四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

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孟子 梁恵王章句上(五章)

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孟子』梁恵王章句上(五章)

○白文から意訳し、私見を述べています。

(2024年7月12日から 7月14日 更新済み)

 

5−1,梁惠王曰:「晉國,天下莫強焉,叟之所知也。

 

恵王はいう、趙・魏・韓と分裂する前の、晉という国が、天下にある国々の中でも最強(中原の覇者)と称されたことは先生もご存知の通りです。

 

「ここで恵王の胸の内が語られる。この人のプライドの出どころは『中原の覇者に連なる王』であり、遠い過去にすがって生きている人だとわかる」

 

5−2、及寡人之身,東敗於齊,長子死焉;西喪地於秦七百里;南辱於楚

 

寡人(私)が魏の王位を継いでから、東方では斉に破れて長子は討ち死にし、西方では秦に領土を七百里に渡って奪われ、南方では楚に侮辱を受けた。

 

「何故こうなったか、省みる視点が見事なまでに欠けている。負ければ負けるほど博打にのめり込むタイプであり、王の資質に欠ける」

 

5−3、寡人恥之,願比死者一洒之,如之何則可?」

 

寡人(私)は、晉に連なる国の王として、今の状況をを恥と思い、これまでに死んだ者の怨みを晴らしたいと常日頃思っている。どうすればこの恥と怨み晴らせようか。

 

「自らの存在、思い、行動こそ恥であるのに、負の連鎖に気づけない。亡国の指導者とは古代、現代を問わず変わらないのだ」

 

5−4、孟子對曰:「地方百里而可以王。王如施仁政於民,省刑罰,薄稅斂,深耕易耨。

 

孟子はいう、過去の怨恨を晴らし、天下を治める(諸侯の)王となりたいのことですが、

王よ、(領地の大小ではなく)国に百里四方もあれば天下の王となれましょう。

王が仁徳に基づく政治を行い、刑罰を緩め、税を軽くすれば良いのです。

そうすれば民は農地を深く耕し、早々に収穫を終えます。

 

「私的な怨恨を捨て、王としての務めを果たしなさいと述べる孟子儒学とは根本を大切にする。人の根本は父母であり、ご先祖にあり、一方で国の根本は王ではなく民にあり、民を幸せにすることが王の務めである」

 

5-5、壯者以暇日修其孝悌忠信,

 

すると、国の壮者(働き盛りの者たち)は、日々の生活に余裕が生まれ、

(王の仁を見習い)孝悌忠信(父母を孝行し、上の者には従順、自らを誠にして、信頼を全うする)に励むようになります。

 

「国の根本、人の根本を大切にする、ウインウインの関係を述べている。

孝弟忠信は儒学の根本を述べているが、言葉の意味を追えば良いものではない。

何故、どうして孝弟忠信なのか、そして何処へ向かうのか、天下泰平の思いあってこその孝弟忠信であり、言葉だけの薄っぺらい道徳論ではない」

 

5−6、入以事其父兄,出以事其長上,

 

(王の国の民は)家では、父母に仕えて兄には従い、外では役人や年長者に従うようになります。

 

「戦国時代の終わりに生きる孟子はいう、先王の教え、孔夫子の教えとは、この乱れた世の中を変える。本来、人がそうあるべきである状態とは『孝悌忠信』にあると」

 

5−7、可使制梃,以撻秦楚之堅甲利兵矣!

 

そうなれば、棍棒程度の武器でも、大国である秦や楚の、鎧兜や鋭利な武器を装備した兵を打ち倒せましょう。

 

「この句は踏み絵のように思う。学問が浅ければ絵空ごと、と一笑に付すであろうし、一方で学問が深ければ、(論理的にも)こう為らざるを得ないと理解出来得る、のだろうか」

 

5−8、彼奪其民時,使不得耕耨以養其父母,

父母凍餓,兄弟妻子離散。

 

何故でしょうか、戦う秦や楚の兵は、常に戦争に駆り出されて農作業も出来ず、父母を養うことが出来ず、郷里では父母は飢え凍え、弟たちや妻子は離散してしまっているからです。

 

「言い換えれば、今の梁(魏)の現状でもある。孟子ヒューマニストであり(苦しむ民は梁だけではない)、孟子の、道徳なき弱肉強食の世界を救いたいという思いが伝わってくる」

 

5-9、彼陷溺其民,王往而征之,夫誰與王敵!故曰:『仁者無敵。』王請勿疑。」

 

この様に自国の民を詐取し、国中の民が王の所作を憎んでいる国に、仁政を行い篤く民を養う王が軍を率いて攻め込んだとしたら、誰が仁政を行う王に対して刃向かえましょうか。

故に、「仁者は敵なし」といわれるのです。

王よ、自らを省みられよ、目指すべきところは過去に戻ることや復讐ではありません。

 

孟子のいうことは正解である。しかし、時は戦国時代の末期、統一帝国に向けた諸侯間戦争のど真ん中で、凡庸な王の成せるところではない。

現代でも孟子に批判的な人はいう、結局は言葉倒れ、比喩表現に富む戦国末期の論客にしか過ぎない。

この言葉は的を得ているが、視点が小さい。

孟子を、孟子でしか読んでいない。

孟子から論語を読むと、論語の理解が広がるが、論語から孟子を読むと、別の孟子像が浮き上がる。

孟子は『思い』の人だ。

豊かな比喩表現は『思い』の表現であり、『思い』とは、苦しむ民を救いたい、ただ一つに帰結する。

論理的な欠陥や、非現実的な句を一々挙げて孟子を批判するのは、視点が狭すぎると言わざるを得ない。

極論から言えば、梁恵王章句上で孟子に教えを請うた恵王は、聞き役に過ぎない。

孟子は恵王を通じて世界に叫んでいる。

世の中の非合理を、理不尽さを、そしてこれらを無くす為に孔夫子の教えがあると。

孟子を読む私たちは、行間の隅々まで満ちた孟子の『思い』を汲み取らねばならない」