○日曜日の朝、5月28日、ウオーキング
「子路曰く、桓公、公子糾を殺す。召忽これに死し、管仲は死せず。曰く、未だ仁ならざるか。子曰く、桓公、諸侯を九合して、兵車を以てせざるは、管仲の力なり。その仁に如かんや、その仁に如かんや。憲問十七」
「子路がいう、斉の桓公が政敵である兄の公子糾殺した時、公子糾の側近である大夫の召忽は殉死を選びましたが、同じ公子糾の側近であった管仲は殉死せず、さらに桓公に仕えました。これは仁徳から外れるのはないですか。孔夫子はいわれた、その後、桓公は諸侯を九度集めて会合を開き、天下の覇者となった。しかも兵力の数や戦争を用いて諸侯を強迫し、諸侯を従えたのではなかったのだ。これは管仲の政のお陰である。戦乱を防いだのだ、この仁徳に及ぶものがあろうか」
「のちの系統化された儒学的には、主君に殉ぜず、あろうことか敵に仕えた管仲と、彼を用いた桓公は仁徳に欠ける。しかし、儒学の始祖である孔夫子は、『その仁に如かんや』と二度も答える。孔夫子はあくまで現実主義者であり、戦乱のない世の中を心から望まれた。論理倒れの学者頭ではいけない」
#三行詩 #論語
○日曜日の朝、森
「モーツァルト、魔笛を聴きながら森を歩いている、涼しい朝が快適だ」
「アトピーで剥けた肌は中々再生しない、そろり、そろりと歩いている」
「発作から二日目、ようやく頭の中で思考が戻る、今日は本でも読もう」
#三行詩
○日曜日の朝、マクド
「久方ぶりのマクド、コーヒーを飲みながらゆっくりと本を読んでいる」
「吉川幸次郎先生の論語は常にアカデミックな香りがする、大学の教室で椅子に座り、窓からの風が睡魔を誘うような感覚」
「最近、荻生徂徠集を読んでいるせいか、吉川先生の徂徠論が面白い」
#三行詩
○日曜日の夜、自宅
「荻生徂徠先生の弁名を読んでいる、感動している」
「志すところが自らを全うすることのみで民の安泰を願わない、どんな高い地位にいようが小人という」
「儒家とはこうあるべきだ、目的の(民を救う)為に実践してこその仁徳、忠恕ではないか」
#三行詩
○日曜日の夜、自宅
「荀子も読んでいる、考えている、学問の道は広がるばかり、楽しい」
「現在の唯一の贅沢、趣味なので、書籍代が数千円なら取り敢えず買う」
#三行詩
日本思想大系〈36〉荻生徂徠
○日曜日の夜、自宅
「前職、ボーナスが出た日には、会長・若社長に直接お礼を伝える暗黙のルールあり」
「ある年、仕事が忙しく行きそびれた部下が数人…」
「翌朝、若社長に呼び出され、君の部の誰それと…はお礼に来ない、会社への忠誠と感謝をどう教えているのか、と叱責、ブラックだ」
#三行詩
○月曜日の朝、通勤
「公叔文子の臣、大夫撰、文子と与に同じく諸を公に升す。子、これを聞きて曰く、以て文と為すべし。憲問十九」
「衞の大夫である公叔文子 は、自分の家臣である僎を、仁徳と能力に優れている為に、自分と同格の大夫として君主に推薦した。孔夫子はこれを聴いて公叔文とは文という諡にふさわしい人物だ、といわれた」
「公叔文子は、国の為に、民の為に優秀な人材が必要であると心底から思い、自ら家に仕える陪臣でも、その仁徳、能力が高ければ、自分と同格として国の政に参加させた。その公正無私の志に孔夫子も感動されている」
#三行詩 #論語
○月曜日の朝、乗り換え
「論語一周目は年内には終わる、二週目は白文からの意訳に挑戦する」
「学問とは積み重ねだ、浅く広く四書→五経→宋明学→古学(今ここ)」
「孟子と論語は深く挑戦中、学問とは積み重ねが必要だ、いきなり古学とか、陽明学とかは天才の御業だろう」
#三行詩
○月曜日の夕方、通勤
「子、衛の霊公の無道を言う。康子曰く、それ是くの如くんば、奚ぞ喪びざる。孔子曰く、仲叔圉は賓客を治め、祝鴕は宗廟を治め、王孫賈は軍旅を治む。それ是くの如くんば、奚ぞ喪びん。憲問二十」
「孔夫子が衛の霊公の無道ぶりをいわれた。 魯の国の大夫である季康子が問う、仁徳のない君主なのに衛が滅びないのは何故ですか。孔夫子はいわれた、仲叔圉が外交を、祝鴕が宗廟の祭祀を、王孫賈が軍事を担当しているからです。彼らの様な優秀な家臣が国を守っていて、どうして国が滅びましょうか」
「国に賢臣がいて、正しく用いれば君主が無能でも国は滅びない。衞の君主霊公の無道とは、夫人である南子を溺愛し、南子の愛人だった宋朝を重臣として用いたこと」
#三行詩 #論語
○月曜日の夕方、乗り換え
「この蒸し暑い中でも半数はマスクをしている、外国人をよく見るが誰もしていない」
「こういう時には水分補給制限をかけねば、アトピー肌は内部からジュクジュクと崩壊する」
「アトピーにマスクは地獄だ、赤黒まだら顔だが、隠すよりマスクからの解放を選ぶ」
#三行詩
○月曜日の夜、自宅
「はっきりいう、グルダのベートーヴェン・ピアノソナタ集は、私には合わなかった」
「しかし、このモーツァルトは絶品だ、アバド・ウイーンフィルも非常に良い」
「若い頃、ボーナスでグルダのベートーヴェンピアノソナタ全集を買うも、心に響かない、以来苦手なピアニストであったが…見識を改めようと思う」
#三行詩
グルダMozart: ピアノ協奏曲 第25番 ハ長調 K.503 - 第1楽章: Allegro Maestoso
「亡父は晩年バロック音楽にハマり、お風呂でも大音量で聴いていた」
「バロックは私も基本形だが最近思う、中二の頃、レコードで最初にハマったのは父のモーツァルト全集だ」
「なんとか生きて晩年に近付く一方の我が身を省みる、モーツァルトを聴いていると幸せらしい、そういうことだ」
#三行詩
○火曜日の朝、通勤
「子曰く、その言にこれ作じざるときは、則ちそれこれを為すに難し。憲問二十一」
「孔夫子はいわれた、大言壮語などは恥とすべきだ、言葉は少なく、ただ実践すれば良い、それだけだ」
「大言壮語、口だけの軽薄な態度を孔夫子は戒められた、言葉とは重いものだ」
#三行詩 #論語
○火曜日の朝、電車内
「先週のつまらないことの詫びをする、頭を下げて寸志を渡す」
「少し、すっきりした、儒学を学んでいるのだ、斯くあるべきだ」
「自らの誤りは正す、急いでいるからでは、何の為の学問か」
#三行詩
○火曜日の朝、乗り換え
「礼(人を尊ぶ)あってこそ義(自らの悪を憎む)でなければ仁徳とは遠い」
「礼(規範)とは、人が人である証であり、内面から発せねばならない」
「論理的思考に基づいて今日も過ごそう、言葉は慎み深く、実践を第一とする」
#三行詩
○火曜日の夕方、通勤
「陳成子、簡公を弑す。孔子、沐浴して朝し、哀公に告げて曰く、陳恒、その君を弑す。請う、これを討たん。公曰く、夫の三子に告げよ。孔子曰く、吾大夫の後に従えるを以て、敢えて告げずんばあらざるなり。君曰く、夫の三子者に告げよと。三子に之きて告ぐ。可かず。孔子曰く、吾大夫の後に従えるを以て、敢えて告げずんばあらざるなり。憲問二十二」
「前481年、斉の大夫である陳成子が君主である簡公を謀反で滅ぼす。それを聞いた孔夫子、沐浴して身を清め、魯の哀公に参内して申し上げる。斉の大夫である陳恒が君主を滅ぼしました。大義に基づいて征伐されますように。哀公はいう、家老の孟孫・叔孫・季孫の三人に申すがよい。孔夫子、退いてのちいわれた、大夫の末席にいたものとして、大義について申し上げずにはいられなかったが、主君は、あの三家老に申せといわれるのみであった。孔夫子は、のちに三家老を訪ね、陳恒の討伐について伝えるも聞き入られることはなかった。」
「孔夫子はいわれた、大夫の末席にいたものとして、大義について申し上げずにはおられなかったのだ」
#三行詩 #論語
○火曜日の夕方、電車内
「正義ではない、大義とは人として守る道であり、臣民として守らねばならないことだ」
「儒家として大義を言葉に出すのは、よほどのことだ、天下国家に関わることだ」
「昨今の政治家は何かといえば大義、大義という、私利私欲は大義とはいわない、言葉が軽すぎる」
#三行詩
○水曜日の朝、通勤
「子路、君に事えんことを問う。子曰く、欺くこと勿かれ。而うしてこれを犯せ。憲問二十三」
「子路、君主に仕えることを問う。孔夫子はいわれた、君主を欺いてはいけない。一方、君主が道義に反するのであれば、正しい道を説かねばならない」
「礼に反することとは、道に背くことであり、君主であろうが許してはいけない。一方、仕える方も、当然ながら礼に則らねばばらない。表層をもっともらしく繕うのは礼ではない。何ごとも真心込めて、本体、目的を尊ぶことこそ礼の本質であり、世の中の規律、世の中を世の中足らしめているのが礼である」
#三行詩 #論語
○水曜日の朝、乗り換え
「この国は礼の国だ、礼が生きている国はそうはない」
「ただ、礼の本来の意味するところの理解が薄くなり、他国と同じように形式が礼となりつつある」
「荀子を学ぶと、ものごとの本質を知ることが出来る」
#三行詩
「儒学とは礼の本質、本体を学ぶ学問であり、本体とは、突き詰めれば古の堯帝舜帝にいたる」
「学問とはリアルでなければならない、目に見え行えてこその仁徳、忠恕だ」
「論語はただ読まない、自分はどう考えどう実践するのか、本体、目的は何か、人は学問により必ず変われる」
#三行詩
「孟子は、儒学とはこうあるべきだ、儒家とはこうでなければならない、思い、理想が詰まっている」
「荀子は、仁徳と忠恕をどう実践するのか、形作ることを第一とし礼に求めた」
「真心を込めて、尊ぶのだ、5W1Hで具体的に、古き礼に込められた思いを汲み、新しき礼を以て規律を社会に行き渡らせる」
#三行詩
○水曜日の朝、一休み
「動作一つにも礼があり、その意味することに対して、真心と、本体、目的に対する尊ぶ心がある」
「過ぎるも横柄、足らずも萎縮、仁徳の礼、義、智、信とは中庸でなければならない」
「諸子百家の思想を中庸にて総括した荀子とは、見事なまでに孔夫子の弟子といえる」
#三行詩
○水曜日の夕方、通勤
「子曰く、君子は上達し、小人は下達す。憲問二十三」
「孔夫子はいわれた、君子はますます仁徳に富み、小人はどんどん下品になってくるものだ」
「学問に勤しめば、人は善き方向へと変化するが、目的もなくただ私利私欲のままに生きれば、世俗的な享楽にのめり込む一方となる」
#三行詩 #論語
○水曜日の夕方、乗り換え
「良いとこ取りをして、一冊で、数時間で、何かを身につけれる人など世界に何人いるのだろう」
「自己啓発自体は悪いことではない、楽して結果を求めず、コツコツと同じことを繰り返す、他人に頼らない」
#三行詩
○木曜日の朝、通勤
「子曰く、古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす。憲問二十五」
「孔夫子はいわれた、昔に学ぶ者は、己の仁徳の向上の為であったが、今に学ぶ者は、他人に認められたい、地位や名誉を得たい為だな」
「目的は仁徳と忠恕を世の中に広げることにあり、地位や名声、財産は後から付いてくるものに過ぎない、私利私欲は人であれば皆願うものであるが、真心や誠とは遠く、結局は弱者が虐げられ、戦争が正当化される世の中が続くことになる」
#三行詩 #論語
○木曜日の朝、乗り換え
「仁徳を広げるとは、弱者が虐げられない世の中を実現することであり」
「自由と平等、友愛で満たされた社会にすることにある」
「道徳的であるとは父母から受けた慈愛を広げることにあり、孔夫子の教えとは、ここ以外にはない」
#三行詩
「ここまで書くと、もはや宗教的な匂いすら感じる」
「しかし、儒学とは実学だ、論語を学び実践することにより、いつかは至るのだ」
「孔夫子の教えの眼目はここにあり、ここがない儒学の言葉とは、空恐ろしくもあり、くだらなくもある」
#三行詩
○木曜日の朝、一休み
「血圧178/106、意味が理解らない、朝からクラクラしている」
「電車は座る、対面でヤンキーサラリーマンあり、脚を大きく組み、周囲をにらみ恫喝している、薄笑い」
「クラクラしてどうでも良い、ふと、哀れな奴だし、この人はこのまま生きるのだろうな、と思う」
#三行詩
○木曜日の夕方、通勤
「遽伯玉、人を孔子に使いせしむ。孔子これに坐を与えて問いて曰く、夫子は何をか為す。対えて曰く、夫子はその過ちを寡なくせんと欲すれども未だ能わざるなり。使者出ず。子曰く、使いなるかな、使いなるかな。憲問二十六」
「衛の大夫である蘧伯玉、孔夫子に使者を遣わす。孔夫子、使者を招き入れて問われた、蘧先生は如何がお過ごしですか。使者はいう、蘧先生は常に過ちを少なくと願われていますが、未だそうならないと、いっています。」
「使者が退席してのち、孔夫子はいわれた、立派な使者であるし、その使者を遣わした蘧先生は立派な人物に違いないな」
#三行詩 #論語
○木曜日の夕方、乗り換え
「疲れが溜まり過ぎると、レトロゲームの世界に没入したくなる時がある」
「火の鳥鳳凰編、エスパードリーム、新・鬼ヶ島、忍者じゃじゃ丸くんetc‥」
「瞬き一つせず、ドットの彼方に救世と安らぎを求めて暫し旅立つのだ」
#三行詩
○木曜日の夜、自宅
「孟子は人とは性善である、故に思うことにより善に至ると」
「荀子は人とは性悪である、故に学び続けることにより善に至ると」
「孔夫子はただ、忠恕たれと述べられた、自らを誠にし人を思いやる、そしてこの仁徳とは中庸に至ると」
#三行詩
○金曜日の朝、通勤
「子曰く、その位に在らざれば、其の政を謀らず。憲問二十七」
「孔夫子はいわれた、自らの本分とすることを行う、余計な口出しはしない」
「暴君・暗君に正しいことを述べても害を被るのみ、黙るか逃げ出すこと」
#三行詩 #論語
○金曜日の朝、電車内
「台風の影響か、大雨で電車が止まる夢をみて度々目覚めたが、電車は止まらず、寝不足」
「眠たさと、高い血圧と、他人の臭いの不快感、雨の電車内は好きではない」
「恐らくは不愉快な顔をしている、君子を目指す身なので口角を上げる、クリント・イーストウッド風の雨の通勤」
#三行詩
○金曜日の朝、乗り換え
「子は林間学校、小学校の時も必ず雨、そして何故かキレる妻」
「小学低学年の頃、祈れば雨が止むと信じていた子、祈り過ぎたらしい」
「予報によれば、子が家に帰ってくるに従い、雨雲もこちらに向ってくる」
#三行詩
○金曜日の午後、通勤
「曾子曰く、君子は思うことその位を出でず。今朝問二十八」
「曾子はいう、君子とは仁徳に基づき思う、行う。能力の有無に関わらず、その立場において仁徳を行う」
「君子とは能力を問わない、秀でれば朝廷にて政を、秀で無ければ郷里にて周囲に仁を広げる」
#三行詩 #論語
○金曜日の午後、乗り換え
「大雨でいつ電車(JR)が止まるのか、博打は嫌いなので昼から帰る」
「本数も少なく、既に電車は超満員で各駅は乗れない乗客で溢れていた」
「よく止まるJRはホームも人でごった返しているが、めったに止まらない私鉄は平常通り、疲れた」
#三行詩
○土曜日の夕方、ウオーキング
「流行の夏歌を聴きながら森を歩いている、日中は寝ていた」
「あちこちに、昨日降った大雨の影響が残っている」
「長靴が冠水したのは初めてだ、じゃぶじゃぶ音を立てながら帰宅した」
#三行詩
○土曜日の夜、自宅
「人の性の善悪とは、儒家からすれば枝葉であり、一生学び続ける為の理屈に過ぎないと荻生徂徠先生はいう」
「荀子と同時期に荻生徂徠集を読んでいるせいか、主張に共通点を感じる」
「ここで、じゃあ孟子は、いや、朱子学ではと考えだすといけない、論語ではどうかと考えるべきだ、学問とは誘惑が多い」
#三行詩
「論語を学ぶ、自身の学問の中で論語を根本とする、ここから孟子へ、荀子へ、朱子へいくのは良い」
「自身の論語の根本や幹が細いのに、枝葉の孟子、二程子、朱熹を主に学ぶ危うさが理解出来る」
「一方、荀子は異端とされているが、堂々と根本論を唱えている、孔夫子の教えからすれ、正統派、本流だろう」
#三行詩
所感)
■学問の道
通勤時間にTwitterにて、論語の書き下し文を朝・夕、意訳している。
この、孔夫子の教えを学べる時間が苦しくも楽しくて仕方がない。
論語を学ぶとは、突き詰めれば鏡面に向き合う自分との対話であり、学ぶとは自らを磨くことであるらしい。
微々たるものながらも、学問が一つ進んでいる。
■土曜日の夜
自らどう思う、考えるかが孔夫子の教えであり、過去に煌めく儒家の天才たちに阿るようではいけない。
不遜であろうが、自身の論語を骨太にしてのち、過去の兄弟子たちの意見を参考にするように学ぶべきだ。
学問の道とは、論語を自ら考え、実践することに他ならない。