四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

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三行詩 第百三十七章(先進第十一②)

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○日曜日の午後、6月9日、自宅

 

色斯挙矣、翔而後集、郷党篇二十三

 

山中、雌雉が人の気配に気づいて舞い上がり、空を巡ってのち再び樹に止まった。

 

吉川幸次郎先生をして、難解、且つ謎のような章と評した郷党篇二十三、次に孔夫子が登場する」

 

#論語

 

曰、山梁雌雉、時哉時哉、、郷党篇二十三

 

孔夫子はいわれた、山橋の上に雌雉がいる、飛ぶも止まるも時に適っている、なんと時に適っていることかな。

 

「郷党篇は、最後のこの章のみ系統が異なる、宮殿での作法や食の好みから、いきなり山の橋を子路と歩くシーンとなる」

 

#論語

 

子路共之、三臭而作。郷党篇二十三

 

(雌雉を見て言葉を発せられた孔夫子をみて)のち子路は雌雉を捕らえて毛を毟り、よく焼いてから孔夫子に差し上げた。孔夫子は、三度匂いを嗅いで、席を立たれた。

 

「或いは、子路が近づくと、雌雉は三度羽ばたいて飛び去っていった、との解釈もある」

 

#論語

 

子路共之を、どう解釈するかによる、朱子ですらこの郷党篇二十三は欠文があるのではないかと述べた」

 

「ようやく郷党篇、2回目の意訳終わる」

 

「内容は頓珍漢ながらも逃げずに真っ向勝負した、最後のみ吉川幸次郎先生の解説に頼る、焼き雉を差し出した子路、らしいといえば確かにらしい(かも)」

 

#論語

 

○日曜日の午後、ウオーキング

 

「今、流行りの洋楽集を聴き流しながら雨の森を歩いている」

 

「老後、という得体のしれぬ時間が迫るなか、過ごし方も考えねばならぬ」

 

「働ける間は働くべし、先に老後を迎えた諸先輩がたは皆言われる、24H、1ヶ月、1年、10年、趣味だけでは長すぎるらしい」

 

#三行詩

 

「少なくとも、終日、TVを前にして、自ら、という記憶が失われていく時間は過ごしたくはない」

 

「幸いかな、一族男系は皆七十初めで同じ病気で亡くなった」

 

「私もこのくらいで人生設計をしている、あと二十年は働き続けながら儒学を学び、ある日、ポックリとお寺さんへ行く予定だ」

 

#三行詩

 

○日曜日の夜、自宅

 

「ドラマ、ラストマン(福山雅治さん主演)を観ている、いよいよ大詰めの9話、10話へ、面白い、名俳優が脇を固めている」

 

「正義とは何か」

 

「大人になる(なれ)、とは少なくとも物欲に呑み込まれるか、距離を置くかで道は異なる、勿論、孔夫子の教えは後者にある」

 

#三行詩

 

○日曜日の夜、自宅

 

講談社芸術文庫、論語新釈を読み返している、不思議と日曜日の夜は寝付きが悪い」

 

「学而第一を読む、ため息をつく」

 

「小論語と呼ばれるだけはあり、孔夫子の教えの本質がここにある、とても重厚だ、省みれば、読む私のなんと軽いことか、ペラペラの学問しかない」

 

#三行詩

 

○月曜日の朝、通勤

 

子曰、先進於礼楽野人也、先進一

 

孔夫子はいわれた、昔の人は、礼楽に於いては(今と比べれば)野人の如くであろう。

 

「礼楽の本質は(今のような儀式化した礼楽ではなく)、実践を主とした(野人の如く)素朴な礼楽にあると、孔夫子は次に述べられる」

 

#論語

 

「孔夫子は先王の教えに心酔しているが、リアリストであることに変わりはない」

 

「時代を問わず良きものは良し、とする、何でもかんでも過去に帰れ、ではない」

 

「物ごとは自ら考える、決断する、実践する、責任を取る、付和雷同を嫌う、物ごとの真実を正しく捉えるのが孔夫子の教えだ」

 

#三行詩

 

○月曜日の朝、乗り換え

 

「今朝は、鼻が利き過ぎて困っている」

 

「改札口で止まる若者のきつい体臭、ホームに居たカメレオンそっくりの男性の香水」

 

「アルコール臭のする車内、風の流れで臭う両横に座っている人の体臭、やれやれ」

 

#三行詩

 

○火曜日の朝、通勤

 

後進於礼楽君子也、如用之、則吾従先進。先進一

 

今の礼楽は洗練されていて(例えるなら)君子の礼楽だ。しかし、これを用いるのであれば、私は昔の、先王からの教え、そのものが残る昔(野)の礼楽を選ぼう。

 

「孔夫子は物ごとにぶれない、礼楽も本質は先王の時代にある」

 

#論語

 

「礼節は大切ではあるが、美しい動作を誇るものではない」

 

「物ごとを尊ぶ心を表現したものが礼節だ」

 

尊い、と思う心があり、有り難い、感謝の気持が自然と出る、心から発してこその礼儀と節度だ」

 

#三行詩

 

○火曜日の夕方、通勤

 

「感情に左右されるとは、目的意識が気薄なのだ」

 

「その場しのぎでも良いときもある、しかし、少なくとも、そこは目的でも目標でもないのは明らかではないか」

 

「今一度、心の弓を引き絞るべし、本来の目的を思い返し、目標を刻む、省みる、行動すること」

 

#三行詩

 

○水曜日の朝、通勤

 

子曰、従我於陳蔡者、皆不及門者也、先進二

 

孔夫子はいわれた、かつて、陳や蔡、天下外遊にて供をしてくれた門弟たちも、今では(早逝したか、仕官して魯国を出たか)顔を見ることすら無くなったものだな。

 

「孔夫子、晩年の言葉と思われる、過去を思い返しておられる」

 

#論語

 

○木曜日の朝、通勤

 

徳行顔淵閔子騫冉伯牛仲弓、先進三

 

(諸国外遊に供をした門弟の中で)徳の実践に優れていたのは、顔淵・閔子騫冉伯牛・仲弓、

 

「後に孔門の十哲、と呼ばれるも、ここに曾子の名前がないのは謎だ」

 

#論語

 

○金曜日の朝、通勤

 

言語宰我子貢、政事冉有季路、文学子游子夏、先進三

 

(門弟の中で)言葉に秀でたのが宰我・子貢、政に優れたのが冉有・季路、経書に長じたのが子游・子夏であった。

 

「孔夫子は、徳行、弁舌、政治、文学の四項目で門弟の個性を評したことに注意すること」

 

#論語

 

「昼寝をして怒られた宰我と、何につけても孔門一に優秀な子貢が、同じ弁舌のグループだ」

 

宰我は、孔夫子の教えに批判的な面もあったとされるも、恐らくは優秀な人だったのだろう」

 

宰我と同じグループ分けされた子貢こそ、なんで宰我と一緒と思ったに違いない、それだけ子貢はずば抜けていた」

 

#三行詩

 

○金曜日の朝、乗り換え

 

「海外での駐在時、確かに日本人ばかりで群れる(生活する)集団はいる」

 

「私は何処でも常に一人で行動するので(ムラ社会に属さない)気にもしない」

 

「現地の友人たちや、同じ外れ者と楽しく過ごす、ムラ社会が日本人のMust Beとは思わない、一人でいいじゃん」

 

#三行詩

 

○金曜日の夜、自宅

 

論語、意訳二週目、郷党篇を終わった、楽をせず(自分なりに)時間をかけた」

 

「端的に事実が述べられている章だ、単調で(当時は)、且つ(今は)失われた物語が続く」

 

「単語一つも疎かには出来ない、一文字づつ紐解くと、孔夫子のご様子が生き生きと浮かび上がる」

 

#三行詩 #郷党篇②(3月中旬〜6月中旬)

 

論語を日本で読むとする、現代語訳、書き下し文、白文とある」

 

「やはり、難解ではあるが論語は白文からの意を求める方が、孔夫子の像がぶれないのではないか」

 

「少し北京語ができる、所詮は日常会話レベルではあるが、中国で暮らした経験はプラスになっているかも知れない」

 

#三行詩

 

「少なくとも白文からの書き下し文の段階で、既に訳者の意思は明快に現れている」

 

「なら、例えば古今の大学者である根本通明先生の書き下し文、一人を仰ぐ、これは正解だ」

 

「しかし、残念ながら、世の中、他にも偉大なる大学者の先生が多すぎる、後世の私たちは、最初から迷うのだ」

 

#三行詩

 

「故に、迷う前提条件下で学ぶのだ、数学とは程遠いし、且つ(数学的から)程遠いから面白いと思う人が学ぶのだ」

 

儒学は根本は先王の教えにある、ここはぶれない」

 

「しかし、例えば孔夫子を神格化する人もいる、或いは(何故か)孔夫子から帝王学を学ぶ人もいる、或いは自らの仁徳を広げ忠恕を実践する人もいる。ブログでは度々書いているが、論語とは文字で書かれた(人生という)楽譜なのだ。読む人の浅く・深くで解釈は変わる、また、そこが面白いのだと思う」

 

#三行詩

 

○土曜日の午後、ウオーキング

 

ビートルズ曲集を聴きながら森を歩いている」

 

「既に蒸し暑さに身体は負けている、コロナ禍、戦争、異常気象、次は宇宙人の登場だろうか」

 

「何か、この世界自体が試験管の中に在るような感覚すらする、不合理、非道、理不尽な世界に今日も(たぶん)生きている」

 

#三行詩

 

○土曜日の夜、自宅

 

「毎日、少しずつ論語の意訳をしている、周回して、次に他の四書に行くか迷うも、再び論語を選ぶ」

 

「二週目、先進篇第十一に入り、道がカラッと開けた感覚あり」

 

「やはり論語で良かった、論語は宇宙一と述べられた伊藤仁斎先生は正しい、三週目も視野に入れよう」

 

#三行詩

 

○土曜日の夜、自宅

 

「思いだ、今、生きている、どう思い、どう思いたいか」

 

「生きるとは、学ぶことだ、常に自らの仁徳を広げる」

 

「思いと、生きるを重ねてこその人生ではないか、そして、ユーモア(面白味)の感覚こそ人生で最も大切にすべきこと、だと思う」

 

#三行詩 

 

所感)

■つれづれ、独学、学問の道

才に長け、時代すら変えてしまう学問がある。

ぱっと思いつくのは南宋時代の朱熹(1130年〜1200年)だ。

儒教、仏教、道教を、儒学を軸に朱子学を構築したその才は、天才そのものだ。

文字通り、天才の所業故に、全てが朱子風に解釈され、四書五経が後世に残る。

 

学問を始めた頃は、当然ながら儒学とは四書五経であり、浅学非才ながらも挑む。

煌めくが如く、重層的、且つ形而上学的な世界観に魅せられる。

現在でも、論語の意訳と並行して三書の通読、筆写は継続している。

 

にも関わらず、最近、儒学儒学でも朱子学風的な世界観と、論語(一冊)の世界観とが異なるように思えて仕方がない。

朱子学形而上学的な理論構築された世界は素晴らしい。

しかし、論語、孔夫子の教えは日常生活での忠恕の実践だ。

形而上学的な何かは、敬いはするがと遠く置く。意味不明、理解らない存在は、理解らないで良い。

世界は存在として認知し、日常生活で良く(忠恕)生きる(実践)ことが孔夫子の教えだ。

 

こう考えたほうが、学問がすっきりする。

孟子は大好きだが、(論語と比べると)言葉が多すぎるし、言葉が大きすぎると感じてしまう。

以前は、私は孟子原理主義者であると述べたが、論語と毎日接している(学ぶ、実践する、省みる、改める)と、それすら言葉が浮いている気がする。

 

学問の進歩ではなかろう、天才朱子朱子学から心が離れている、著しい後退だ。

しかし、自ら考えた学問の積み重ねには違いない。

私は(方向は間違っているとしても)愚直にこの道を進もうと思う。

間違いに気づけば、そこからまた戻れば良いさ。

 

論語を軸に、春秋左氏伝、礼記書経、(詩経)、(易経)を中心に学んでいく。

礼記明治書院版を通読のみ、毎夜、書経平凡社の現代語訳)の通読を行っている。

春秋左氏伝は、幾冊か出版社違いで集めてはいるが、通読しても続かない。

及び、最近、楚辞を手に入れた。