四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

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孟子 禹・稷は平世に当りて

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書き下し文)

禹・稷は平世に当りて、

三たび其の門を過ぐれども入らず。

孔子之を賢とせり。

顔子は乱世に当りて、陋巷に居り、一箪の食、一瓢の飲、人は其の憂いに堪えざるも顔子は其の楽を改めず。孔子之を賢とせり。

孟子曰く、

禹・稷・顔回は道を同じくす。

禹は天下に溺るる者あれば、由己之を溺らすがごとく思い、

稷は天下に飢うる者あれば、由己之を飢えしむるがごとく思えり。

是の以に是の如く其れ急なりしなり。

兎・稷・顔子は地を易うれば、則ち皆然らん。

今同室の人闘う者あれば、之を救うに被髪纏冠して之を救うと雖も可なり。

郷鄰に闘う者あるときは、被髪懇冠して往きて之を救わば、則ち惑なり。

戸を閉ざすと雖も可なり。

孟子 離婁章句

 

意訳)

堯・舜の世の頃、禹は治水、稷は農事のため三度家の前を通るとも、門を跨ぐことはなかった。

孔子は之を賢とされた。

顔回は戦国の乱世、薄汚い路地裏で日に一椀の飯と一瓢の水で暮し、人には堪えれぬ生活を送るも、これもまた道として楽しみとした。

孔子は之を賢とされた。

孟子はいわれた、

禹、稷、顔回の行いは違えど、歩む道は均しい。

禹は、天下に溺れる者が一人でもあれば、己の責として治水に取り組み、

稷は、天下に飢える者が一人でもあれば、己の責として農事に取り組む。

故に、天下を巡り、天下の民の為にその一身を尽くした。

禹、稷、顔回、いずれも、

もし、お互いの立場を替えたとしても、同じく天下に一身を尽くすことに違いはない。

例えれば、

もし、家の中で、互いに武器を持ち闘う者が出れば、取るものも取らず大急ぎでこれを止める。

しかし、

もし、街の中で、互いに武器を持ち闘う者たちが出ても、取るものも取らず大急ぎでこれを止めるは、惑いである。

そのような時は、家の戸を固く閉めて、大人しく引っ込むに限る。

 

所感)

■責なき時は引っ込む

最後の、家の揉め事に、どうであれ、これを仲介するとは、禹、稷が、それぞれの天命の分野であれば、命を賭けてもそれを成すことを意味する。

また、街の揉め事に、どうであれ、これを仲介するを惑いとするとは、聖人とはいえ顔回の立場であればそのような責はなく、怪我などせぬ様に引っ込むのが正しいとする、現実的な教えでもある。

 

■私事

禹、稷が、人生の全てを賭けて、天下の治水、天下の農事に打ち込めたのも、トップ(社長)が伝説の堯・舜の世であったから。

ブラック企業で二十年働いたブログ主としては、禹、稷を羨ましく思う。

ただ、自身にも、堯・舜を目指す志しなく、

いちリーマンとして在籍を主とする旨は否定することかなわず、今となり、これも自身の不甲斐なさ、恥であったと気付く。

ただ年老いた今、我が身を振り返り思う。

亡くなった父、年老いた母、順調に世を生きる兄妹、長年連れ添う妻、健康に育つ我が子、ともに支え合う長年の友、

これも在り。

死ぬまで、あと幾日、生きるか知らないが、

仁の道を知る機会を得、自身の生を腑に落とす機を得たことに感謝する。

 

今日、一日の読書を学問として、努め励みたい。

#儒学 #孟子