四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 儒教・儒学へ

三行詩 第百四十六章(先進第十一②)

f:id:aristotles200:20240817183859j:image

○木曜日の午前、8月15日、病院

 

子路使子羔為費宰、子曰、賊夫人之、先進二十五

 

(魯の大夫である季氏に重臣として仕えていた孔夫子の高弟である)子路、同門の後輩である子羔を(季氏の領地である)費の長官に任命する。孔夫子はいわれた、子羔は学問が足らず、とても長官の任に耐えられまい。

 

「為政家とは剛毅公平、沈着であることを求められるが、子羔を費の長官に選んだ子路、含めて二人に不安を禁じ得ない夫子。愛弟子の子路ではあるが、その資質には今だ向こう見ずなところがあり、夫子は心配している(後に子路は衛の国に高官として仕えるが、夫子の心配の通り命を失うことになる)」

 

#論語

 

「学問とは積み重ねだ、そして目的ありきでなければならない」

 

「学問は目的ではない、手段だ、自らを磨き、天下泰平の為の一基になるべく自らの徳を広げるのだ(結果はどうであれ)」

 

「目的なき学問の人とは、経書の文字の海に浸かることに満足し、度々言葉だけの批評家に陥る、危うい」

 

#三行詩

 

「極論、論語を学ぶのであれば根本通明先生の『論語講義』一冊で足る」

 

「師(論語講義)の元で学ぶ、そこから自ら論語を考えねばならない」

 

論語は聖書ではない、仁徳のマニュアルだ、一字一句信奉も良いが、学び、自らどう思う、省みる、実践してこその論語だ」

 

#三行詩

 

「素晴らしい師(書籍)との出会いは良いものだ、新しき感動がある」

 

「しかし、出会いが学問なのだろうか、次々と新たな出会いを求めて、経書の海を彷徨い続けることが正なのか」

 

「照顧脚下との言葉が禅宗にある、学問もその通りではないか、学問とは自ら学ぶ、省みる、実践する、改めるものだ」

 

#三行詩

 

○木曜日の午後、ウオーキング

 

ドボルザーク交響曲集を聴きながら、森を歩いている」

 

「ゴロゴロと空が鳴っている、一雨来そうだ」

 

「義とは自らの一つを正す、周囲に及ぼせば良い、他人を正す義など醜悪だ、ましてや義を多く云うなど学問をする意味がない」

 

#三行詩 #自戒

f:id:aristotles200:20240817155026j:image

 

「令和の世の中に、天下泰平を掲げる学問がある、面白い」

 

「誰もが帝堯、帝舜にはなれない、それぞれ器量がある、能力の限界値も違う」

 

「身の程に沿った仁で良い、周囲にその仁を広げる、及ぼす、私は依然として独善の強い小人である、故に学問で磨くところに困らない、これは幸せなことだ」

 

#三行詩

 

「学問をして、聖人のような且つ(何故か)未来形の言葉をSNSやブログ、メデイアで述べる人がいる」

 

儒学の聖人なら、只実践する、それだけだ」

 

「孔夫子の教えとは単純明快である、忠恕、仁徳を広げる(及ぼす)と、言葉で宣伝するとは意味が百八十度違う」

 

#三行詩

 

「故に、現代で学問をするとは、言葉が多すぎで困る、自称聖人化した人があちこちにいる」

 

「そもそも聖人は、SNSやブログ、メデイアに(その性質上)現れることはない」

 

「それらで目にする儒学の良い言葉とは、百害あって一利なし、目的も目標もない切り抜いた抜け殻に思えて仕方がない」

 

#三行詩

 

「孔夫子、高弟の子路顔回たちの熱き思い、抜きの切り抜いた言葉に、なんの啓蒙的影響があろうか」

 

「故に、論語から學ぶのであれば、論語全体から一章句を省みねばならない」

 

孟子に感動したいのであれば、当時の歴史、世の中の状態、孟子の熱き思い抜きで、どう孟子に感動出来ようか」

 

#三行詩

 

「学問(儒学を学ぶ)とは思いだ、孔夫子の熱き思いに共感する、故に論語が面白い」

 

孟子しかり、二程子、朱子王陽明、日本の伊藤仁斎先生、荻生徂徠先生、等々、その思いを理解してこその学問だ」

 

「思いさえ共感すれば、学問は進む、その思いに心震えないのであれば、どう学問が進むのか」

 

#三行詩

 

「一方で学問をして、自ら感じた思いをSNSやブログ、メデイアで述べることは良いことだと思う」

 

「自らの学問を自らの言葉で語る思いとは、孔門に学ぶ人にとって励みになる、力になる」

 

「学問は思いだ、学ぶ人それぞれの思いが有って良い、誇ると思いでは読んでいても百八十度違う、昨今、言葉が多すぎる」

 

#三行詩

 

○木曜日の夕方、喫茶店

 

「十連休も残り三日、寝て食べて、本を読んで音楽を聴く生活から少しずつリハビリしている」

 

司馬遼太郎さんの『翔ぶが如く』(全)を読み進めている」

 

「ネット古本屋さんで塩野七生さんの『ローマ人の物語』(全)を買う、歴史小説に没入すると幸せしか感じない」

 

#三行詩

f:id:aristotles200:20240817160853j:image

 

○金曜日の夕方、ウオーキング

 

子路曰、有民人焉、有社稷焉、何必読書然後為学、子曰、是故悪夫佞者、先進二十五

 

子路はいう、(費という街には)善政を心待ちにしている民が居て、正しく祭祀されるべき先人が祀られいます。経書を読むだけが学問ではありません。孔夫子はいわれた、子路よ、お前は実践なき言葉だけの義を言うのか、私がそういう人間を憎んでいることは知っておろうに。

 

「一見、子路も良いこというように思える、しかし学問の足らぬ子羔が政を行えば、民が苦しむ、或は間違った方向へ進むかも知れない、国の根本(民)を危うくさせて何の学問か。また、(失政が続けば)子羔や、推薦した子路の命に危険が及ぶかも知れない、政に関して甘々の認識をする子路を、夫子はきつく叱っている」

 

#論語

f:id:aristotles200:20240817155147j:image

 

○土曜日の夕方、森

 

「ようやく涼風を感じる、風が心地よい」

 

「日中、子と新しく開店したインド料理屋さんへ、美味し、次はビリヤニ(ラム肉)食べようか」

 

「週明けには仕事始まる、休暇、終わる、さあ頑張ろう」

 

#三行詩

f:id:aristotles200:20240817183615j:image

 

○土曜日の夜、自宅

 

「別にアンチ・カラヤンではない、モーツァルトの後期交響曲集など大好きだ」

 

「しかし、マーラー交響曲集を1番から聴き5番で止めた、これは私の好きなマーラーではない」

 

「インバルの全集に変え、5番から聴き直す、ほっとする、ああ、これだ、これこそマーラーだ」

 

#三行詩 #AmazonMusicUnlimited

 

マーラー交響曲6番は、やはりショルティシカゴ交響楽団盤が好きだ」

 

「インバル指揮も悪くはない、しかし6番に限ればショルティが凄いと思う」

 

「今夜はこのまま9番まで(確実に徹夜になるが)聴いてみようか(インバルの7番は名盤として有名)、8番はバーンスタイン指揮が、9番はマゼール指揮が好きだが、インバルも楽しみ」

 

#三行詩 #AmazonMusicUnlimited

 

「クラッシック音楽を聴く夜には、基本晩酌はしない」

 

マーラーやらブルックナー交響曲を聴くのに、酒を呑みながらでは、とても集中出来ない」

 

「部屋を暗くし、両耳に全神経を集中する、音の世界に没入する、なんと幸せなんだろう」

 

#三行詩

 

○お盆休み期間中、森・喫茶店・自宅、等々で

 

子路曾皙冉有公西華、侍坐、子曰、以吾一日長乎爾、無吾以也、居則曰、不吾知也、如或知爾則何以哉、先進二十六

 

高弟である子路、曾皙、冉有、公西華が側に控えていた時のこと、孔夫子はいわれた、私はお前たちよりは一日の長はあるが、今は遠慮はいらない、日ごろからお前たちは、世の中の人は私たち(の実力)を認めようとしていない、と不平を述べている、ならば(仮に)世に認められたのであれば、何を成せるのか、試みに述べなさい。

 

「曾皙は曾子の父とされ、論語ではこの章句のみ登場する。他は質実剛健子路、政に秀でた冉求、礼儀作法に詳しく外交に向く公西華の四人の弟子と孔夫子の会話で、論語では最長の章句」

 

#論語

 

子路率爾対曰、千乗之国、摂乎大国之間、加之以師旅、因之以飢饉、由也為之、比及三年、可使有勇且知方也、先進二十六

 

子路は飛び上がるように意気込みいう、戦車を千台保有しながらも大国の紛争に巻き込まれ、民も飢えている国があるとします。もし私が(大夫として)その国の政を行うのであれば、三年を経たずして(飢餓を治め)国中の民を勇敢に(大国に対抗出来る国に)して見せましょうぞ。

 

「如何にも子路らしい返答だ、最初から戦車千台を保有する(国を)と表現する辺りが、どうも元武侠というか、荒々しさを感じる、儒家でありながら、まるで将軍のような表現は子路ならではないか」

 

#論語

 

夫子哂之、求爾何如、対曰、方六七十、如五六十、求也為之、比及三年、可使足民也、如其礼楽、以俟君子、先進二十六

 

夫子は(子路の言葉を聴いて微笑されてのち)冉求はどうか、と問われた。冉求はいう、私は(千台の戦車を持つ国などではなく)方六、七十里か、方五、六十里の小国にて、三年の間、政を(大夫として)担当させていただければ、全ての民が国の政に満足する国にして見せましょう。礼楽に関しては他の(私より秀でた)人にお願いするつもりです。

 

「行政手腕に優れた冉求らしい返答、礼楽は他の人に任せたいと述べるところも現実主義者として自分の得意・不得意を見事に把握している。頭の良い実務家、能吏。孔夫子は弟子の才能を伸ばすことにも秀でられた。夫子自身が大苦労人だけに、世の中の酸いも甘いも噛み分けられていることも伝わってくる」

 

#論語

 

赤爾何如、対曰、非曰能之也、願学焉、宗廟之事、如会同、端章甫、願為小相焉、先進二十六

 

孔夫子は次に公西華に問われた。公西華はいう、その能力が自分にあるかは判りませんが、学問に励んだのちは、国の祭祀を行なう宗廟や、他国の君主との会合において、玄端の衣服をまとい章甫の冠を被り(高官の衣装を着て)、国の祭祀や外交を執り行う小大臣になりたいものです。

 

「遠慮し、礼儀正しく述べてはいるが、国の宗廟に立つことを望む時点で、大夫になって外交官として美しい礼装を纏い、華々しく活躍したいと、子路や冉求と同等の野望を述べている」

 

#論語

 

点爾何如、鼓瑟希、鏗爾舎瑟而作、対曰、異乎三子者之撰、子曰、何傷乎、亦各言其志也、先進二十六

 

孔夫子は次に曾皙に問われた、曾皙は弾いていた琴を止め、丁寧に台に置いたのちいう、私の成したいことは三者のようなことではありませんので(述べる程のことではありません)。孔夫子はいわれた、何も気遣う必要はあるまい、それぞれ好きに世の中で成したいことを述べているだけだ。

 

「先の三者による立身出世の志は儒家として間違ってはいないが、夫子が信奉する先王の教えからすると(少し)私欲を感じられたのかも知れない、次に曾皙は三者とは異なることを述べる」

 

#論語

 

曰、莫春者春服既成、得冠者五六人童子六七人、浴乎沂、風乎舞樗、詠而帰、先進二十六

 

曾皙はいう、春、晴れ着を着て、大人の従者五、六人、子どもを六、七人を引き連れ、沂水(沂山の南麓,沂河の上流)で禊をし、雨乞い台で舞を舞わせて、歌を歌いながら帰りたいと思います。

 

「曾皙の言葉の肝は、沂水(沂水が流れる沂山は、かつて黄帝が封禅の儀式を行った場所とされている)にて禊をし、従者や子供たちに舞を舞わせて、先王の偉大な徳、業績を偲ぶことにある」

 

#論語

 

夫子喟然歎曰、吾与点也、三子者出、曾皙後、夫三子者之言何如、先進二十六

 

(曾皙の言葉を聞き)孔夫子は感歎していわれた、私も曾皙の通りに為したいものだな。のち子路、冉求、公西華が退室し、曾皙はいう、三者の志を聞いてどう思われましたか。

 

「この章句は論語の中で最長であるも、内容は薄いと述べる識者もいる。

しかし、ポイントは孔夫子が終生、先王(の教え)を深く敬慕していることが分かることと、弟子の曾皙がその夫子の思いを汲んでいることにある。

子路や冉求、公西華の志は興味深いが、ここでは主旨ではない。

文中からは、黄帝を偲び『浴乎沂、風乎舞樗』する光景が目前に浮かぶ、なんと美しい場面だろう」

 

#論語

 

子曰、亦各言其志也已矣、曰、夫子何哂由也、子曰、為国以礼、其言不譲、是故哂之、先進二十六

 

孔夫子はいわれた、それぞれ志を述べた、それで良いではないか。曾皙はいう、それでは子路の言葉を聞いて何故、微笑まれたのですか。

孔夫子はいわれた、国の政とは礼(お互いを尊ぶ、規律・規範)を以て行うものだ。子路の言葉は(子路らしく勇壮ではあったが)謙譲の徳が抜けてた。故に(日ごろから子路に礼楽の大切さを教えているのに、相変わらず子路は変わらない、子路らしいと思わず)微笑んだのだ。

 

「一代の快男児子路は同時に欠点(短気、向こう見ず、猪突猛進、等々)の塊でもある。孔夫子は子路の長所を愛で、中々修まらない欠点も(叱ってはいるが)愛でておられたように思う。子路の公正無私の性状は常人が抱ける類いではないと、夫子自身が一番認めていたからではないか」

 

#論語

 

唯求則非邦也与、安見方六七十如五六十而非邦也者、先進二十六

 

冉有は、方六、七十里か、方五、六十里の小国であれば政を見事に成せます、と遠慮深く(自らを謙遜して)述べてはいたが、何れも一国には変わるまいて(自らの能力を誇るのではなく、苦しみ民を救う思いこそ根本だ)。

 

「孔夫子はぶれない。先王の教えを学ぶ、教える、実践する、仁徳とは何であるか、忠恕は何の為にあるのか。自らの徳を広げ周囲に及ぼし、国を、世界を仁徳に包み込む。聖人君子の下、先王の世を再現することにある」

 

#論語

 

唯赤則非邦也与、宗廟之事如会同非諸侯如之何、赤也為之小相、孰能為之大相。先進二十六

 

公西華も(冉求と同じく)小国と遠慮して述べているが(対象が)一国であるこことに変わりはない。国の宗廟の祭祀、他国の君主との会同を仕切るとは、もはや諸侯相手の職務であろう。

公西華のいう(自分を下にした)儀礼の進行を行う小相とは、儀式全体を統括する大相に他ならないではないか。

 

「弟子の志は良し、世に生きる人であれば皆(隠者でなければ)、立身出世を望むものだ。しかし、何れも目的の先に私利私欲があってはならない。名声、名誉、富、権力とはあとから付いてくるもの(受け入れて良い)であり、儒家の目的ではない(してはいけない)。自ら(の能力)を言葉で誇るものではない。私利私欲抜きの救世の思いこそ孔夫子の教えであり、その為に学問の道はある」

 

#論語

 

所感)

■つれづれ、学問の道

どうも学問が軽い、学問を広げて(五経等々)学べば学ぶほど自らの学問が軽いと感じてしまう。

言葉だけが先走りしている。

初学で得た感動から、それほど進歩がない。

こういう時、独学とは苦しいものだ。

足掻くか、後戻りするか、放り投げるしか選択肢が浮かばない。

 

結論、初心に帰るしかあるまい。

根本通明先生の『論語講義』以外の本は、全て本棚にしまう。

私は浅学非才の身、ただ、一冊で良い。

ギリギリまで追い込もう、集中して学ぶ、この一冊が根本だ、今、ここ、自分、それだけで充分だ。