四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

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孟子 梁恵王章句上(一章、二章)

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孟子』梁恵王章句上(一章、二章)

○白文から意訳し、私見を述べています。

(2024年7月8日から ❖7月10日更新済み)

 

1−1、孟子見梁恵王、王曰、叟不遠千里而来、亦将有以利吾国乎、

 

孟子、梁の恵王に面会する。

王はいう、先生、遠く千里の彼方からよく来ていただきました。

さて、私と我が梁の国に、どの様な利益を与える提案を下さるのかな。

 

孟子は何故、恵王との面会を望んだのだろうか。魏はかつて覇王を出した国だ。今、魏が亡国の危機にあるのは、実は無能の恵王自身も気付いている。故に、孟子は面会を希望したのだ」

 

孟子との対話】恵王の時代の魏(梁)は、韓・趙・斉・秦の四カ国を敵に回した事で戦争が増え、相次ぐ動員によって民は疲弊していた。韓と趙は恵王が即位する以前から抗争状態にあったが、斉や秦とも敵対したのは恵王の野心が招いた失策とも言えた。孟子は恵王の好戦的性格を戒め、それを改めない限りどんなに小手先の徳を施しても無駄である事を暗に諭したのだった。※Wikipediaより抜粋

 

1−2、孟子対曰、王何必曰利、亦有仁義而已矣、

 

孟子、恵王にいう。

王よ、どうして王自ら利益、利益と口に出されるのか。

一国の王の務めとは、自らの仁と義を広げ、民に及ぼすことです。

 

「地は私利私欲が強く、民には冷酷、好戦的である恵王に対して、孟子は最初にガツンと『王何必曰利』いう。最初から孟子節を爆発させる、孟子は今の世の中に心底怒っている」

 

1−3、王曰何以利吾国、大夫曰何以利吾家、士庶人曰何以利吾身、

 

仮にも)王自ら、国の利益が第一といえば、大夫(家老)も家門の利益を第一とし、士や民も我が身の利益を第一とするのは明らかではありませんか。

 

「王のことを臣下は、民は見て倣うものだ、王とは国の規範となる存在であり、王が強欲に腐心すれば国全体が強欲に腐心するものだ」

 

1−4、上下交征利而国危矣、

 

そうなれば、国の上下を問わず、あらゆる者が利益を追い求めるようになるでしょう。

そして、そのような者ばかりの国が、危うくないとする理屈が何処にありましょうか。

 

「今の梁(魏)の国の現実を述べている。行き過ぎた私利私欲とは、結局は人を滅ぼし、集団を滅ぼし、国をも滅ぼすものだ」

 

1−5、万乗之国弑其君者、必千乗之家、千乗之国弑其君者、必百乗之家、

 

戦車一万を維持出来る大国であっても、その君主を弑せるのは、戦車一千を維持出来る家臣です。 そして、戦車一千を維持出来る国でも、その君主を弑せるのは、戦車一百を維持出来る家臣です。

 

「周の兵制において、一万の戦車を維持出来る国を君子の治めたる国として大国としたらしい。それほど大国の君主であろうとも獅子身中の虫、君主の座を狙う強欲な部下でがいれば、弑されることは防ぎようがない、と孟子はいう」

 

1−6、万取千焉、千取百焉、不為不多矣、苟為後義而先利、不奪不厭、

 

戦車一万を維持出来る君主から戦車一千を与えられた家臣、或は、戦車一千を持つ君主から戦車百を与えられた家臣が、報酬が少ないと不平不満を抱くものでしょうか。

しかし、君主と臣下に義がなく、相互に私利私欲、利益ばかり追い求める関係では、臣下は戦車一千、或は戦車一百の報酬ですら不平不満を抱き、君主の持つ財産や権力、全てを奪おうとするでしょう。

 

「恵王の今の立場を、万乗之国の例えでさらりと述べる孟子も人が良いとはいえないが、暴君の現状を見事に述べていることには変わりない」

 

1−7、未有仁而遺其親者也、未有義而後其君者也、

 

仁を実践していて、親を見捨てる者はいません。

また、義を実践していて、君主を裏切る臣下もいないものです。

 

孟子の梁恵王章句にある、この最初の句は、孟子らしさに溢れている。まず結論を述べ、わかり易い比喩を用いて、利を問う恵王そのものの正体を明らかにする。そして王が抱いている不安、不吉な未來像を述べる。やはり孟子とは只者ではない、と恵王も、これを読む読者も思わざるを得ない」

 

1−8、王亦曰仁義而已矣、何必曰利、

 

王よ、直ちに仁と義に立ち戻るのです。

ましてや、利益を口にするなど、以ての外です。

 

孟子は、自らの為に言葉を発していない。梁の国の道端には餓死者が放置され、繰り返される重税に苦しむ民、相次ぐ戦争で疲弊した兵士。孟子はこれらを背負って、国全体を良くする為に王に直言している」

 

2−1、孟子見梁惠王。王立於沼上,顧鴻鴈麋鹿,曰賢者亦樂此乎、

 

孟子、恵王と面会する。

王、宮殿に隣接して(多くの民に)造らせた広大な森の中にある池のほとりに立ち、水に浮かぶ水鳥や、藪に潜む鹿を眺めていう。

古の先王(堯帝、舜帝)や、(周公旦の様な)賢者も、(今の私のように)このような景色を楽しまれたのでしょうな。

 

「恵王は、高名でありながらも富国強兵の策を提案しない儒家孟子との会話の接点に、同じ儒家の聖人である先王や周公旦を選び、さらに先王や周公旦と自らを重ねて、(偉大な王である自分が)民に造らせた美しい庭園を孟子に誇っている。

恵王の愚かさが強調される一方で、孔夫子の教えを継ぐ孟子からすれば、赤子の手をひねるように論破出来る相手ではあるが、本来の目的である王を強欲から仁義に立ち戻らせる為、次項にて王との会話が始まる」

 

2−2、孟子對曰、賢者而後樂此,不賢者雖有此,不樂也。

 

孟子はいう、王のいわれる賢者のみ、このような美しい景色を楽しめるものです。

賢者ではない者では、このような(民に強要して造らせた)美しい庭園を楽しむことなど出来るものではありません。

 

「自称賢者の恵王に対して、それを認める・認めないは、孟子は敢えていわない。次項で詩経書経を引用し、王自身に決めさせようとする。」

 

2-3、詩云、經始靈臺,經之營之;庶民攻之,不日成之;經始勿亟,庶民子來。王在靈囿,麀鹿攸伏,麀鹿濯濯,白鳥鶴鶴。王在靈沼,於牣魚躍。

 

詩経の大雅、靈臺遍にこうあります、

『周の文王、霊台を築こうとした時のこと、文王が建築の準備にかかると、それを聞いた民は文王のもとに押し寄せ、皆で瞬く間に霊堂を完成させてしまった。

文王は急がなくても良いと伝えるも、常日頃から文王の徳を慕う民は父母に仕えるように、文王のもとに集まったという。

文王が霊堂の手すりから表の庭園を眺め見ると、

雌鹿と雄鹿が安らいで伏せている、その姿は艷やかでよく肥えている。

沼の白鳥たちも艷やかな様子で水面に浮かんでいる。

文王が岸辺に立てば、満々とした水の中で、魚たちが嬉しそうに飛び跳ねている。』と。

 

【人名】文王(ぶんおう、ぶんのう、紀元前12世紀 - 紀元前11世紀ごろ)は、中国殷代末期の周国の君主。姓は姫(き)、諱は昌(しょう)。在世時の爵位から「西伯」「西伯侯」「西伯昌」とも呼ばれ、『尚書』では「寧王」とも呼ばれる[1]

Wikipediaより抜粋

 

2−4、文王以民力為臺為沼,而民歡樂之,謂其臺曰靈臺,謂其沼曰靈沼,樂其有麋鹿魚虌。古之人與民偕樂、故能樂也。

 

このようにして、文王は民の力により堂を築き、その横に沼を掘りました。民は文王の為ならと、喜んで働いたのです。

故に、この堂は文王の徳と、文王を慕う民の思いを込めて「霊堂」と名付けられ、この沼は「霊沼」と名付けられました。

そして、霊堂の側では鹿が安らぎ、霊沼で魚が泳ぐのを観て、文王は、民と共にこれらを楽しんだのです。

文王は、真に楽しむことが出来ました。

 

「伝説の周の文王と比較されては、梁(魏)の恵王も可哀想な気もするが、そもそも、古の賢者と同等であると孟子に自慢したのは恵王であり、自業自得といえる。

自国の民に日頃から重税をかけ、さらに労役を強制させて王宮に美しい堂や沼を築かせる。

挙げ句にその堂や沼を、自ら誇る恵王という人は、とことん畜生なのだろうと思うれる。

そして、対比として述べられた文王の徳の高さが、ますます際立つことになる」

 

2−5、湯誓曰、時日害喪,子及女偕亡、民欲與之偕亡,雖有台池鳥獸,豈能獨樂哉。

 

一方で、書経の湯誓篇にこうあります。

『桀王の暴虐ぶり、なんと酷いことか、奴はいつ終わりを迎えるのだろう、悪逆非道の桀王を亡き者に出来るのであれば、この命、何時でも捨てようぞ』と。

このように民が王を増悪し、命を捨ててでも王を亡き者にしたいと思っている国で、霊堂を築き、霊沼を掘ったとしても、そこに住まう鳥獣を観て、果たして王が楽しむことなど出来ましょうか。

 

「恵王に対して、伝説の文王と暴虐の紂王を対比させてわかり易く説明する孟子。特に紂王を述べた箇所では、恵王は内心震え上がってしまった。次の3-1では冒頭から、自分は如何に民のことを思い、行動しているかを語り出す。

勿論、言葉だけの薄っぺらい恵王の仁義を、孟子は一つずつ論破していく」

 

【人名】帝辛[1](ていしん、拼音: Dì Xīn、紀元前1100年ごろ)は、殷の第30代(最後の)王。周の武王に滅ぼされた。一般には紂王[1](ちゅうおう、拼音: Zhòu Wáng、単に紂とも)の名で知られる。

Wikipediaより抜粋