書き下し文)
膝の文公間いて曰く、
膝は小国なり。斉・楚に間まれり。
斉に事えんか、楚に事えんか。
孟子対えて曰く、
此の 謀 は吾が能く及ぶ所に非ざるなり。
已むなくんば則ち一「法」あり。
斯の池を穿ち、斯の城を築き、民と与に之を守り、死を効(至)すとも民去らずんば則ち是れ可為らん。
孟子 梁恵王章句下
意訳)
膝の文公が問う。
膝は小国であり、斉と楚の二つの大国の間に挟まれている。
国を存続させる為に、斉と楚、どちらの大国に従属するべきであろうか。
孟子はいわれた。
斉と楚、どちらかの大国に従属するべきかとの問いに、孔子の門を学ぶ者として応えることはない。
ただ私が応えられることは一つのみ。
この城の堀を深くし、城壁を高くし、民と共に籠城し、命を落とされるがよい。
民が王を見捨てず、逃げることがなければ、道にかなうといってよい。
所感)
■人名
文公(在位紀元前327年 - ? )
中国、戦国時代の滕の君主。領地が五十里四方の小国故に、常に隣国の斉や楚に圧迫される。王子であった頃、楚に人質として赴く時に、宋の国で孟子と対面し、孟子の教えに感銘を受ける。
■儒学とは
大国に隷属、吸収されるくらいであれば、仁の政に徹し、万が一の時は、王を慕う民とともに死を覚悟して最後まで戦え、と説く。
一見、乱暴な言に聞こえるきらいはあるものの、見事なまでに物事の本質を捉えている。
小国が生き残るには、大国におもねることではない。
国の大小に関わらずに行える仁の政治を全うし、民と共に苦しみ、民と共に楽しむ王のもと、一国をかけて戦う。
このような王と民が一つの国を、攻めやすしと攻める国が何処にあろうか。
文公は、後に孟子の井田法を採用し、後世の儒家の評価を得たという。
儒学とは、仁とは、あらゆる戦争を認めない、人を人が殺すことを認めない。
故に、死を決意し最期まで戦うのだ。
仁とは夢・幻ではなく、現実的な行動を伴う規範でもある。
■伊藤仁斎先生
最近、孟子以外に伊藤仁斎先生の論語古義、語孟字義、童子問を読むことが多い。
そして、論語を真に理解する為には、まず孟子を深く理解せよ、と説く。
機会あれば、仁斎先生のお人柄や言葉を述べていきたい。
今日、一日の読書を学問として、努め励みたい。