四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

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三行詩 第百九章(八佾第三②)

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○日曜日の午前、10月15日、自宅

 

定公問、君使臣、臣事君、如之何、孔子対曰、君使臣以礼、臣事君以忠。八佾十九

 

魯の君主であり襄公の子である定公が問う、君主が臣下を使う、臣下が君主に仕えるに大切なことは何か。孔夫子はいわれた、君主が臣下を使う場合は何ごとも礼(規律・規範)を以て行い、臣下が君主に仕える場合は何ごとも忠(誠の心)を以て行うことです。

 

「組織とは、規律・規範があってこそ上手く回る。トップが率先して規範を示し、公正無私の仁徳を国全体へ広げるからこそ臣下は忠(誠の心)で仕えることが出来る。故に、私利私欲の小人がトップとなり無償の貢献を社員に強制するブラック企業に君臣の義は存在しない」

 

#論語

 

○月曜日の朝、通勤

 

子曰、關雎樂而不淫、哀而不傷。八佾二十

 

孔夫子はいわれた、詩経にある關雎の詩は、楽しみにも悲しみにも過ぎていない、中庸を得たものだな。

 

「關雎一章『関関たる雎鳩は、河の洲に在り。窈窕たる淑女は、君子の好逑』からは、穏やかで睦まじい有り様が伝わってくる」

 

#論語

 

○月曜日の朝、一休み

 

「昨日は午後から子と狩りへ、リオレイア亜種イベントとか」

 

PSPモンハン2G世代か、同年代の人たちと森をぞろぞろ歩く、若い人が少ない」

 

「結果、子は龍属性の弓を作れて喜ぶ、父は鱗があと1足らずで終わる」

 

#三行詩 #モンハンNOW   

 

○月曜日の夕方、通勤

 

哀公問社於宰我宰我対曰、夏后氏以松、殷人以柏、周人以栗、曰使民戦栗也、子聞之曰、成事不説、遂事不説、既徃不咎。八佾二十一

 

魯の哀公、宰我に土地の社に植える神木について問う。宰我はいう、夏王朝では松を植え、殷王朝では柏(イトスギ)を植えましたが、周王朝では栗を植えることになっています。これは社で行われる刑罰によって民を戦慄(栗)させるためです。これを聞いた孔夫子はいわれた、起きた事は語るまい、遂げられた事は止めまい、過去の過ちは咎めまい。

 

「解釈が二つ、A)君主に余計なこと(民を戦慄させる)をいう宰我に孔夫子は失望した。B)魯の君主を蔑ろにする三家老を木に例えて刑罰を与える(追放する)べきと暗に述べた宰我に、孔夫子は現状を省みない安易な言葉に失望した。私はAではないかと思う」

 

#論語

 

○火曜日の朝、通勤

 

子曰、管仲之器小哉、或曰、管仲倹乎、曰、管氏有三帰、官事不摂、焉得倹乎、曰、然則管仲知礼乎、曰、邦君樹塞門、管氏亦樹塞門、邦君為両君之好、有反貼、管氏亦有反貼、管氏而知礼、孰不知礼。八佾二十二

 

孔夫子はいわれた、管仲とは小さいな。或る人が問う、管仲は倹約家ですか。孔夫子はいわれた、管仲には三つの邸宅があり、仕事も多くの役人を雇って専任させた。倹約といえようか。或る人が問う、管仲は、礼を知っていましたか。孔夫子はいわれた、君主は目隠しの塀を立てて門の正面をふさくのが礼ですが、管仲もそうしています。また、君主は献酬の盃を置く特別な台を設けますが、管仲もそうしています。管仲が礼を知っているようなことはありません。

 

「臣下の立場でありながら君主のように振る舞う、礼とは遠い」

 

論語

 

○火曜日の夕方、通勤

 

子語魯大師楽曰、楽其可知已、始作翕如也、従之純如也、激如也、繹如也、以成。八佾二十三

 

孔夫子、魯の楽団長にいわれた、音楽とはこうあるべきです。鐘が盛大に鳴り響き、その鐘の音の後に管弦楽器の合奏が静かに流れ、次に管弦楽器が独奏する、最後は全ての音が余韻を残しながら終わります。

 

「文章からは、グスタフ・マーラー交響曲9番のように感じるも、気のせいだろう」

 

論語

 

○水曜日の朝、通勤

 

儀封人請見、曰、君子之至於斯也、吾未嘗不得見也、従者見之、出曰、二三子何患者於喪乎、天下之無道也久矣、天将以夫子為木鐸。八佾二十四

 

孔夫子が衛を去る際、国境の儀に泊まった時のこと。関守の役人がお会いしたいと申し出た。役人はいう、名士がここを通られるとき、私はいつもお会いしているのです。お供の門人が孔夫子のお部屋に通した。孔夫子のお話しの後、役人はいう、皆さん、孔夫子が志を得ずしてこの国を去られるとて何も悲観することはありまん。今や道は地に落ち、天下は乱ること久しい有り様です。故に天は孔夫子を一国にとどめず、四方を周遊させて、教えを振興する木鐸たらしめようとされたのです。

 

「これも道なのだろうか」

 

論語

 

○水曜日の夕方、通勤

 

子謂韶、尽美矣、又尽善也、謂武、尽美矣、未尽善也。八佾二十五

 

孔夫子はいわれた、舜帝の音楽「韶」は美を尽くし善を尽している。一方、周の武王の音楽「武」は美を尽しているが善を尽してはいない。

 

舜帝は帝位を尭帝から譲られたが、周の武王は殷の紂王を放伐して帝位を得たので「武」は『善を尽くしていない』と孔夫子はいわれたのだ。もしくは純粋に音楽として「韶」は優れ、「武」は足らずであったかも知れない。少なくとも孔夫子は一流のミュージシャンであり指揮者でもあったに違いない」

 

○木曜日の朝、通勤

 

子曰、居上不寛、為礼不敬、臨喪不哀、吾何以観之哉。八佾二十六

 

孔夫子はいわれた、地位が高くありながら寛容ではなく、礼に尊ぶ心がなく、葬式でも哀しむことがない。どうしようもない人間といえる。

 

「高い地位にありながら私利私欲にしか興味がない。ノブリス・オブリージュ無き君主や家老とは、当人にとっても不幸であるし、彼ら彼女らの支配を受ける民も不幸になる。人の幸せとは私利私欲を満たす以外にもあると思う」

 

#論語

 

○木曜日の夕方、通勤

 

子曰、里仁為美、択不処仁、焉得知。里仁一

 

孔夫子はいわれた、日々、仁徳(自らを誠にして人を思いやる)の行いを実践する、美しいことだ。一方、仁徳は何かと迷い実践しない、知者とはほど遠いな。

 

「仁徳の行いとは、日々、日常生活の中にあり、万人が実践出来ることだ。私利私欲から離れ、人を思いやれば出来ることは必ずある」

 

#論語

 

○金曜日の朝、通勤

 

子曰、不仁者不可以久処約、不可以長処楽、仁者安仁、知者利仁。里仁二

 

孔夫子はいわれた、私利私欲に走る不仁の人は貧乏な時も、金持ちの時もそれぞれの苦しみに喘いでいる。一方、仁徳の人は環境がどう変わろうが仁徳に安んじて道を楽しみ、知の人はそれを知り安んじる。

 

「仁徳とは、つまるところ自らを誠にして人を思いやることに尽きる。私利私欲を楽しむのではなく、君子であれば民の楽しみを我が楽しみとし、仁者であれば自らの徳を周囲へ広げ、善いことを好む人を増やすことを楽しむ」

 

論語

 

○金曜日の夕方、通勤

 

子曰、唯仁者能好人、能悪人。里仁三

 

孔夫子はいわれた、私利私欲から離れた仁の人だからこそ、善人が判り、悪人も判るのだ。

 

「故に、仁の人とは天(中庸)を実践し、君子は天(汎神論、又は至善)を体現出来得るのだと思う」

 

#論語

 

○土曜日の朝、通勤

 

子曰、苟志於仁矣、無悪也。里仁四

 

孔夫子はいわれた、自らを誠にして人を思いやる、実践する人が、どうして人に憎まれようか。

 

「根本には父母から受けた愛情があり、幹には礼と義がある。故に自らを誠に出来るし人を思いやることが出来る」

 

#論語

 

所感)

Twitter(X)

どうも有料化へ向けて進んでいるようだ。

と、同時にTwitterそのものに冷めつつある自分がいる。

tweetも減っている。

ブログ(論語の意訳)は続けるが、他のSNSへ移るか、SNSをやめる潮どきかも知れない。