四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

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孟子 取るか取らないか

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孟子曰く、以て取る可く、以て取る無かる可し。取れば廉を傷つく。以て與う可く、以て與うる無かる可し。與うれば惠を傷つく。以て死す可く、以て死する無かる可し。死すれば勇を傷つく。

孟子 離婁章句

 

意訳)

孟子がいわれた。

取るか、取らないか、その場で、どちらでも良い場合は、取らないこと。

どうであれ、取るということは、一点の曇りもなき、自らの、正しいことを行おうという清廉の徳を、汚すことになる。

与えるか、与えないか、その場で、どちらでも良い場合は、与えないこと。

どうであれ、与えなくても良いのに、たいした理由もなく与えるということは、本来の、人に情けをかけ、人を救うという、尊い行いである恩恵の徳を、自ら汚すことなる。

死ぬか、死なないか、その場で、どちらでも良い場合は、死なないこと。

自己満足の意味のない死とは、後先の考えもなく、向こう見ず、自分勝手な、荒々しいだけの勇気であり、本来の、試練や困難な状況に、決して挫けず、最後まで立ち向かうべき勇気の徳を、自ら汚すことになる。

 

所感)

■仁を志すとは

この章は、清廉、恩恵、勇気の三つの徳に関して述べている。

清廉、恩恵に関しては、何事も良く考えずに行えば、何気ないことでも、自らの徳を汚すことにつながりかねない危険が潜んでいることと、

仁を志す身であれば、その行いに含まれる、本来の姿、意味、結果を良く考えて、行動しなければならないと述べられている。

 

■仁の積み重ね

仁とは、舞台や映画、ドラマが描く世界のような非日常の激しい戦いの中にあるだけではなく、

むしろ、生活にたびたび起こりうる事柄、平凡な日常の中にこそ、仁の積み重ねにつながる一歩一歩の行動、徳があると感じた。

 

■勇気の徳

最後の勇気の徳に関して、私が真っ先に思い浮かぶことは、日本近現代史での戦火の炎と、流された大量の血、亡くなられた人たちだ。

歴史を述べるには、私の力量、度量を遥かに越えており、中途半端なことは書けるものではない。

ただ、非日常、生き死ににおける、勇気の徳に関して、

今の世の中、様々な勇気が溢れかえり、仁とはかけ離れた、勇気が巷にあふれかえっている様に感じる。

本来の勇気の徳とは、上述しているように、

試練や困難な状況に、決して挫けず、最後まで立ち向かう勇気のことだ。

残念ながら、現代は、論理的思考を欠いた、感情的な勇気が、マスコミやメディア、映画、漫画でもてはやされている様に感じる。

勇気の徳、とは、特に、生死を賭けた勇気の徳とは、そんな安っぽいものでは決してない。

 

儒学の姿

日本近現代史は、凄まじいものだ。

非日常の生き死にの勇気が、日常で求められた時代を経て、

振り返れば、現代の私たちは、過去の先人に恥ない日本人、なのであろうか。

過去に学ばれていた儒学教育は、戦後終焉をむかえた。

日本人の持っていた、徳の意識は昨今、どうであろうか。

人として、倫理観として、中心になるものが、どんどん安っぽくなっているのではないか。

 

■これからの儒学

現代の日本人こそ、一人、一人、儒学を、仁の徳を、もう一度見直さなければならないのではないか。

同時に、戦前、戦中に利用され、戦後により、多くの人が抱く、歪んだ儒学のイメージの刷新が必要だ。

儒学とは五世紀に日本に伝来して以来、千五百年に渡り、日本人が親しみ、培い、常に学んできたものだ。

凝り固まった、古びた古典などでは決してない。

普遍性を備えた、人の指針となるべきものの一つだ。

 

■道徳教育の浸透

一方、世界では、現在進行系で戦争、犯罪、民族虐殺が行われている。

世界では、生き死にの勇気、が依然として日常の国が多くある。

民族がそれぞれ持っていた徳は潰え、憎悪と欲望と弱肉強食の世界が広がりつつある。

もし、たら、れば、が許されるのであれば、

東洋思想圏であれば、正しい儒学、仁の徳が、政府、国民の間に満たされていれば、

世界であれば、民族に昔からある宗教、道徳の精神がそれぞれの政府、国民に満たされていれば、

孔子孟子の唱える仁や、宗教、道徳の世界観を持つ人たちが、それぞれの国の中に多数いれば、悲惨な出来事が減ったであろう。

道徳教育の浸透により、いや、道徳教育こそ、今、世界中で行われなけれならないことではないか。

 

生き死にの勇気、ではなく、武器など要らない勇気、で充分な世界になれるように願ってやまない。

#儒学 #孟子