○月曜日の朝、8月26日、通勤
非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動、顔淵一
(仁の行いとは)礼に非ざれば(見ない、)聴かない、言わない、行わないことだ。
「仁徳の道も極めれば仏僧の戒律のような厳しさに至る、生半可な学問で行えることではない(故に、孔門の後継者である顔回にのみ伝えたのだ)」
#三行詩
「日光東照宮に三猿(邪なものは・・)がある」
「礼に非ざる=邪なもの、であることは勿論ながら、敢えて四番目を作らない(ひっかけている)のは何故だろう」
「礼に非ざれば行わない、という選択を自ら得なければならないからだ。儒学とは自らが主であり、主体性を一とする(自主性ではない)」
#三行詩
「現代の日本では自主性が重んじられる、レールの上を走れば良い、優秀ですね」
「儒学は、初学での他人の引いたレールを走ること、では終わらない」
「自分はどう思うか、自分で考えて(判断して)行う(実践する)主体性を柱とする、故に学問の道なのだ(面白いと私は思う)」
#三行詩
「例えば、戦後教育、そのものが(皮肉にも)国民を自主性へと導き、自ら考える人が少なくなったように思う」
「戦争は忌避、否、全否定せねばならぬ、しかしお題目のように反省と反対を唱えさせても主体性は育たない」
「戦前・戦中・戦後史を学ぶ、そして道徳教育(主体性教育)を並行的に行ってこそ、戦争は忌避、全否定すべきことと理解出来る。戦前を切り捨て過ぎて、日本人の根本である儒学を無視、過去の遺物としたことが、今日の社会で主体性の無い人が増えた原因ではないか」
#三行詩
○月曜日の朝、一休み
「儒学が主体性教育?、時代遅れの素読と写経にそんな効果があるものか、という批判も理解出来る」
「素読と写経だけでは主体性は育たない、形骸化した朱子学で教育された人材の弊害は中国史で学ぶべき教訓の一つだ」
「端的に述べれば、素読と写経は手段に過ぎない、目的ではない。論語や孟子は、素読する、写経する手段を通して、その内容を熟慮し、孔夫子の誠に感動し、忠恕(自らを誠に、人を思いやる)を日常生活で実践することが目的だ。
主体性を培うとは、物差しや定規の使い方を学び(素読、写経)、自らの考えでそれらを使用して成果を生み出すこと(学問の道)にある。物差しや定規を、引かれた点線に沿って用いてなんの主体性が得れようか、ましてや寸分違わず引けば優秀な人材とか、自主性とは人を奴隷化する策かも知れない」
#三行詩
○月曜日の朝、二休み
「それ自体は間違ってはいないが、一つの手段であることを最初から明確に述べるべきだ」
「目的があって写経し、初めて成果が得れるのであり、ただ写経するのであればパズル雑誌と変わらない(主体性を求めるのであれば、だ)ではないか」
#三行詩
「漢文的素養が当たり前の時代であれば、写経はスタンダードな学問の方法だ」
「現代でも研究者や、儒家志望の者であれば、必須ではないか」
「しかし、一般の人に対して(単なる)啓蒙的活動の一環で、経書の言葉を写経し、さあ感動しろとは無理がある」
#三行詩
○月曜日の夕方、通勤
「人間とは思う、考える生き物だ、そして何を思い、どう考えるかがその人の個性となる」
「(自分から見た)目の前の現象をどう視るのか、視点は何処にあるのか」
「ある意味、形而上学的な見方とは脱人間であり超人しか出来まい、かといって自販機を通る度に返却口や地べたにある(かも知れない)小銭を探すのもきつい生き方だ、今、混み合う電車に乗っている、一両およそ百人前後の人がそれぞれの思い、考えで個性を成立させている。
目の前の現象は、そうは変わらない、しかし例えば車内放送でオルゴールの音楽が止まらないとする、すると百人前後の乗客は皆、同じことを思う、何故音楽が止まらないんだろうか。
人間とは、老若男女、目の前の出来事から離れられない。場所、時間、場合でコロコロ思いは変わる。この思いを、どう自他含めて仁徳へと導くかが学問ではないか。
極論を言えば、自販機の地面に小銭が落ちていないか探す行為と、その横で道で困っている人を助ける行為は、共に行為には違いない、つまり、視点が何処にあるのかで人間の個性は変わる、見る視点こそ人間の個性ともいえる。
学問とは、視点を変えることだ。自らの視点を仁徳、忠恕へと変え、行動することだ。及ぼすとは、その行動を見る、知った人が視点を変えることだ。電車内でオルゴールが鳴り続ければ皆、同じことを思うように、自ら善いことを実践すれば、視点を変える人が出るかも知れない。
学問の道とは、突き詰めればこのように単純化出来る、山の様な経書を素読、写経、暗記せずとも仁徳は世の中に広がる。ただ、問題は誰一人、そうしないことにある。
私含めて、多くは付和雷同する小人に過ぎない、善くも悪くも流される生き物だ。私利私欲を捨て、いっちょ世界の為に、という奇特な人はやはり現れない。そこで君子の登場、否、君子育成論が始まる
儒学が興り二千五百年、儒家は何とか身内から君子を出そうと、流派を分派させつつ四苦八苦するも君子の出現には至らない。孔夫子と顔回から、跡継ぎが現れない。
或は、自己進化を可能にして人類を支配するAIの登場こそ理想の君子かも知れないが、少なくとも、今・現在は夢物語に過ぎない(と信じている)。ある意味、儒学の君子とは(孔夫子の思いとは真逆であるが)南無阿弥陀仏と同じような存在ではないか、と思わざるを得ない。
二千五百年を経ても世の中に登場しない儒学の君子とは、果たして何処に居るのだろうか。朱熹(朱子学)は宇宙万物の形成を、理(宇宙の根本原理)と気(物質を形成する原理)の一致として説明した、果たして現代で幾人がこの説に共感出来得るのだろう。
現代で通じる儒学とは、やはり論語、孟子といった孔夫子の教え、初期儒学と思わざるを得ない。君子は人類が作る存在ではなく、天が与えてくれる奇跡、君子(天からの使者)を待ち続けるという状況自体が、実は正解なのかも知れない。
或は、集団意識としての君子の登場こそ、儒学の来たるべき姿かも知れない、君子という複数人で構成する集合体が成立可能かどうかは未知数ではあるが、興味深くはある。」
#三行詩
○火曜日の朝、通勤
顔淵曰、回雖不敏、請事斯語矣、顔淵一
顔回はいう、私は学問をしても未だに愚鈍ですが、孔夫子の教えて頂いたことは今より実践していきます。
「教えを聴いて即行える、温厚な性格、天才顔回とは古の先王と比しても劣るところが見当たらない」
#論語
○火曜日の午前、一休み
「敷かれたレールの上で、自主的であることが美化される社会に生きている」
「目的が作業になっていることに違和感すら感じない私たち労働者(国民)」
「一方で主体的なこと、全てを決める富裕層、世襲議員、経営者、高給官僚(支配層)がいる」
言葉)自主的と主体的
・自主的とは、何をやるべきかを理解し、指示を受ける前に取り組めること。
・主体的とは、自分自身で考えて物事に取り組むこと。責任を持ち実行出来ること。
#三行詩
「ジョージ・オーウェルの書いたSF小説『1984年』を読んだのは、30年程前だ」
「最近、今いる世界が『1984年』と大して変わらない、と思い始めている」
「儒学を学ぶと、真実が見えてくる、自主的から主体的へと考えが変わる」
小説)『1984年』、ディストピア小説、全体主義社会の恐怖を描いてる。 個人の自由が政府によって完全に抑圧され、監視が社会の隅々にまで及ぶオセアニアという架空の国を舞台にしている。
#三行詩
「トム・クルーズさん主演の『オブリビオン』という映画がある」
「主人公は当初は自主的に任務をこなす青年、しかし物語が進むにつれて事実から物ごとを主体的に考え、行動に移す」
「あれは映画だと笑えるのだろうか、エイリアンはいないが、世襲議員や世襲富裕層は常に存在している」
#三行詩
「別に革命をおこそう等、物騒なことは云わない、そういう主旨ではない」
「主体的に物ごとを考えない、決められたレールを走ることしかしない(出来ない)国民の行く末は、何が待ち受けるのだろうと思うだけだ」
「民主主義とは、主体的思考で成り立つ統治システムだ、民が主でなければならない、しかしその民が権力者の決めるままに従うことを美徳とする、この自主的な国民とは独裁主義下の国民と何が違うのだろう」
#三行詩
「ここで本来の命題である、儒学の徳治主義(政治)は現代で存在し得るのだろうか、に話しを移す」
「現実的に述べれば、立憲主義、民主主義の上で選挙を経て選ばれた元首による徳治主義的な政治であれば可能ではないか、とも思える」
「しかしながら、そもそも現代で、先王(帝堯、帝舜)の政治形態が通じるのか、という言葉自体がナンセンスである。つまり、現代で儒学を政治的に生かそうとするならば(天才による)バージョンアップ(現代版)が必要なのだ。
かと言って、儒学の限界が孔夫子の教えの限界とはならない、何故なら(もし)孔夫子が現代に蘇ったのであれば、当然変化は受け入れる、そして(仁徳を以て)自らを(現代版に)変えられることは明らかであるからだ。
儒学の制度は古い、旧き時代遅れの過去でしかない、しかし孔夫子の教えは人類共通の不変の理であり、温故知新(聖書にある、古き酒を新しき皮袋に入れる例えには当てはまらない)されるべき人類の宝だ。
一部の識者は、論語や孟子、五経を尊び過ぎて一言一句変えてはならぬ不変の聖書としている、やはりこれには無理がある。経書に記された深淵なる思想を汲み取るべきであるのに文字に囚われてしまっている(その気持ちは理解出来るが)。儒学で学ぶことは二千五百年前の制度等々ではないことは明確だ。
自主的と主体的を儒学を絡ませて検証した。結論からいえば、孔夫子の教えですら自主的姿勢であれば未來は暗い、主体的に学ばなければならない、且つ自らを主体的にするのも孔夫子の教えであり、経書の文字に囚われ過ぎては、孔夫子の教えからも外れることになる。
#三行詩
○水曜日の朝、通勤
仲弓問仁、子曰、出門如見大賓、顔淵二
仲弓、仁を問う。孔夫子はいわれた、家を出て人と出会った場合、自国の君主に接見に来た隣国の使者と相まみえるかのように、謙譲の気持ちと礼法に則って接見することだ。
「仁が対象を選ぼうか、常在仁心こそ学問の道」
#論語
「自らを仁とする、とは聖人君子にしか出来ないことだろうか」
「父母から受けた慈愛も仁だ、全ての人に仁は有り、思いを行いへ広げることが出来る」
「学問とは自らの仁を広げる(及ぼす)ことにある、日常生活の当たり前の所作(礼)から仁は広がる」
#三行詩
○水曜日の夕方、通勤
「人は少からず何かに阿ている、会社なら上司や社長、家なら妻か、人間関係の潤滑油であり、多少有ってもいい」
「私たちは漫画『北斗の拳』の主人公ではないのだ、さらにいえば、そのケンシロウ(阿ない)やラオウ(全く阿ない)と二十四時間一緒に居たいと思う人はかなり少ない(であろう)」
「日常生活に完璧を求める必要はない、しかし学問は別だ、プラス・マイナスどちらに転んでも阿ることになる。プラスであれば、経書の一言一句を聖書のように考えて疑わない人がいる、これは経書に阿るあまり自ら物ごとを考える主体性を最初から捨てている。儒学は宗教ではない(その側面はあるが)。
一方マイナスであれば、二千五百年前の人が述べた内容などたかが知れてる、一部抜粋、或は要約集、絵で簡単本で充分だろう、私はこれでも色々(書店に並ぶ啓蒙書の類い)学んだ優れた人なのだ、と、自分自身に阿て学問を認めようとしない。
阿る、とは機嫌を取って対象の人の気に入るようにする、追従する意味だ。マイナス面(学問を馬鹿にする)の阿る、自分自身に阿ることの考察は今回は省く(あまりにも愚かでは)。この文の主題は(孔夫子にも、孟子にも、曾子にも、朱熹にも、等々)主体的、阿ない学問の道とは何か、にある。
縦軸、学問の道で揺るがせてはならないこと、先王の教え、仁徳、忠恕、天命、先祖崇拝、礼節、中庸、性善説、四端(四徳)、易姓革命、浩然の気、歴史学がある。
次いで横軸、時代によって変わること、政治制度(君主制、封建制)、礼儀作法、鬼神を祀る(祭祀)、科学的知識、身分制度、それまで歴史の積み重ね。
次に、(現代)で、あるべきこと、
・儒学とは今(現在)、ここ(世界)のリアル(現実)を、忠恕(仁徳)へと改善させて苦しむ民を救う(天下泰平)為にある。
・歴史の積み重ねは、省みなければ、改めなければ教訓とはならない。歴史を正しく認識(儒学的考察)し、新しき史観が必要だ。
・儒学は民主主義下でこそ本領を発揮し、民主主義を守ることに繋がる。忠恕の浸透により、民主主義下での不正、汚職、腐敗を自浄する。
・孔夫子は、あらゆる戦争を否定する。人が人を殺す、殺されることなど、あってはならない(畜生、悪人の類いを法律(刑罰)で処罰するこちは必要だ)。
以上、主体的な学問の道、過去に阿ない学問の道は何かを考察した。儒学の縦軸(不変であるべきこと)と横軸(変えなければならないこと)、であるべき事(本来のあるべき姿)は明らかになったが、次にどう実践するのか、具体的実践方法を明確にしなければ絵に描いた餅に過ぎない、さらに考察したい。
#三行詩
○木曜日の朝、通勤
使民如承大祭、顔淵二
為政者として民を使役させる時には、国の宗廟における重要な祭事を執り行うかの様に、厳かに命じることだ。
「命じる側の為政者こそより襟を正して厳粛に執り行う。政治とは本来、このような(祭祀、神聖な行事に取り組む様な)姿勢が必要なのだ」
#論語
「礼法を遵守する、だからこそ民を使役すること自体を尊べる(暴政を王自ら戒める)ことが出来る」
「先王の教えとは、このように一つ一つ(の礼法)に意味があり、物ごとの、であるべき本来の姿を明らかにする」
「礼法の本来の姿とは行儀作法ではなく(後から付いたもの)、その礼法の目的を尊ぶ、或は目的の為に必用な労働(祭祀なら生贄)に感謝することが主だ。政治が祭祀と同等であった時代の名残り、で済ませられることではない。先王の教え、礼法が意味する本質は現代でも変わらない尊ぶべきことだと思う」
#三行詩
○木曜日の夜、ジョギング
「夕食のち、一人、軽くインド料理屋さんへ寄る」
「ビアーとビリヤニ(羊肉)を注文する」
「ああ、様々に香るスパイスと炒めた異国のお米、野菜、羊肉、美味し、インドよ、いつかは訪れようぞ」
#三行詩
○木曜日の夜、森
「食後、暗い森を走る、スローペースで、鼻呼吸の範囲で一時間」
「雑念が現れては消える、幾度かの雑念を越え、今、ここ、ただ走っている自分がいる」
「虫の鳴き声、風、森の香り、自分の足音、呼吸音、そして南無阿弥陀仏と」
#三行詩
「私は脳筋だ、五十を超えても脳筋を維持、継続すべく走っている」
「らしくないことは御免被りたい、冗談じゃない」
「筋肉は正義だ、筋肉は裏切らない、ただ目の前を駆け抜けろ、向くのは前だけだでいい」
#三行詩
○金曜日の朝、通勤
己所不欲、勿施於人、顔淵二
自らが欲しないことを、他人に行ってはいけない。
「聖書 マタイの福音書7章12に『何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ』とある、述べていることは同じであるが思考過程が違う、儒学は自らの仁徳を(学問により)広げて周囲へ及ぼすものだ、一方、聖書は神は全てを与えて下さるではないか、故にあなたも人々に与えなさい、とする、この違いはとても興味深い、別に考察を述べたいと思う」
#論語
○金曜日の夕方、通勤
「論語を丸暗記すれば君子になれる、ことはない」
「論語とは学問の本だ」
「志、誠、公正無私の思い、これらを抱かずして何の為の学問だろう、論語を読む(学問の道を歩む)とは、一に自らの思いを錬ること、二に方法論がくる、丸暗記は手段に過ぎない」
#三行詩
所感)
■金曜日の夜、自宅
夕食後、雨の中を子と一時間、黙々と森の中を走り込む、のち人の居ない照明のある広場で空手の練習をする。
親子で声を合わせて、セイッ、と繰り返す声が暗い森に響く。
中三になる子、悩み(進学、学校、友人等々)で一杯一杯らしいがもはや父親の出番は限りなく少ない。
せめては夜、こうやって練習に付き合うくらいしか父は出来ない、しかし横で走っていると分かる、そろそろ大丈夫だ、子は男の顔になってきている、そう信じている。
帰り道、親子で好きな格闘技、武道、武術の話しをしながら帰る。良い夜だった。