○日曜日の午後、9月8日、自宅
子曰、内省不疚、夫何憂何懼、顔淵四
(弟子の司馬牛から、君子は憂えず怯えぬことの意味を重ねて問われて)孔夫子はいわれた、自らを省みて、君子とは(内面を仁で満たしていているから、あらゆることに)何ら恥じることが無い者だ、どうして憂え、怯える必要があろうか。
「内面を仁で満たすのが学問の道であり、君子なら当然のことだ、憂えない、怯えないことは付随することであり=君子ではない、しかし、どうも牛はここを理解しているのか怪しい、それでも外(型)から内(心)に気付くこともあると、孔夫子は言葉を重ねられのだ」
#論語
○日曜日の午後、自宅
「悪と全体主義―ハンナ・アーレントから考える (NHK出版新書 549)をAmazonで購入する」
「私の世代は、少からずアーレントの影響を受けた作品群(小説、漫画、映画等々)の世界で(子供の頃から影響を受けて)育っている」
「いわば、戦後反戦思想教育の本家大元ではないか、と思い立ち、初アーレントはこの本を選ぶ。
ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害の実体験に基づいた『全体主義』、『悪の平凡性』、等々、アーレントの主張する現代社会における『民主主義や自由の本質』を学びたいと感じている。
また、繰り返し読んだ後は、人間の内面に生じる善悪の問題に関して、孔夫子の教え(儒学的解釈)との比較もしてみたいと思う」
【人名】ハンナ・アーレント、ドイツ出身のアメリカ合衆国の政治哲学者、思想家である。ドイツ系ユダヤ人であり、ナチズムが台頭したドイツからアメリカ合衆国に亡命し、教鞭をとった。 代表作『全体主義の起源』などにおいて、ナチズムとソ連のボリシェヴィズム・スターリニズムなどの全体主義を分析したことで知られる。
✳ウィキペディアより抜粋。
#三行詩 #ハンナ・アーレント
○日曜日の夕方、ジョギング
「AmazonM・洋楽メタル集を聴きながら、やたら蒸し暑い森を走っている、汗が止まらない」
「外気温36℃、舌を出して、形相の悪い走る人を度々見かける(お互い様かも)」
「悪相とは大概が内柔外剛の人が多い、本当に怖い人とは顔色は優しく、見かけ穏やかなものだ」
#三行詩
「元バックパッカーなので、海外でもそこそこの危険な経験はしている」
「ダウンタウンで集団に追いかけられ、ズボンも上着もナイフで切られたり」
「逃げ足と降参(有り金全部だ)は基本形、あと誰も(警察も)信じないこと」
#三行詩
「人によるが、友達探しで旅などしたことがない(人間関係うざい、面倒くさいから解放だ)」
「ダウンタウンの安宿に連泊し、屋台や安い食堂でひたすら飯を喰らい、安酒を浴びるほど呑む、夜の繁華街を独り彷徨う」
「食う呑む寝る、彷徨う以外はなにもしない、母国のしがらみを忘れて異国の地に沈むのだ」
#三行詩
○日曜日の夜、自宅
「六年前、ベトナム・ハノイに十日間沈んだ、二日目にガイドさんを雇い、現地情報を収集する」
「私のような人間嫌いは、現地で友人など出来ない(要らない)、或は、同じ日本人とわざわざ異国の地で群れたくもない」
「お金は使うところには使う、治安、安全、地元情報は必ず手に入れる(私はバカではない)」
#三行詩
「海外に行くと、現地の食事は旅の楽しみの一つだ」
「メニューを見てもよくわからない、故に昔から、テキトーに頼む」
「悪い選択をすると、店の人が止めてくれるのは何処の国でも変わらない」
#三行詩
「屋台がどう、安食堂はどう、昆虫や蛇はどう、とは慣れだ、人間腹が減れば食べる以外に選択肢はない」
「ゲテモノ料理も躊躇なく食べる、現地の普通の料理は大概問題ない」
「ダウンタウンの屋台を食べ歩くのが好きだが、博打的要素もある、知人は肝炎に感染して即帰国した」
#三行詩
○日曜日の夜、自宅
「若い頃、現地の学生さんと友人になり、安い四川火鍋を食べた、のち三日間寝込む」
「日本の友人達と蛙肉をスーパーで買い込んで水炊きをしたことがある、美味いものではなかった」
「現地の友人宅に度々呼ばれて食事を共にしたが、虫や蛇を気にしたことはない、全て美味しいと食べた」
#三行詩
「際どいのが接待料理だ、空港から車で五時間、農地広がる工場へ、から車で小一時間、妖しい賓館へ」
「二階立ての宿屋兼食堂、辛うじて電気はきているが周囲の農村にはない、そこで日本の客人を迎えるためご馳走で饗してくれた」
「日本人は刺身大好きと、雷魚、鮒、鯉、等々淡水魚の刺身のオンパレード(勿論、現地側は食べない)」
#三行詩
「遠路疲れ果てて、泥臭い刺身を慣れぬ中国醤油で食べるも美味しいと思うには無理がある」
「更に宴会のお約束、白酒エンドレス乾杯が続く」
「やはり現地の人が食べているものが一番美味しい、以来、外国で刺身は食べない(食べれない)」
#三行詩
「旅は一人がいい、基本形を守れば海外でも何とかなる」
「出会いは旅の目的ではないし、同じ匂いがすると普通に友人になるものだ、別に特別なことではない」
「目的がないのが目的の旅もある、観光地巡りも良いが、私は異国の街に沈む方が好きだ」
#三行詩
○月曜日の朝、通勤
司馬牛憂曰、人皆有兄弟、我独亡、顔淵五
司馬牛、憂えていう、人には助け合う兄弟がいるのに、私には(厄介な兄しか)いないんです。
「兄である司馬桓魋は孔夫子を亡き者にしようとしたり、君主に逆らい他国へ亡命したりする素行の悪い人物で、牛は常に悩んでいる」
#論語
「司馬牛に足らないことは何だろうか」
「結論から述べると、学問の道を文字の世界でしか見ていない、文字(先王の教え)とはあくまで日常生活における実践有りきの教えであり、文字の世界で仁を唱えることではないことに気付かない(孔子家語に、性たる躁、言語を好す、と人物を評されている)」
「人となり抗うを好む兄、桓魋の存在を悩む(自ら解決する)ことも学問の道である、牛がそこを自らの天命であると自覚すれば、現実を認めれば彼の学問は一つ進むのだ。
仁とは誠、誠とは言い換えれば公正無私に生きる覚悟でもある、腹が据わる、据わらないかはどんな人生でも大きな差になる(その為の学問である)ものだ」
#三行詩
○火曜日の朝、通勤
子夏曰、商聞之矣、死生有命、富貴在天、顔淵五
(陸でもない兄しかいないと嘆く司馬牛に)子夏はいう、私は孔夫子からお聞きしたことがある、死ぬも生きるも、富むも貴きも自らの天命であり、人の力ではどうしようもないことはある、と。
「死生命有り、富貴天に在り、とは現代でも言い古された言葉であるが、だから諦めるのではない。世の中、成せる・成せないの区別、現実を受け入れること。次に公正無私の誠を抱き(学問の道を歩み)、志し(成さねばならぬこと)を得て、仁徳の道を実践することが人の本来の道である、との意」
#論語
「一方で『子曰、年四十而見惡焉、其終也已』陽貨篇二十六(孔夫子はいわれた、四十を越えて周囲に憎まれるようでは、どうしようもあるまい)ともある」
「現代の識者は、その通りだから若い人は頑張れ、と孔夫子に阿るばかりで、現代での論語(学問)の道を閉ざす一方に思う」
「夫子は何も、四〇以上は学問をしてもどうにもならない、とは述べていない。人に憎まれるとは、私利私欲のままであるから憎まれるのだ、学問の道を志す者であれば(私利私欲から離れ)憎まれるわけが無い。
このような単純な推察ですら出来ず、文面のまま阿る人が現代の識者とは、中々辛いものを感じる。
さらに『死生命あり、富貴天に在り』とは学問の道を歩むが故に天命を受け入れるのだ。私利私欲に勤しむ人のことではない。
論語を読むとは、目的(自らの仁徳を広げること)を念頭に読む(学ぶ)、行う(実践する)、考える(省みる)、改めることを繰り返す(学問の道を歩む)ことだ。
論語を聖書のように一言一句、違わず守れ、が夫子の教えではない。
自ら考えることが夫子の教えだ。天で夫子は苦笑いされているのではないか」
#三行詩
○火曜日の午前、一休み
「現代で論語・孟子を学ぶ(学問の道を歩む)には、第一に当事者意識を欠いてはならない」
「仕事でも、他人事、時間まですれば終わりでは、陸な結果にならない」
「文字の海を泳ぐより本を閉じ、孔夫子の教えを主体的に考える(自分ならどうするか)時間が必要だと思う」
#三行詩
○水曜日の朝、通勤
君子敬而無失、顔淵五
君子とは、一に天を、二に仁、三に礼を尊しとして、常に離さぬものです。
「この場合、君子の行いである『言葉慎み、行いを俊敏にする』よりは、君子の本来の姿を子夏は司馬牛に説いている。牛は根本のところの学問が足らないことを、子夏も気付いている」
#論語
「儒学の、根本のところの学問とは何か」
「忠恕(自らを誠に、人を思いやること)と礼(物ごとの本質を尊ぶこと)に他ならない」
「これらは学問をして、心中自らを省みる、心底自らを改めねば身につかない、公正無私の誠を抱くとは、自身の内での戦いを、存在を賭けて勝ち取るものだ」
#三行詩
○水曜日の朝、乗り換え
「温故知新、確かに儒学とは古臭い(二千五百年前の)学問だ」
「しかし、そこに胡坐をかいて温故から出ようとしない現代の識者がいて、彼ら(彼女ら)は知新に取り組む者を異端視する」
「確かに私は異端者だろう、生まれついての反骨精神は親譲り、どうしようないが、器にも色々あっていい、多様性から派生する無数の異端者の上に、現代に活きる儒学の未來があると信じている」
#三行詩
○木曜日の朝、通勤
与人恭而有礼、顔淵五
(陸な兄しかいないと嘆く司馬牛に、続けて子夏はいう)人と接するに恭しく、礼に則り思い行うことです。
「相手を尊ぶからこそ恭しい態度が自然に出でて思い行いが礼法に適う。恭しくする、礼法を守るのが主ではない、尊ぶとは紛れも無く仁だ」
#論語
○木曜日の朝、乗り換え
「ふと、自然は仁なのだろうかと思う」
「ではない、自然は道であり、天の現しでもある」
「ならば天を仁とし、道を仁とするとは誤りなのか」
#三行詩
「仁とは、学問をの道を歩み君子となり、周囲に及ぼすものだ」
「天も道も仁を内包しているが、仁を実践してこそ仁が現れ、道となる」
「つまるところ君子が現れねば、天に仁は出ず、道に仁は現れない」
#三行詩
「君子、全てが帝堯・帝舜、レジェンド級の必要はない」
「身の丈サイズの君子で良い、父母に仕え、妻子を日々養うのも立派な仁だ」
「孔夫子の教えは個性の開花であり、超人製造ではない、道に咲く一輪の花のような仁、君子も君子である」
#三行詩
○金曜日の朝、通勤
四海之内、皆為兄弟也、顔淵五
(慎み深く礼を逸せず、恭しく礼に則れば、)東西南北、海に接するところ全ての人が(司馬牛にとって)兄、弟のような関係となるものです。
「二千五百年前に、この世界は四方に広大な海が広がり、数多の国が存在する(であろう)とする、フロンティア精神に満ちた『四海之内』という言葉自体にワクワクする。兄・弟のような関係とは、儒学は父母からの慈愛を元とする学問故に、当然の帰結といえる」
#論語
○金曜日の夜、自宅
「哲学書を読むと、毎回、何らかの衝撃を受け、背筋に悪寒が走る」
「何だろう、人の本質とはなんとシンプルなのか(過ぎるのだ)」
「ハンナ・アーレントのいう『全体主義』然り、市民は大衆となりユートピアの夢をみる、そして現実は空想となり、やがて想像力は暴走へ繋がる」
#三行詩 #ハンナ・アーレント
「大衆の好む世界観を歌い、その虚構の世界にヒエラルキー(階級)を序列し、優越を競わせる」
「そしてプロパガンダを提唱され、国民は動物の群れと同じく、羊飼いの命じるがままに破滅に向かう」
「『全体主義』とは、道徳を崩壊させるものだ、そして人格を非自律化させ、ついに命令と法に従う『良心的』な虐殺者を生み出してしまった。
彼(彼女)は正義の執行人として誇り高く処刑されたのだ。人は悲劇を越え、もはや喜劇の類いの地獄絵図を、呪いの如く繰り返している。
人類の汚点である近現史に生まれた『全体主義』を省みて思う、孔夫子の教えと真逆なのだ。
道徳こそ人の根本であり、父母の慈愛を広げる、それぞれの多様性を認める、各々の個性の価値を高め続ける(自らの仁徳を広げる)ことこそ類としての人が、絶滅から逃れる唯一無二の道なのではないか」
#三行詩
○金曜日の夜、自宅
「人の集団とは暴走する、この暴走こそ時代の奔流の源かも知れない」
「何故なら、人はユートピアを願い求める生き物だ、誰だって父母、兄妹、妻子の満たされた笑顔を見たいと思う」
「逆説的にはユートピアを願う心は善(仁)でありながら、周りを犠牲にして手段を問わない(悪)、暴走こそ人の歴史、積み重ねでもある。
故に、孔夫子が遠き先王の教えに理想を求めた思考経路が理解出来る。
善悪は紙一重であり、中庸こそ(味気なくも)人が人らしく生きる唯一の方法なのだ」
#三行詩
○金曜日の夜、自宅
「では、人の求めるユートピアと孔夫子の述べる仁との違いは何だろう」
「レベルの差だ、私利私欲、『私』さえ良ければ幸せと思うか、に依る」
「『私』を父母を元にして家族へ、一族へ、友人に、地域に、国に、民族へと広げるのが孔夫子の教えだ」
#三行詩
「そして、本来であれば仁を中庸へ進化(移行)させねばならぬ」
「しかし、中庸の朱子学臭さが鼻についている今のaristotles200には無理だ」
「私はリアリストであり、孔夫子教えの実践者でありたいと思っている。
故に、浅学非才の私では中庸は及ぶところではないので、ここでは述べない」
#三行詩
○土曜日の夕方、自宅
「戦争と民族対立、経済恐慌、救世主を望む声が全体主義を生み出した」
「全体主義(権威主義)は、ポピュリズムに走る、そして、国家の敵を創造するのだ」
「民主主義の崩壊、独裁者の誕生、人権は軽んじられ弾圧が始まる」
#三行詩 #ハンナ・アーレント
「(民主主義)社会を自律する意思を抱いた市民を増やさねばならない」
「現実を正しく認識し、批判的思考を抱ける市民を増やさなければならない」
「世界中に全体主義の兆候が現れている、論語・孟子を学ばねばならない、人一人が自ら(主体性)を抱かねばならない」
#三行詩
■つれづれ
何故、哲学者ハンナ・アーレントを読もうと思ったのだろうか。
色々あるが、儒学を学び三年、物ごとを純粋に視れるようになったかも知れない。
他国の独裁者や独裁国家を伝えるメディアを知り、自国は違う、安心だ、と思う一方で、
孔夫子の教えを『物差し』に自らの過去を振り返ると、全体主義への嫌悪感や、独裁者への反感が刷り込まれていることに気付く。
これはこれで悪いことではない。
しかし、ハンナ・アーレントを学んだことは一度もない。普通の小中高生活を過ごしただけだ。
つまり、この国の普通の教育を受けて、普通の環境で育った周囲は、アーレントの影響を受けた人たちの生み出す世界だったということだ。
印象深いのが、手塚治虫さんの『火の鳥』『ブラックジャック』、『アドルフに告ぐ』だろうか、
独裁者とは、社会の敵であり、全体主義の恐怖は心の底に染み付いている。
今回、全体主義を少しかじった。
興味深い。人間の行動学、分析であることは儒学と変わらない。
深入りして、アーレントの自著に進むのかは分からない。
自分の中で、考えを熟成させねばならない。
自分の中の孔夫子の教えと、どう反応するのか分からないが、学問の道を歩むに良い方向であることは明らかだと思う。