○日曜日の朝、4月30日、自宅
「衛の公子荊を謂わく、善く室を居く。始めて有るときは、苟か合うと曰い、少しく有るときは、苟か完しと曰い、富いに有るときは、苟か美しと曰えり。子路八」
「孔夫子、衛の公子荊についていわれた、家の内での遣り繰りが上手であった人だ。はじめて財産ができたときには、これでやっと足りる、いいと、少し財産が貯まってきたときには、これでようやく十分になった、という。そして大きな財産ができたときには、なんとかこれで良いだろう、といったらしい。」
「この句、三箇所に苟の字が使われている。苟の意味は①いやしくも。 ②かりそめ。まにあわせ。 ③まことに。ほんとうに、とある。財産を得ても過信することなく蓄財に努めることと、金持ちになったからといって慢心や増長があってはならないことを述べられている」
#三行詩 #論語
○日曜日の朝、自宅
「GWに入るも頭全体が帯状疱疹に、祝日で医者も開いていない」
「終日、頭をぶん殴られる感覚、用事で梅田へ行った以外は寝ていた」
「今朝も朝からイタタタタ、と冴えない、まあ、人生こんなものだろう」
#三行詩
○日曜日の午後、ウオーキング
「90年代ヘヴィ・メタル集を聴きながら森を歩いている」
「昨日買ったiPadPROで田舎のN推しの原神をする、スムーズに動く、流石はM2チップ」
「ゲーム自体はよく理解らない、CHESSのアプリを入れて、楽しむ」
#三行詩
「チェスプロブレムのアプリゲームをするくらいならPROは要らない気もする」
「第2世代のa1567 ipad air2を9年前に買った、10年持つなら安いものだ」
「昭和生まれの親父には明らかにオーバースペックらしい、絵を描く妻と子が狙っている」
#三行詩
○日曜日の午後、マクド
「孟子は離婁章句上六五、荀子は修身篇第二ノ一に省みることが述べらている」
「共に、省みてその原因を自分自身に求めていくことは変わらない」
「ただ荀子は、私に媚び諂う者は私を損なう賊であるとする、なんと荀子らしい弁だろうか」
#三行詩
「荀子とは、不善を激しく忌み嫌う、故に善行を勧める者は真の友とし、諂う者は賊として排斥する」
「省みることからここまで至る」
「こう書くと孟子が穏健派に思えるが、孟子、告子章句上一五十に、私は生命を捨てて義を守る者である、とある」
#三行詩
「さらに孟子、離婁章句下一一七にある、無理非道を強いてくる加害者がいる」
「こちらが仁礼誠を尽くしても、三度省みても相手は攻撃してくる」
「ならば彼らは鳥獣の類いなのだ、鳥獣に仁礼誠は通じない(であれば人に害を為す畜生として処すればよいのだ)」
#三行詩
「孟子とは荒ぶる儒学だ、同章句一二一では儒家の聖人である堯帝・舜帝をして、私たちと変わることなし、という」
「勿論、孟子も堯舜の世を理想としてる、そして現実的に成し得れることだとする」
「孟子は、宗教的、或いは形而上学的な哲学ではなく、実学としての儒学を主張する、決してぶれない」
#三行詩
「一方、荀子は対比論が多い、孟子ほど突き抜けることは少ない」
「小人と比較しての君子論、理想としての聖人を絡ませた王者論、国家論等々‥」
「AとはBであらねばならない、全ての章において、儒学的な在るべき姿を述べている、興味深い」
#三行詩
「孟子は天才、荀子は秀才といえば語弊があるが共に孔夫子の優秀な後継者には違いない」
「孟子から論語を読む、荀子から論語を読む、孟子と荀子を比較する、全てを含めてまた論語を学ぶ、楽しきかな」
#三行詩
○日曜日の夜、自宅、
坂本龍一の1919を聴き思う、
「正史を省みれば、儒家とは望まざるに関わらず屍の山を築いている」
「人が思う理想、あるべき姿とは、権力者の私利私欲と相容れない」
「仁と礼を尊び、義に生きても、権力を得ると人は変わる、敵は永遠に続く、闘争は人の根源としか」
#三行詩
「逆説的ながら儒学とは帝王学を説いている、過程を除けば、天下を治めるのはこのような王であるべきだ」
「繰り返し、堯・舜帝を理想とするも3200年前の中国、日本は縄文時代だ」
「故に、闘う者とは全てを理解してから、常に仁と礼、義を唄うのだ、人類とはこのようなシステムが組み込まれている」
#三行詩
「今更二元論に戻りたくはないが、一元論の神・宗教的なナニカとは人の領域を超えている気がする」
「また、ニーチェと格闘せなばならぬらしい、善悪の彼岸、道徳の系譜」
「前回は敗退した、今回も自信など皆無ながらもニーチェという山脈に挑まざるを得ない、GWだ、時間はある」
#三行詩
○日曜日の夜、自宅
「後片付けをしない中二病の子と口喧嘩に、子が母へいう、父壊れてるよ!」
「父、母を呼び、You Tubeで音楽を流しつつ向き合って二人でくるくる踊る、子…」
「いう、父母はとっくに壊れている、今更いうか、笑顔で我が子をみる、子…」
#三行詩
○日曜日の夜、自宅
「何だろうか、たまに同世代の友人たちとも溝を感じる」
「歴史があり、今を生きている、未来はあるらしい、らしいという仮定に不安を感じる、疑問形しか浮かばない」
「確固たる感触、手触りが欲しい、生とは何か、人とは何だ、死がもたらす先とは何か」
#三行詩
「屍の山の頂点に居る、或いは子々孫々受け継がれた生、その頂点に居る、ああ、ここも二元論か」
「結局は、絵画、哲学、音楽、思想、追い求めている結論は変わらない」
「だからこそ、一つの民族で語り継がれた歌とか、数百、千年を経て伝わる書に魅せられるのだろうか」
#三行詩
○月曜日の朝、自宅
「せっかくのGWだ、落ち着いて本でも読もうと、早朝からニーチェ、善悪の彼岸を読んでいる」
「この世界とは妄想であり、虚構である、なるほど」
「しかしまあニーチェの文章は比喩が多く、その比喩がドイツ的過ぎて理解する為に止まること度々」
#三行詩
○月曜日の午後、自宅
「子、衛に適く。冉有僕たり。子曰く、庶きかな。冉有曰く、既に庶し。また何をか加えん。曰く、これを富まさん。曰わく、既に富めり。また何をか加えん。曰わく、これを教えん。子路十」
「孔夫子が衛に亡命された時にいわれた、衛の都は人の数が多いようだな。御者の冉有が問う、人は多く思えます。あとはこの国に何を加えましょうか。孔夫子はいわれた、この国の人たち富裕にしよう。冉有がさらに問う、この国の人たちを富裕にした後は、何を加えますか。孔夫子はいわれた、教育だな」
「国が成長する為には、経済と教育が要であると孔夫子はいわれている」
#三行詩 #論語
○月曜日の午後、ウオーキング
「太ってしまう、ウオーキングへ、気温22度、風が止むと汗がにじむ」
「平日のせいか人は少ない、観光地は凄そうだ」
「9連休も3日目に、本を読んでは寝ている、ニーチェとは眠たいものだ」
#三行詩
○月曜日の午後、マクド
「善悪の彼岸、常に冷笑と悪口をドイツ風に展開、ニーチェ自身の言葉でいうなら、近代性の批判らしい」
「昼下りのマクドで読んでいる、妙にシュールだ」
「おのれの諸徳の主人公、意志の力に満ち溢れた存在でありうる者、足り得ぬ我が身故に、8時間で今回も挫折した」
#三行詩
○火曜日の朝、自宅
「子曰く、苟しくも我を用うる者有らば、期月のみにして可なり。三年にして成る有らん。子路十」
「孔夫子はいわれた、我に国の政を行わせれば、一年にて国中に善政を敷き、三年にて国中に仁徳が満ち渡るであろうに」
「衛の霊公は孔夫子を政に用いることはなかった、前句と比べると明らかに孔夫子はがっかりしている、自らが用いられないことではなく、衛の民を仁政により救うことが出来ないことを悔やまれている」
#三行詩 #論語
○火曜日の朝、自宅
「何をもって信条とするかが問題だ、肌の色や宗教、性別の違いに正しさを求める個人、又は集団の知性の低さには恐怖すら覚える」
「教育こそ人に必要な根本であり、温故知新、故に今は存在する」
「動物的感覚を思想と称する、考えることを止めた人たち、危険な時代だ」
#三行詩
「一方、哲学の難しいところは、実学ではない、儒学のように学び、実践することとは遠いことにある」
「目的が抽象的過ぎる、優秀な知性を言葉遊びといっても良い世界で終わらせている」
「哲学の求める物事の真理とは、実は思想の内ではなく行動にある、何処にでも在るものが真理であるべきだ」
#三行詩
「そして、何かを学ぶには、漫然と作業してはならない、本来の目的を理解し、目標を設定する、実学であるべきだ」
「実学の目的が金儲けしか浮かばない憐れな人たちだ、天下の民を救う為の実学が東洋にはある、孔夫子の教えだ」
#三行詩
○火曜日の午前、散髪屋さん
「実学の目的として、天下の民を救う、古い、もっと現代的なものがいい」
「なら普遍的な、人類が幸せになる為の実学、ならどうだろうか」
「結局は、仁と礼、義に行き着く、人とはこういう生き物だ、勿論、宗教的な回答を除けばだが」
#三行詩
「哲学は、人間の本質的なところ(例えば、父母からの慈しみ)に目を向けず、人の未来像に寄り過ぎている」
「過去に学ぶべきだ、人そのものに向き合うこと」
「ネオナチやKKK、差別主義者、現代の悪夢たちが夢見る脳筋思想にとどめを刺すに、現代の哲学者や思想家はしっかりと仕事をすべきだ」
#三行詩
「省みれば、儒学も世の中の流れを取り入れ推移している」
「現代中国では、既存する様々な思想・宗教を取り入れた新儒学が提唱されているらしい」
「別に儒学は儒学だ、戦場で用いられた柔術が、柔道、総合格闘技へ推移したのと変わらない、自らの信条にあうものを学び、実践すればよい」
#三行詩
「それでも儒家とは、同じ孔夫子の教えを学びながら、何故ああも同門以外の儒家を攻撃するのだろう」
「文言の解釈、一文字違いの争いに権力者をも巻き込み、死人の山を築いた」
「儒学が衰退した原因の一つは、他を認めない(同門でも)排他性にある、論語や孟子、荀子にこれらがあるのだろうか」
#三行詩
○火曜日の午後、自宅
「妻は仕事、子は学校、気楽な時間を過ごしている」
「晩飯はマッシュルームと大蒜のアヒージョ、二種のチーズとハム、フランスパンの予定、腕を振るおう」
「さて、部屋中の片付けにかかろう、子のテリトリーがゴミ屋敷と化している」
#三行詩
「音楽だ、アメリカン・ロックがいい、ガンガン鳴らす」
「ビール片手に穏やかな休日、さて、子の混沌と無秩序のスペースをどう整理・整頓すべきか」
「なんとなくオペラが聴きたくなる、ロッシーニが大好きだ、音楽を変える」
#三行詩
○火曜日の夜、自宅
「料理成功、美味しかった、妻と子も喜んでいる、次はお盆休みに料理しよう」
「今日は一日家事中心、掃除、洗濯、料理、頑張り過ぎて最後に頭痛、足の冷え、寝込む」
「山盛り大蒜とマッシュルームのアヒージョ、得意料理が一つ増えたらしい」
#三行詩
○水曜日の午前、自宅
「子曰く、善人邦を為むること百年ならば、亦以て残に勝ち、殺を去るべしと。誠なるかな、是の言や。子路十一」
「孔夫子はいわれた、古語にある、善人が百年、国の政を行えば、犯罪はなくなり死刑も要らなくなる、とは誠のことだな」
「有徳の君子による民への教育が為されれば、国は栄え、犯罪も減る。孔夫子は古語を用いながら、目指す徳治政治の有り様を端的に述べられた」
#三行詩 #論語
○水曜日の午後、自宅
「午前中は読書、自分の中で荀子という人が朧げに見えてきた」
「長身、痩せ型、アカデミックな雰囲気、研究肌、冷笑的、性格は良くない」
「勇気を説明するのに、犬と豚の勇気から定義をする、興味深い」
#三行詩
「因みに孟子は、中背中肉、燃える様な強い意志を秘めた瞳、太い眉」
「博愛主義、弁論に長けている、反骨精神、負けず嫌い、長髭(たぶん)」
「両者ともに腹が据わっている、信念を持ち、世の中を変えようとしている」
#三行詩
○水曜日の夜、自宅
「世界に生きているという認識、個としての生死、鏡面に浮かぶ問い」
「大海に浮かぶ木片、深海に沈む巨船、キャプテン骸骨が笑う」
「永遠の問いに答えよう、諸君、狂いたまへ、君が信じることが正しい」
#三行詩
「儒学の英才教育を受けた吉田松陰先生が行ったことへの批判はある」
「思う、小さな正義ではない、大義に生きるとは天命に生きることだ」
「孟子は正しい、荒ぶる儒学とは狂であり、虐げられる民を救う為にある」
#三行詩
「儒家には孟子に非好意的である人もいる、孔夫子の忠実な学徒足らんとする正当派だ」
「眩しく思う、資質に恵まれ、正しき道を歩む」
「世の中は変わる、ネットで世界は繋がり、AIが幅を利かせる時代だ、だからこそ人が、人足らんとする孟子の思想が求められる」
#三行詩
「二番目で良い、そもそも孔夫子の教えに順番があるとでも」
「仁と礼、義に基づき自ら思う、行うことが人の主である、儒家とはそうあるべきだ」
#三行詩
○木曜日の午前、お出掛け
「子曰く、如し王者有らば、必ず世にして後仁ならん。子路十二」
「孔夫子はいわれた、有徳の王者、世に出れば、天下は仁となる」
「孔夫子の存命中、終に聖君子は現れることはなかった、後世へ託されたのだ」
#三行詩 #論語
○木曜日の午前、梅田
「街をぶらついている、紀伊國屋書店、ロフト、丸善ジュンク堂」
「ずっとオペラ曲集を聴いている、今日はお付きとお金出す人なので気楽だ」
「子の言動が中二過ぎる、恥ずかしくなるが、こういう年頃だ」
#三行詩
「久方ぶりのジュンク堂、今は日本で一番らしい、妻子と別れて人文の5階へ」
「今日は購入予定はなし、じっくりと本を眺めている」
「若い頃、ネットもない時代、妻とのデートは大型書店巡りばかり、いつも閉店までいた」
#三行詩
「流石、丸善ジュンク堂、品揃えに唸る、一日中居ても退屈しないだろう」
「今日はお伴なので、次のところへ、昼めしだ、店は妻が選ぶ」
「穏やかなGWを楽しんでいる、基本的に大型書店しか行かないので、梅田はよく知らない」
#三行詩
○木曜日の午後、ランチ
「ヨドバシカメラの上のレストラン街へ、広くて驚く」
「替え玉無料とかで、お腹膨れた」
「食後はアイスコーヒーでも飲もう、子は人酔いしたらしい、元気がない」
#三行詩
○木曜日の午後、梅田
「カルデイで甘いお菓子を妻と子が買う、喫茶店が行列につき自販機でコーヒー」
「のち再び丸善ジュンク堂へ、妻も私も本があれば至福の時間だが、子が手持ち無沙汰に」
「夕方までいて軽く呑んで帰ろうと思ったが、帰ろう、家へ」
#三行詩
○木曜日の午後、電車内
「一つ気付く、丸善ジュンク堂梅田店の東洋思想コーナでも、荀子は明治書院のみ」
「荀子は世の中から忘れ去られている、私的には孟子とタメを張る儒学の雄だが、興味深い」
#三行詩
○木曜日の夜、自宅
「20cm鉄なべに白身魚切り身×2、エリンギカット、大蒜3房分、オリーブ油をたっぷりと塩胡椒を軽く振りオープンレンジで30分、最後に醤油を少量」
「美味しい、大好評!」
「葱ぶつ切り、舞茸、しめじ、大蒜3房、シーフードミックス、以下同じ、現在進行形、乞うご期待!」
#三行詩
「絶品との評価あり、父、一気に我が家のメインシェフへと昇格する」
「常に音楽あり、終日、アマプラミュージックのオペラ集を聴く、流す」
「ネタバレ、オープンレンジ用の鉄鍋20cmに、オリーブ油と具材を入れアルミホイルで包み焼くだけ、最後にアルミを取り、焼いて焦げ目で出来上がり!」
#三行詩
○木曜日の夜、自宅
「明治書院、荀子(上)を手元に置く、ちょっち気合い入れて読もうと思う」
「面白い、孔夫子の教えを独自に伝える孟子、と、並び遜色なき荀子、が何故儒学の正統史から外されているのか」
「朱熹を、朱子学、近思録を学ぶ前に荀子を学ぶ、これが私の学問の道らしい」
#三行詩
「藤井専英先生が書かれた『荀子』『荀子思想論考』、荀子研究において我が国では第一の書とされる」
「藤井専英先生は、志を抱かれたのだ、現代で忘れ去られた荀子を、甦らせようと先師の意志を継がれたのだ」
#三行詩
○金曜日の朝、自宅
「子曰く、苟しくもその身を正しくせば、政に従うに於いて何か有らん。その身を正しくすること能わずば、人を正しくすること如何せん。子路十三」
「孔夫子はいわれた、仮りそめにも自分自身を仁と礼、義に基づいて常に学び、正しく実践しているのであれば、国の大官として政を行うことに何の問題があろうか。一方、自分自身の行いを正すことが出来ない者が、どうして民を正しい道へ導くことが出来ようか」
「儒学の根本である率先垂範の修身を述べている。当然ながら修身は目標であり、目的は忠恕であらねばならない。目的と目標を勘違いして修身のみに留まると、儒学の本質から離れ仁からも遠い。仁とはそもそも暖かく人を包み込むものだ。学ぶ者が自らを仁にせず、どう民を救えるというのか」
#三行詩 #論語
○金曜日の午後、ウオーキング
「プッチーニのトスカを聴きながら森を歩いている」
「子供の日のイベントで鯉のぼりが設置されている」
「母からすれば私も子には違わない、電話してみよう」
#三行詩
○金曜日の午後、マクド
「儒学の閉鎖性に関して、家社会、孝悌忠信、道徳教育、天命思想、克己復礼…思いつくままに言葉を並べる」
「現代に続く、タテ社会、年功序列、ブラック企業の隆盛、世襲議員、派遣社員の使い捨て…」
#三行詩
「何時・何処から儒学の忠恕、仁が疎かにされ、忠恕、仁である為の方法が目的となってしまったのだろう」
「目標、方法論としてすり替えられた孝悌忠信や克己復礼、道徳教育は当然ながら慣習化し、忠恕、仁なき儒学が幅を利かせることになる」
「儒学の閉鎖性とは、本来の忠恕、仁の道を外れ、権力者が社会を、民衆を支配する為の方便、ツールとして用いたことが原因ではないか」
#三行詩
○金曜日の午後、マクド
「そもそも仁、忠恕の根本である父母からの慈愛が、どうして子を苦しめよう」
「孔夫子の教えである論語を除き、孟子、荀子までは教えはぶれていない」
「ここで朱子学や陽明学にその原因を押し付けるのは短絡的過ぎてお話しにならない」
#三行詩
「儒学の閉鎖性とは、儒学の変質化とも言い換えることが出来る」
「孔夫子、孟子、荀子の時代の儒学はあくまで被権力者側での立ち位置」
「漢の武帝、紀元前136年からは儒教は国教となり、それ以後清朝の崩壊までは権力者側での立ち位置となる」
#三行詩
「やはり儒教も、キリスト教と同じく国教化されてからの変質は免れない」
「一つ、国教化された儒教とはいへ、伝説の聖君子は一度も現れてはいない」
「二つ、権力者側についてからも天才朱熹、朱子学が世に認められる以前、以降で明らかに異なる点がある」
#三行詩
「三つ、近代社会において、徳治政治自体が否定された」
「なんと皮肉なことか、現代史を省みれば、独裁者による悪政は、孔夫子の時代より変わらない」
「どころか道徳なき独裁者による人類史に残る汚点の数々、差別、戦争、大虐殺‥しかも現在進行形だ」
#三行詩
○金曜日の夕方、マクド
「儒学の閉鎖性から、変異点を求めて現代にまでたどり着く」
「広げ過ぎた、そもそも結論は出ている、孔夫子が説かれた道徳、つまり忠恕、仁は常に被権力者側にあって述べられたものだ」
「生身の聖君子は現れず、システムとしての聖君子が人を支配するようになる」
#三行詩
「孔夫子の教えが、中身を伴わずに文字がシステムとして、斯くあらねばならない基準値となってしまった」
「当然ながら基準値とは曖昧であり、その一字を巡る解釈論が、政権を、権力を得る者を書き換える力を持つに至る」
「儒家通しの血生臭さい戦いと、権力争いの最前線と化す、もはや仁や忠恕など微塵もない」
#三行詩
「儒学の閉鎖性とその変異点に関しては以上で止めよう、きりがない」
「当然ながら、次は、これらを踏まえて儒学のシステム化から、再び生身の人間による道徳化へ、孔夫子の教えに原点回帰する為には、或いは現代の儒学とは、がテーマか」
「最初に述べた通り、疑似儒教の、もはや呪い(タテ社会、年功序列、ブラック企業の隆盛、世襲議員、派遣社員の使い捨て…)は、現代でもこの国を蝕んでいる、さて」
#三行詩
○金曜日の夕方、マクド
「GWに入ってから何も勉強していない子に付き合っている」
「塾の成果か、確実に苦手な数学を解けるようになっている」
「あとは勉強する癖付けだが、ここが難しい、マクドで餌付けしてゆっくり学ばせている」
#三行詩
○金曜日の夜、自宅
「科挙とは興味深い、当初は優秀な人材を得れたが、時代とともに形骸化し、自ら考えれない、愚材ばかりの組織となる」
「時代の変化を否定し、過去へ懐古するしか存在価値を見い出せない官僚たち」
「孔夫子や孟子は、天でさぞかし嘆かれたのではないか、教えと真逆だ」
#三行詩
「孟子は荒ぶる儒学であり、中庸から外れるとされる、しかし生きた学問として論語に匹敵すると信じている」
「何故なら、孟子とは詩であり、魂の叫びだ」
「少なくとも私の敬愛する吉田松陰先生の語録を読むと、孟子の教えは正しい、何が正しいか、自らが正しいと思うことが正しいと肯定するからだ」
#三行詩
○土曜日の午前、スーパー
「凄い行列だ、店内レジから奥の壁まで並んでいる、ふと、疑似儒教の呪い(派遣問題)を思う」
「派遣社員→契約社員、詰まる所、使い捨ての名称が変わっただけだ」
「これが仁なのか、この国に忠恕があるとは思えない、何処に誠が、思いやりがあるのか」
#三行詩
「五十を越えて転職すると、派遣社員ですら厳しい、生きていく為に日雇いバイトでつなぐ人たち」
「これがこの国の仁らしい」
「富裕層、以外の五十代以上の全員が同じリスクを受ける、ここが平等でどうするのだろう」
#三行詩
「多くの人を使い捨ての単純労働に従事させ、エリート層との区別化をはかる」
「代々の世襲議員は問題にすらならない、何故なら彼らを支持する富裕層も同じだから」
「不公平を声に上げることは良くない、自己責任を認めることが美徳、これは徳ではなく、刷り込みと強迫だ」
#三行詩
「富と権力の集中、道徳律から解放され合理的な思想で行動する支配層」
「どんな手段や非道徳的な行為であっても、結果として国家(支配層)の利益を増進させるのであれば許される」
「現代はマキャベリストの時代だ、はっきりと認めた方が良い、さらに疑似道徳が市民を縛り付けてさえいる」
#三行詩
「故に、再び儒学に戻るのだ、マキャベリストのように自ら悪を為してはいけない」
「道徳が滅びかけた今こそ、孔夫子の教えに帰らねばならない」
「荒ぶる儒学、孟子の教えを実践せねばならない、仁と忠恕こそ次の時代を開くものだ」
#三行詩
○土曜日の午後、ウオーキング
「妻は仕事、晩飯はラザニアに挑戦する予定、頭の中では美味くいった」
「一雨きて風が止み蒸し暑い、長靴を履いてきた」
「新緑から緑が濃くなった気がする、ゆっくりと森を歩いている」
#三行詩
「モーツァルト、ピアノ協奏曲21番を聴いている、雨上がりに合う」
「12歳のときに、父の大スピーカーをつなげたデッキで最初に聴いたレコードがこの曲だ、思い出深い」
#三行詩
「映画アマデウスの影響は大きい、サリエリの語る言葉、音楽とはなんと素晴らしいものか」
「映画ラストエンペラーも感動した、当時は歴史小説にも夢中で、ピタリとハマる」
「省みれば、あれから40年、相変わらず読書と音楽だ、人とは変わらない、自分の老いた先も見えてきた」
#三行詩
「48歳でブラック企業から転職し、50歳で儒学を学び、自らを磨こうと志を立てた」
「転職しなければ時間など取れず、そもそも心身を病み、果たして生きていたかどうか」
「大学のゼミの教授が卒業のときに贈ってくれた言葉がある、人生万事塞翁が馬、諦めるな」
#三行詩
「そして世代交代だ、子が日々成長している、かつての自分と重ね合わせて、黙っている」
「言っていることは良く理解出来る、答えは自分で見つけなければならない」
「2016年7月15日、子が6歳のときにポケモンGOで初めてゲットしたワンリキーは星無しだが大切に置いている」
#三行詩
「それから子と二人で、度々森へポケモンGOをしにいった」
「同年、8月19日に野良カピゴンをゲットし、父は英雄になった」
「あれから7年、子はもはやポケモンGOはしない、小学高学年で興味は終わるも、このアカウントは父の宝物だ」
#三行詩
所感)
■GW終わる
9連休、あっという間に終わる。
常に家族と居れたのが一番の幸せだった、と思える年齢になったらしい。
常に音楽を流していた、プッチーニ、ワグナー、モーツァルト、ロッシーニ、ヴェルディ…オペラ曲とはなんと素敵な世界だろう。梅田で遊んだ日も家族との会話時以外はずっと聴いていた。
■アンチ・マキャベリズム
中高生のときに、マキャベリにハマったことがある。世の中を不合理に思い、解決する方法を本に求めた結果、必然的に夢中になった。
52歳になり、今はそう思わない。
世の中とは不合理であり、残酷なことを身をもって体験するも、だから自らが悪に染まる必要はない。自らを強くして、一つの誠を抱く、父母から受けた慈愛を世界に広げていけば、自らは変わるし、世界も変わると思っている。
最近、中二の子から、世の中について問われることが多くなった。
ありのままを伝えると、世の中クソだと、この国に絶望感を抱き、世界に出たいと子はいう。
父は若い頃に海外で暮らした経験があり、思ったことは、世界も同じだし不公平、不合理の世の中は何処でも変わらない。
だからこそ、自らを強くすることと、私利私欲を離れた自らの誠を見つけることが出来れば、きっとこの国に居ても、世界でも、何処に居ようが楽しくなるよ、と伝えた。