○日曜日の夕方、6月23日、森
孔子以其兄之子妻之。先進六
(高弟の南容、詩経の白圭を日々吟じていることを知り)孔夫子は、兄の娘を嫁がせた。
「古典に通じ、万事こなせる力量がありながらも、日々慎み深い南容の人柄を孔夫子は高く買われ、姪の一生を任せたのだ」
#論語
○日曜日の夕方、帰宅中
「雨が激しさを増し、傘に当たる雨音と雨の匂いが強くなる、傘下の狭い空間が妙に落ち着く」
「そういえば、この折り畳み傘、六年前にハノイの市場で買ったな(その時もこんな雨だった)」
#三行詩
○日曜日の夜、自宅
「大塩中斎先生の本買う」
「大阪で儒学を学び(独学)ながら中斎先生に関しては『大塩平八郎の乱』しか知らない」
「学ぶとは広がりだ、学べば学ぶほど世界は広がり続ける」
#三行詩
日本思想大系 46 佐藤一斎/大塩中斎
○月曜日の朝、通勤
季康子問、弟子孰為好学、先進七
魯の国の大夫、季孫氏が問う、門下生三千人、内、学問を好まれた方はどなだですか。
「雍也第六篇 二でも、哀公から同じ質問がなされた。孔夫子は何れも、早逝した天才顔回であると述べられる」
#論語
○月曜日の朝、通勤
「人のないホームで、一人、おい、おい、と言いながら歩く茶髪の若者あり」
「若者の死亡原因4割は自死とか、生き辛い時代なのだと、思う」
「政治(大人)は腐敗し、道徳は教育されず、進学や子育てが苦行と化した世の中、『自ら』を構成出来得ない若者が増えている」
#三行詩
「映画『新しき世界』のピアノ曲が脳裏に流れている」
「子供が子供らしくなれない、若者が若者らしくなれない、今の大人に自らの未来を重ね、悲観するばかり」
「もはや政治の責任を問うても遅すぎる、『大人』一人一人も考え、行動する時代ではないか」
#三行詩
○火曜日の朝、通勤
(季康子からの問いに対して)孔夫子はいわれた、顔回という弟子がいました。極めて好学でしたが、不幸にも短命にて早逝しました。今は学問を好むほどの者はいません。
「最後の『今他則亡』の言葉こそ天才顔回を惜しむ表現は見当たらない。門下、綺羅星の如く優秀な弟子はいるが、好むまで学問に至る者は顔回以外には現れなかった。学問とはその人の徳や才能を伸ばすものであり、無いものを有る様には出来ないのだろう」
#論語
○火曜日の朝、乗り換え
「朝帰りのカップルが大声で話している」
「車内でも大声で喚いている、女性は恋愛観を述べ続け、相槌を打つ男の薄ら笑いと血走った眼はかなりホラーだ」
「周囲の冷ややかな視線にもびくともしない」
#三行詩
○火曜日の午前、一休み
「現場では叩き上げの就職氷河期世代(50代)が少なく思う」
「3〜40代が主業務を背負い、余裕がなくて20代を教える人がいない」
「そこで元気な60代後半から70代が、依然として現場にいる、代わりがいない」
#三行詩
「我ら50代は何処に居るのか、20代の頃の就職難から、そのまま正社員としての教育、経験を得ない、非正規雇用のまま、今に至る人が多いように思う」
「転職市場でも50代は溢れかえっている」
「何か理不尽さを感じざるを得ない、民主主義、競争社会の名のもとに社会から切り捨てられた感がある、勉強(学歴)が出来ないことで、ここまで格差が生じて良いのだろうか、他の世代との格差も著しい」
#三行詩
○水曜日の朝、通勤
顔淵死、顔路請子之車以為之椁、先進八
顔回、早逝する。貧困にある父の顔路、せめて葬儀だけでも豪華に送り出したいと、孔夫子の車を壊して立派な棺の外装を作りたいと請う。
「子の葬儀をせねばならぬ親の悲惨さ、悲痛の気持ちは理解出来るが、子の師匠の車を壊して棺桶を飾りたいと請い願う発想は現代では受け入れ難い。子の師匠に対しての礼を失なっていると思わざるを得ない」
#論語
○水曜日の朝、乗り換え
「自ら(自分たち)を思いやる、何かあれば私は(私たちは)被害者だ、と人は考え易い」
「そして他人はどうでも良い、自分(自分たち)さえ良ければと、負の連鎖が続く」
「ならば父母から受けた慈愛はどうだろうか、この慈愛を他人に広げていくのが孔夫子の教えだ」
#論語
「人は優しさを美徳とする、しかし優しさとは極めて真贋入り混る」
「その優しさは何処から来ているのか」
「プライドか、見返りか、評判を上げたいのか、警戒しているのか、或は自らの弱さからか」
#三行詩
「本来の優しさとは、父母の慈愛から来たものだ、柔らかな言葉や、気遣う言葉だけが優しさではない」
「時には、強く叱責することも優しさであるし、黙って見守る優しさもある」
「昨今、優しさまでが狂って来ている、儀式のような動作と常套句の背後には、『迷惑かけるなよ』的な意思が丸見えだ」
#三行詩
「負の連鎖、主(父母からの慈愛)無き、薄っぺら言葉のやり取りが、学校、職場、肝心の家庭ですら広がっている」
「子供は、優しい言葉、優しい態度だけが『優しい』とし、教師は『優しい』以外の選択肢を与えられず、日本全国、あちこちに学級崩壊が進んでいる」
「やはり、道徳教育、それも『論語』を義務教育課程で学ぶべきではないか、根本から変えねば枝葉は変われない、父母からの慈愛、孝行、忠恕、仁徳を広げる、心ある礼節、自らの悪を憎む義、物ごとの善悪を知る、全ては連なりだ」
#三行詩
○木曜日の朝、通勤
子曰、才不才、亦各言其子也、鯉也死、有棺而無椁、先進八
孔夫子はいわれた、出来が良かろうが悪かろうが、子に対する親の愛情に変わりはない(顔路の気持ちは理解出来る)。しかし、我が子、鯉が亡くなったときですら車を壊して棺桶の外装を調えることはしなかったのだ。
「我が子を亡くし、哀しみの底にある顔路に対して、深い同情と共感を交えながら孔夫子は担々と、それは出来ない、と述べられる。勿論お金が惜しいのではない、大夫の地位にあるものは宮殿へに赴くのには車が必要だからだ。そして車は大変に高額であり、おいそれと作れるものではなかったからだ」
#論語
○木曜日の朝、乗り換え
「孔夫子が弟子に教えた言葉の集まりが論語だ」
「よって、孔門をくぐった一弟子として、真摯に一人の孔夫子という人と向き合う必要がある。(宛も)眼前に居られるかのように、慎んで学ぶ、実践するのだ」
#三行詩
○木曜日の午前、一休み
「東に論語、西に自省録(マルクス・アウレリウス・アントニヌス)が道徳書の双璧とされる」
「どちらも素晴らしい、自省録は岩波文庫版/神谷美恵子訳を、ここ三十年近く愛読している、もしマルクス帝が日本語で述べたとしたら、的な神翻訳だ」
「私はほとんど本を読まない、基本的に脳みそまで筋肉だ。ただ、好きな本は十年単位で読み続けている、岩波書店のセネカ哲学全集や論理哲学論考、歎異抄、臨済録、正法眼蔵(未だ通読ならず、難解)、一遍上人全集、先ほど述べた論語、自省録、それから孟子くらいをぐるぐる巡って読んでいる。
近所の図書館でよく本をかりているが、通読1〜2回では読むには至らない、映画を観るように文字を見ただけだ。故に、残る人生で、あと何冊読めるのか(怪しくなってきた)、候補は書斎に積んではいるが、依然として見るから読むに進めない(今で精一杯かも知れない)」
#三行詩
○木曜日の夜、自宅
「日課の孟子を素読していて気付く、孟子の中で孔夫子の言葉の主語は『孔子』だ」
「この点から考察すれば論語の成立は孟子以降となる、孟子とは、孔夫子の没後、時代的に最も近い孔夫子に関する文献ではないか」
#三行詩
○金曜日の朝、通勤
吾不徒行以為之椁、以吾従大夫之後、不可徒行也。先進八
今、車を壊して(顔回の)棺桶の外箱にすれば、王宮まで徒歩で歩くことになる。私は、大夫の末席にある身、故にそれは出来ないのだ。
「親としての気持ちは十分に理解出来る、故に、孔夫子は顔路に、この説明を繰り返し述べられた」
#論語
○金曜日の夜、自宅
「今、論語研究の書籍を買い求めている」
「今日、『論語の新研究』を見つけて即買いする」
「論語一つに拘ってすら、学問は過去、現在、無数に在る、北京語書籍も視野に入れる、辞書片手に多分、読めると思う」
#三行詩
「私は浅学非才、且つ歳も取り過ぎた、故に深淵たる儒学を学び、究めることなど、今更不可能だ」
「限ろう、『論語』一冊のみで良い」
「自らの内に一つの物差しを得ようと思う、ここだけは精通しよう、この歳(五十三)からでは最善策ではないか」
#三行詩
「色々あり(私の一方的な独善による)、儒学を学ぶ契機となった元フォロワーさんとの縁は切れてしまった」
「(或は)SNSでなければ学友であれたかと思う、これも運命だろう」
「今、ようやく儒学を学ぶ自らの道が見えた、彼にはこの件を報告し感謝を伝えたいが、もはや覆水盆に返るまい、これも道だろう」
#三行詩
○金曜日の夜、自宅
「アマプラVで映画『海難1890』を観ている」
「『武士』の専売特許は日本人のものと思っていたが、外国にもいるらしい」
「トルコ人とは『武士』らしい、親日国でもある、武とは忠恕なり、国籍を問う必要などなし」
#三行詩
「日本人と、トルコの女性、子供、老人を優先してトルコ政府手配の飛行機二機に乗せた」
「飛行機に乗れない多数のトルコの男どもは?、彼らは『エルトゥールル号遭難事件(1890年)』の恩を返すべしと、自ら戦禍の陸路で帰国することを選択した」
「空港に避難した普通の市民が、集団でこの選択を出来る国民だ、端的に武士ではないか、と思う」
#三行詩
※資料(イラン・イラク戦争)
https://www.town.kushimoto.wakayama.jp/kanko/kizuna/turkey.html
○土曜日の午後、ウオーキング
「本日、睡眠負債を消す為に、ほぼ寝ていたお陰か体調は良い」
「ブラームスをじっくりと聴くには胆力、気力が要る気がする、それだけ濃縮された音楽だ」
#三行詩
○土曜日の夕方、マクド
「結局、論語の研究書を読むのであれば、白文から意味がすらすら出るくらいでなければ読めない」
「今は(論語であれば)白文を読めるので問題ない、根本通明先生の論語講義を筆写しているのも良い気がする」
#三行詩
○土曜日の夜、自宅
「礼記は良い、いつ読んでも発見がある、当時の生活が浮かび上がってくる」
「礼記は文字から匂いがする、孔夫子、いや、先王の薫陶が満ちている」
#三行詩
「モンハンナウというゲームがある、子との貴重な付き合い(接点)で、通勤時間にしている」
「火属性レウスバスターのグレード10を目指している、今ようやく9だ、他の属性は全て7-5」
「論語も10を目指している、且つ五経も学ぶ、私は論語を10にして自らの学問の物差しにする、紐付けこそ学問の眼目だと信じている」
#三行詩
所感)
値段は客層に比例する。仕方がない、(五月蠅いのが)嫌ならそれ相応の金額を払わねばならない。
しかし、ラインがある。昨今、(この辺りの)民度がどんどん落ちている気がする。
海外に居る時(駐在中)もマクドに良く行った。
それでも、ここまで五月蠅いのは経験したことがない。
スケボーを集団で鳴らす、大声で喚き散らす、それでも店員さんは何も言わない。
一時、スーパー銭湯にハマったことがある。
毎週通っていたが、ここも客層の民度低下で行くのを止めた。
コロナ禍の中、いつも集団(7~8人)で訪れる若い人たちは銭湯内、サウナで大声で話す、手を抑えずクシャミを連発する、そもそも風呂に入る前に身体を洗いもしない。
ここも店員さんが何も言わない。
昨今の道路族しかり、自分たちの(一人では何もできない)、或は集団意識とは、その集団の目的が希薄なほど暴走しやすい。
故に、春秋公羊伝にある、
『君子不近刑人』
君子は刑罰を受けるような人には近付かない。
ここから、
『君子危うきに近寄らず』
という警句が生まれたらしい。
私も先人に倣うとしよう。金を払って不愉快な思いをするなどアホらしい。
・結局は、本人たちに跳ね返っていくのは目に見えているが、少なくとも今ではないだけだ。
・身内や友人に、こういった集団意識での暴走を快楽と感じる人はいない。
なら、さっさと退散するとしよう。