り、精神的には枕とは一種、社会的ステータスであったかも知れない」

 

「枕は北京語でも枕だ、ラテン語ではpulvinus、英語ではpillow、語源ではどうか」

 

#三行詩

 

ヘブライ語ではכרית、フランス語ではoreiller、アラビア語ではوسادة」

 

「少なくとも漢字には何らかの意味がある」

 

「漢字ペディアには枕は、『形声木と、音符冘(イム)→(シム)とから成る』とある」

 

#三行詩

 

○金曜日の夜、自宅

 

「中三の子、修学旅行より今、帰宅する」

 

「さっそく怪談体験を語りだす、アトピー、なんとか乗り越えたらしい」

 

「首の掻き壊しは痛々しくも、元気だ、良かった」

 

#三行詩

 

○土曜日の午後、ウオーキング

 

「ハッバ、オルガン曲集を聴きながら、快晴やや風が吹く森を歩いている」

 

「穏やかな時間を過ごす」

 

孟子を持ってきた、木陰にあるベンチに座り、大好きな本を読む、風が心地よい」

 

#三行詩

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「人とは欲求にしがみつく生き物であるが、その思い強くして手放すその時を逸している気がする」

 

「良く歳を取ることが大切だ」

 

「年齢不相応の行いほど恥なことはない、良く生きるとは年齢に合った思い行いが出来る、今を肯定することにある」

 

#三行詩

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○土曜日の夜、自宅

 

書経明治書院版が高騰して二万越えの今日此頃」

 

平凡社版の書経、良書なり、且つ(今は)安価」

 

「かの赤塚忠先生の訳にハズレ無し、現代語訳のみなれど、訳注は充実、夢中で読んでいる」

 

#三行詩

中国古典文学大系〈1巻〉書経易経(抄) (1972年)

 

所感)

■子、修学旅行から帰宅する

着々と親離れが進行している。

四足から二本足で歩きだし、お気に入りのブランコに一人で初めて乗れるようになった時。

アンパンマン大好きで、TSUTAYAでDVDをかりて度々一緒に観ていた時。

きかんしゃトーマス仮面ライダーウルトラマン、ナントカレンジャーと興味は変わりつつも、ともにTVを観た時。

抱っこ、大好きで、家でも外でも、だっこ、だっこしていた時。

怖がっていた公園の滑り台を一人で降りれるようになった時。

大きなランドセルを背負い、道を蛇行しながら保育園のお友達と小学校の入学式に向かう緊張した顔と、無事、笑顔で帰宅した時。

 

印象に残る出来事がある。

子が小5の時、近くの大グラウンドで自転車の練習をする。

子の自転車がコケないように後ろから支えながら走る父。

来たるべきその瞬間、子は自転車を漕ぎ出し始めた、広いグラウンドを自由に走り回っている。

その時、心地よい風が吹き抜けた。

子の世界が一つ広がり、父と子の縁が一つ薄くなるのを自覚する。

 

子が小6の時までは、週末日課ウオーキングは手を繋いで散歩していたが、中1からは100cmから300cmの間隔が生まれ、先に歩くようになる。

中学で子はラグビー部に入部する。さっそくラグビーボールを購入して日曜日は子に教えてもらいつつ、練習相手を頑張る、中1の夏にはもはや、父は練習に追いつけない。

ラグビーの練習のあとは大グラウンドの真ん中で、親子二人、形意拳の開式、三体式、壁拳の練習を繰り返す。日は暮れ、真っ暗になっても、色々なことを語り合った。

 

中2、中3は共にウオーキング形意拳の練習をする機会も減る。

子には父親以上に語り合える親友が出来、友人たちとの世界が始まった。

 

今日、修学旅行から帰って来た。2日ぶりに会う子、日に焼けて少し大人びた気がする。

父と子の縁は薄くなるばかり、なれどそれで良い。父もそうしてきた。

やがて、子は家から巣立ち、老いた父は、子との思い出の場所を独り散歩するのだろう。

 

■つれづれ、思うこと

「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず。」

暴君、暗君、犯罪者であろうが、力を持つ組織に忠誠を尽くす(従う)ことが正しい、自分のせいではない。こういう考え方の人が、昨今、増え続けているように思う。

 

齊景公問政於孔子孔子對曰、君君。臣臣、父父、子子。論語 顔淵篇十三

 

斎の景公、政治について問う。孔夫子はいわれた、君主は君主らしく、臣下は臣下らしく、父は父らしく、子は子らしく思い行うことです。

 

最近、度々ブログに書いている。

物ごとの枝葉がまかり通り、本来の目的から遠く離れる、或いは真逆のことが多すぎるように思う。

「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず。」

とは、君主が君主らしくなろうと足掻くも、その力が足らない、故に(だからこそ)臣下は臣下らしく君主を支えよ、が本来の意だ。

 

孔夫子が述べられている通り、君主、臣下、父、子、それぞれが主体的に道徳的な主観を持ち、自らの役目を果たす前提だ。

君主らしきことを思い行なわない君主、臣下らしきことを思い行なわない臣下、父云々、子云々がそれぞの権益を主張することではない。

 

父は父たる、母は母たる、子は子たる、思い行い、所作を学ばず、まるで全員が幼き子どものままの社会ではないか。

見かけは大人で内面は子どもの大統領が、同じく見かけは大人で内面は子どもで構成された軍隊に命令して戦争を行っている、そして、見かけは大人で内面は子どもの市民が拍手喝采している光景(歴史、既視感、現実?)が浮かぶ。

 

人、一人の内面が軽すぎる、社会全体もシステム在りき、人の存在意義が減る一方に思う。

人として道徳的成熟がなされていない人が多く、社会のレールを外れたときに、自身の内に頼るものがなく、善悪の垣根を簡単に踏み越えてしまう。

 

人の存在意義、人の生きる目的とは何か、

道徳を学び、一人良く生きることだ。そして周囲に道徳を及ぼすことだ。

 

毀誉褒貶は仕方ない、運命はどうしようも出来ない。

だからこそ、人は獣とは違う、道徳、善きことを思い行う、独りでも(だからこそ)行う、集団でも行う生き物だ、そうあるべき生き物だ。

 

道徳的とは何か、忠恕、自らを誠にする、人を思いやることに他ならない。

道徳=宗教でもよい、孔夫子の述べられた忠恕は、言葉を変えて世界の主要宗教でも説かれている。

 

昨今、人の思いが軽すぎる、人の言葉が軽すぎる、人の行いが軽すぎる、人そのものが軽すぎると思う。

 

※参考〈コトバンク〉より抜粋

きみ【君】 君(きみ)たらずとも臣(しん)臣(しん)たらざるべからず

( 「孔安国‐古文孝経訓伝序」の「君雖レ不レ君、臣不レ可二以不一レ臣」を訓読したもの ) 主君に主君としての徳がなく、主君としての道を尽くさなくても、臣下は臣下としての道を守って忠義を尽くさなければならないということ。