○日曜日の午後、6月9日、自宅
色斯挙矣、翔而後集、郷党篇二十三
山中、雌雉が人の気配に気づいて舞い上がり、空を巡ってのち再び樹に止まった。
「吉川幸次郎先生をして、難解、且つ謎のような章と評した郷党篇二十三、次に孔夫子が登場する」
#論語
曰、山梁雌雉、時哉時哉、、郷党篇二十三
孔夫子はいわれた、山橋の上に雌雉がいる、飛ぶも止まるも時に適っている、なんと時に適っていることかな。
「郷党篇は、最後のこの章のみ系統が異なる、宮殿での作法や食の好みから、いきなり山の橋を子路と歩くシーンとなる」
#論語
子路共之、三臭而作。郷党篇二十三
(雌雉を見て言葉を発せられた孔夫子をみて)のち子路は雌雉を捕らえて毛を毟り、よく焼いてから孔夫子に差し上げた。孔夫子は、三度匂いを嗅いで、席を立たれた。
「或いは、子路が近づくと、雌雉は三度羽ばたいて飛び去っていった、との解釈もある」
#論語
「子路共之を、どう解釈するかによる、朱子ですらこの郷党篇二十三は欠文があるのではないかと述べた」
「ようやく郷党篇、2回目の意訳終わる」
「内容は頓珍漢ながらも逃げずに真っ向勝負した、最後のみ吉川幸次郎先生の解説に頼る、焼き雉を差し出した子路、らしいといえば確かにらしい(かも)」
#論語
○日曜日の午後、ウオーキング
「今、流行りの洋楽集を聴き流しながら雨の森を歩いている」
「老後、という得体のしれぬ時間が迫るなか、過ごし方も考えねばならぬ」
「働ける間は働くべし、先に老後を迎えた諸先輩がたは皆言われる、24H、1ヶ月、1年、10年、趣味だけでは長すぎるらしい」
#三行詩
「少なくとも、終日、TVを前にして、自ら、という記憶が失われていく時間は過ごしたくはない」
「幸いかな、一族男系は皆七十初めで同じ病気で亡くなった」
「私もこのくらいで人生設計をしている、あと二十年は働き続けながら儒学を学び、ある日、ポックリとお寺さんへ行く予定だ」
#三行詩
○日曜日の夜、自宅
「ドラマ、ラストマン(福山雅治さん主演)を観ている、いよいよ大詰めの9話、10話へ、面白い、名俳優が脇を固めている」
「正義とは何か」
「大人になる(なれ)、とは少なくとも物欲に呑み込まれるか、距離を置くかで道は異なる、勿論、孔夫子の教えは後者にある」
#三行詩
○日曜日の夜、自宅
「講談社芸術文庫、論語新釈を読み返している、不思議と日曜日の夜は寝付きが悪い」
「学而第一を読む、ため息をつく」
「小論語と呼ばれるだけはあり、孔夫子の教えの本質がここにある、とても重厚だ、省みれば、読む私のなんと軽いことか、ペラペラの学問しかない」
#三行詩
○月曜日の朝、通勤
子曰、先進於礼楽野人也、先進一
孔夫子はいわれた、昔の人は、礼楽に於いては(今と比べれば)野人の如くであろう。
「礼楽の本質は(今のような儀式化した礼楽ではなく)、実践を主とした(野人の如く)素朴な礼楽にあると、孔夫子は次に述べられる」
#論語
「孔夫子は先王の教えに心酔しているが、リアリストであることに変わりはない」
「時代を問わず良きものは良し、とする、何でもかんでも過去に帰れ、ではない」
「物ごとは自ら考える、決断する、実践する、責任を取る、付和雷同を嫌う、物ごとの真実を正しく捉えるのが孔夫子の教えだ」
#三行詩
○月曜日の朝、乗り換え
「今朝は、鼻が利き過ぎて困っている」
「改札口で止まる若者のきつい体臭、ホームに居たカメレオンそっくりの男性の香水」
「アルコール臭のする車内、風の流れで臭う両横に座っている人の体臭、やれやれ」
#三行詩
○火曜日の朝、通勤
後進於礼楽君子也、如用之、則吾従先進。先進一
今の礼楽は洗練されていて(例えるなら)君子の礼楽だ。しかし、これを用いるのであれば、私は昔の、先王からの教え、そのものが残る昔(野)の礼楽を選ぼう。
「孔夫子は物ごとにぶれない、礼楽も本質は先王の時代にある」
#論語
「礼節は大切ではあるが、美しい動作を誇るものではない」
「物ごとを尊ぶ心を表現したものが礼節だ」
「尊い、と思う心があり、有り難い、感謝の気持が自然と出る、心から発してこその礼儀と節度だ」
#三行詩
○火曜日の夕方、通勤
「感情に左右されるとは、目的意識が気薄なのだ」
「その場しのぎでも良いときもある、しかし、少なくとも、そこは目的でも目標でもないのは明らかではないか」
「今一度、心の弓を引き絞るべし、本来の目的を思い返し、目標を刻む、省みる、行動すること」
#三行詩
○水曜日の朝、通勤
子曰、従我於陳蔡者、皆不及門者也、先進二
孔夫子はいわれた、かつて、陳や蔡、天下外遊にて供をしてくれた門弟たちも、今では(早逝したか、仕官して魯国を出たか)顔を見ることすら無くなったものだな。
「孔夫子、晩年の言葉と思われる、過去を思い返しておられる」
#論語
○木曜日の朝、通勤
(諸国外遊に供をした門弟の中で)徳の実践に優れていたのは、顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓、
「後に孔門の十哲、と呼ばれるも、ここに曾子の名前がないのは謎だ」
#論語
○金曜日の朝、通勤
(門弟の中で)言葉に秀でたのが宰我・子貢、政に優れたのが冉有・季路、経書に長じたのが子游・子夏であった。
「孔夫子は、徳行、弁舌、政治、文学の四項目で門弟の個性を評したことに注意すること」
#論語
「昼寝をして怒られた宰我と、何につけても孔門一に優秀な子貢が、同じ弁舌のグループだ」
「宰我は、孔夫子の教えに批判的な面もあったとされるも、恐らくは優秀な人だったのだろう」
「宰我と同じグループ分けされた子貢こそ、なんで宰我と一緒と思ったに違いない、それだけ子貢はずば抜けていた」
#三行詩
○金曜日の朝、乗り換え
「海外での駐在時、確かに日本人ばかりで群れる(生活する)集団はいる」
「私は何処でも常に一人で行動するので(ムラ社会に属さない)気にもしない」
「現地の友人たちや、同じ外れ者と楽しく過ごす、ムラ社会が日本人のMust Beとは思わない、一人でいいじゃん」
#三行詩
○金曜日の夜、自宅
「論語、意訳二週目、郷党篇を終わった、楽をせず(自分なりに)時間をかけた」
「端的に事実が述べられている章だ、単調で(当時は)、且つ(今は)失われた物語が続く」
「単語一つも疎かには出来ない、一文字づつ紐解くと、孔夫子のご様子が生き生きと浮かび上がる」
#三行詩 #郷党篇②(3月中旬〜6月中旬)
「論語を日本で読むとする、現代語訳、書き下し文、白文とある」
「やはり、難解ではあるが論語は白文からの意を求める方が、孔夫子の像がぶれないのではないか」
「少し北京語ができる、所詮は日常会話レベルではあるが、中国で暮らした経験はプラスになっているかも知れない」
#三行詩
「少なくとも白文からの書き下し文の段階で、既に訳者の意思は明快に現れている」
「なら、例えば古今の大学者である根本通明先生の書き下し文、一人を仰ぐ、これは正解だ」
「しかし、残念ながら、世の中、他にも偉大なる大学者の先生が多すぎる、後世の私たちは、最初から迷うのだ」
#三行詩
「故に、迷う前提条件下で学ぶのだ、数学とは程遠いし、且つ(数学的から)程遠いから面白いと思う人が学ぶのだ」
「儒学は根本は先王の教えにある、ここはぶれない」
「しかし、例えば孔夫子を神格化する人もいる、或いは(何故か)孔夫子から帝王学を学ぶ人もいる、或いは自らの仁徳を広げ忠恕を実践する人もいる。ブログでは度々書いているが、論語とは文字で書かれた(人生という)楽譜なのだ。読む人の浅く・深くで解釈は変わる、また、そこが面白いのだと思う」
#三行詩
○土曜日の午後、ウオーキング
「ビートルズ曲集を聴きながら森を歩いている」
「既に蒸し暑さに身体は負けている、コロナ禍、戦争、異常気象、次は宇宙人の登場だろうか」
「何か、この世界自体が試験管の中に在るような感覚すらする、不合理、非道、理不尽な世界に今日も(たぶん)生きている」
#三行詩
○土曜日の夜、自宅
「毎日、少しずつ論語の意訳をしている、周回して、次に他の四書に行くか迷うも、再び論語を選ぶ」
「二週目、先進篇第十一に入り、道がカラッと開けた感覚あり」
「やはり論語で良かった、論語は宇宙一と述べられた伊藤仁斎先生は正しい、三週目も視野に入れよう」
#三行詩
○土曜日の夜、自宅
「思いだ、今、生きている、どう思い、どう思いたいか」
「生きるとは、学ぶことだ、常に自らの仁徳を広げる」
「思いと、生きるを重ねてこその人生ではないか、そして、ユーモア(面白味)の感覚こそ人生で最も大切にすべきこと、だと思う」
#三行詩
所感)
■つれづれ、独学、学問の道
才に長け、時代すら変えてしまう学問がある。
ぱっと思いつくのは南宋時代の朱熹(1130年〜1200年)だ。
儒教、仏教、道教を、儒学を軸に朱子学を構築したその才は、天才そのものだ。
文字通り、天才の所業故に、全てが朱子風に解釈され、四書五経が後世に残る。
学問を始めた頃は、当然ながら儒学とは四書五経であり、浅学非才ながらも挑む。
煌めくが如く、重層的、且つ形而上学的な世界観に魅せられる。
現在でも、論語の意訳と並行して三書の通読、筆写は継続している。
にも関わらず、最近、儒学は儒学でも朱子学風的な世界観と、論語(一冊)の世界観とが異なるように思えて仕方がない。
しかし、論語、孔夫子の教えは日常生活での忠恕の実践だ。
形而上学的な何かは、敬いはするがと遠く置く。意味不明、理解らない存在は、理解らないで良い。
世界は存在として認知し、日常生活で良く(忠恕)生きる(実践)ことが孔夫子の教えだ。
こう考えたほうが、学問がすっきりする。
孟子は大好きだが、(論語と比べると)言葉が多すぎるし、言葉が大きすぎると感じてしまう。
以前は、私は孟子原理主義者であると述べたが、論語と毎日接している(学ぶ、実践する、省みる、改める)と、それすら言葉が浮いている気がする。
学問の進歩ではなかろう、天才朱子の朱子学から心が離れている、著しい後退だ。
しかし、自ら考えた学問の積み重ねには違いない。
私は(方向は間違っているとしても)愚直にこの道を進もうと思う。
間違いに気づけば、そこからまた戻れば良いさ。
論語を軸に、春秋左氏伝、礼記、書経、(詩経)、(易経)を中心に学んでいく。
礼記は明治書院版を通読のみ、毎夜、書経(平凡社の現代語訳)の通読を行っている。
春秋左氏伝は、幾冊か出版社違いで集めてはいるが、通読しても続かない。
及び、最近、楚辞を手に入れた。