四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

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孟子 梁恵王章句上(三章)

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孟子』梁恵王章句上(三章)

○白文から意訳し、私見を述べています。

(2024年7月10日から7月11日更新済み)

 

3−1、梁惠王曰、寡人之於國也,盡心焉耳矣、

 

恵王はいう、実をいえば、寡人(私)こそ国と民の為に心を尽くしてきた王なのだ。

 

「ここから恵王のターンだ。まず、先生(孟子)は誤解している、私(寡人)こそ周公旦に優るとも劣らない、徳高き王であると自賛する。」

 

【言葉】寡人 (くわじん)、 諸侯や王などが使う一人称。 「寡」は「少ない」という意味で、「寡 人」は「徳が少ない人」。自分をへりくだる表現。

 

3−2、河內凶,則移其民於河東,移其粟於河內、河東凶亦然。

 

国の河内に凶作となり、河東の民が飢餓に苦しめば、一部の民を強制的に移動させるのと同じくして、河西の民から穀物を徴用して河東へ送らせた。河西が飢餓の時も同じことをして民を救った。

 

「もちろん、凶作になっても、寡人(恵王)の食料は確保せねばならない(穀物一粒も民には配らない)。

では、領地のあまり苦しんでない所から穀物を徴用し、苦しんでいる所へ送って民の苦しみを救ってやったという恵王、何となく背筋が寒くなる」

 

3−3、察鄰國之政,無如寡人之用心者、鄰國之民不加少,寡人之民不加多,何也。

 

しかも隣国の王たちは、自国が凶作のときでも飢餓に苦しむ民を救わず、見殺しにして平然としている有り様だ。

しかし、このような善政を行っているにも関わらず、悪政を行う隣国から我が国へ逃げてくる民はおらず、我が国の民は一向に増えないのだ。

何故だろうか。

 

「戦国時代で王と名乗る類の人間とは、結局はこの程度の慈悲しか持ち合わせていない。省みれば現代でも王と等しき権力やお金を持つ類の人間がたくさんいるが、中国・戦国時代とそう変わらない、否、どんどん非人道的になっている気がする」

 

3-4、孟子對曰、王好戰,請以戰喻。

 

孟子はいう、王は戦を好まれると聞いております。故に、戦で例えてお話しします。

 

「ここで孟子のターン。寡人の徳の低さ、自己中心的な性格、歪んだ見識に呆れ返りながらも、隣国の王たちよりは(まだ)まし(少なくとも周公旦を意識している)な一分があると信じ、以下、人口に膾炙された故事が語られる」

 

3-5、填然鼓之,兵刃既接,棄甲曳兵而走,或百步而後止,或五十步而後止、以五十步笑百步,則何如。

 

戦場にて、二つの国が争っています。

双方ともに陣太鼓が打ち鳴らされ、両軍が正面から突撃し、武器打ち当たる音、激しき接戦です。

ところが、自軍から鎧を捨て、武器を杖に逃げ出す兵士が現れました。

ある兵士は百歩逃げて踏みとどまり、またある兵士は五十歩逃げて踏みとどまりました。

すると五十歩逃げた兵士が、百歩を逃げた兵士は臆病だと笑いました。王よ、どう思われますか。

 

「戦国時代に生きる孟子らしく(本来、儒家は人死にや戦争を忌み嫌うものであるが)、寓話といえリアルに戦場の様子を描いている」

 

【語句】五十歩百歩 《戦闘の際に50歩逃げた者が100歩逃げた者を臆病だと笑ったが、逃げたことには変わりはないという「孟子」梁恵王上の寓話から》少しの違いはあっても、本質的には同じであるということ。似たり寄ったり。

 

3-6、曰不可。直不百步耳,是亦走也、曰王如知此,則無望民之多於鄰國也。

 

恵王はいう、許されないことだ、どちらも逃亡兵であることに変わりはない。

孟子はいう、では、王がご存知の通りです。

悪政に苦しむ隣国の民が、王の国へ逃げてきて民の数が増えることの望みはありません。

 

「ここら辺から孟子節に火がつき始める、孟子は怒っている、貴方のような王がいるから世の中は良くならない、と」

 

3−7、不違農時,穀不可勝食也、數罟不入洿池,魚虌不可勝食也、斧斤以時入山林,材木不可勝用也、

 

(飢饉とのことですが)そもそも、農繁期に民を農耕に専念させさえすれば充分な穀物は得れるものです。

また、目の細かな網を使わなければ、池や沼には魚やすっぽんが常にいるものです。

そして山の木を伐る時期を制限さえすれば、材木困ることなどありません。

 

「戦争や王宮の増築の度に民を徴用し、捨て駒にする兵士や強制労働を強要する。当然ながら農地は荒れ、老人や子供が重労働に駆り出されるリアルタイムの現状を孟子は述べている」

 

3-8、穀與魚虌不可勝食,材木不可勝用、是使民養生喪死無憾也、養生喪死無憾,王道之始也。

 

穀物や魚が食べきれず、材木が使い切れないほど有るのであれば、民は生命を養い、死者を弔うことを心配する必要が無くなります。

このように民に安心与えることこそ、王を名乗る者が歩む道に他なりません。

 

「王道政治とは本来はこうあるべきである、民こそ国の本、民を活かしてこその政治であると、孟子は熱く語る」

 

3-9、五畝之宅,樹之以桑,五十者可以衣帛矣、雞豚狗彘之畜,無失其時,七十者可以食肉矣、百畝之田,勿奪其時,數口之家可以無飢矣、

 

五畝(約300m四方の土地)ある一軒の農家が桑を植えれば、五十の老人に絹の服を着せられます。鶏・豚・犬などの家畜を、必要な時を踏まえて育てれば、七十の老人に肉を食べさせられます。そして、更にその二十倍の耕地を分け与え、農繁期に耕作を専念させてやれば、民は飢えることは無くなります。

 

「論理的、且つ数値化した改善方法を述べている。二千三百年前のことながら、結論は現代とそう変わらない。」

 

3−10、謹庠序之教,申之以孝悌之義,頒白者不負戴於道路矣。七十者衣帛食肉,黎民不飢不寒,然而不王者,未之有也。

 

その上で、民の道徳教育を年少の頃から始め、親に孝行、年長者には従順である道徳が広がれば、白髪の老人が重荷を背負うことも無くなります。

七十の老人が絹の衣を着て、食べる肉に困らないようであれば、もはや民は飢えもせず、凍えることもありません。

王よ、国をここまで繁栄させて、天下の王とならなかった君主は一人もいません。

 

孟子儒家の本領を発揮する。道徳を根本にして、王は王の、臣下は臣下の、民は民の務めを果たせば、天下は泰平となると説く」

 

3ー11、狗彘食人食而不知檢,塗有餓莩而不知發,人死則曰、非我也,歲也。

 

ところが、今、王の国では王の犬や豚が、人が食うはずの穀物を食べて肥え太っています。(王の食卓に上がる為に)誰も止めれません。

道には、餓死した民が無数に放置されているにも関わらず、王の穀物蔵から炊き出してもありません。餓死者が出ているのに、今年は凶作だから王のせいではない、と知らぬふりです。

 

「王宮の外に広がる殺伐とした梁の国の現状が目前に浮ぶ。孟子が王宮へ向かう途中に見た風景、そのままを述べている。恵王の本音である、民などどうでも良い、強欲非道な人間性も伝わってくる」

 

3−12、是何異於刺人而殺之,曰非我也,兵也、王無罪歲,斯天下之民至焉。

 

人を刺し殺しておいて、私のせいではなく、刃物が人を殺したのだ、と言って誰がそのことを信じましょうか。

飢餓の原因を天候のせいにするのではなく、自ら向き合い、民を救うのです。

それだけで天下の民が王を慕い、この国に住みたいと押し寄せてくるでしょう。

 

孟子の魂の叫びを感じる、王よ、あなたはそれでも人間なのか。あなたの立場であれば民を十分に救えるのだ」

 

■CHATGPTの評価 90点

 

この文章は『孟子』梁恵王章句上(三章)の意訳と私見を述べたものです。以下の点で評価できます。

 

### 評価点

 

1. **正確性と詳細**:

   - 文の翻訳と意訳は比較的正確で、孟子の教えや背景に対する理解が深いことが伝わります。特に「五十歩百歩」の寓話の解釈や現代との比較が具体的です。

 

2. **解説の深さ**:

   - 各節の解説が丁寧であり、孟子の思想の背景や意義を適切に伝えています。読者に対してもわかりやすく、孟子の主張の核心が理解しやすいです。

 

3. **批評のバランス**:

   - 自身の意見を交えつつも、孟子の教えを尊重し、その思想の本質を掘り下げる姿勢が見受けられます。特に現代との関連付けや批評が説得力を持っています。

 

### 改善点

 

1. **論理の明確化**:

   - 一部の意訳や私見がやや抽象的であり、もう少し具体的な事例や根拠を示すことで、読者の理解がさらに深まるでしょう。

 

2. **一貫性**:

   - 文章全体の流れがスムーズである反面、段落ごとのつながりがもう少し強調されると、全体の論旨がより明確になるかもしれません。

 

### 点数

この内容の評価として、90点とします。文の正確性や解説の質は高いですが、さらに一貫性と具体性を持たせることで、より完成度が高くなるでしょう。