書き下し文)
仁の不仁に勝つは、猶ほ水の火に勝つがごとし。
今の仁を為す者は、
猶ほ一杯の水を以て一車薪の火を救ふがごときなり。
熄まざれば則ち之れを水は火に勝たずと謂ふ。
此れ又不仁に与するの甚だしき者なり。
亦終に必ず亡はんのみ。
孟子 告子章句上
意訳)
仁の人とは、不仁の人達に対し必ず勝利するものだ。
例えるなら、火を消し止めるには水が必ず効き目があるように。
だが、昨今の仁を行う人は、己が盃一杯くらいの水(仁)で、台車に積み上げたたくさんの焚き木についた炎(世の中の不仁)を消そうとしている。
結果、己が蓄えた水(仁)が少ない事を嘆かず、火(世の中の不仁)には水(仁)は勝てないと、巷で言いふらす。
これでは、水(仁)が、真逆の火(世の中の不仁)の手助けをしているようなものだ。
そんな考えを改めなければ、己が蓄えた僅かな水(仁)も早晩、消え失せてしまうであろう。
所感)
■儒学の実践
儒学の実践とは、現状の正しい認識(善·悪)と、現実の行動(善いと思う事)の積み重ねだ。
特定の宗教の様な、例えば、真の信仰さえ得れば全て良い、といったものではない。
あくまで、論理的な意思決定による行動だ。
現代人としては、いくら聖典とはいえ、非現実的な思考や、天才しかなし得ない境地を唄われても、良くて、映画や小説を楽しむレベルで、我がものとは決してならないのでは、と思うであろうが、
聖典、四書に述べられている事は、いたって普通の事が多い。
儒学は、あくまで現実を踏まえた、実践の学問だ。
■あやふやなものを否定
当然ながら、儒学は、非現実的な、霊やら占い、オカルト等、あやふやなものを否定する。
毎日、今、この時でも、現実的な仁は行えるのだ。
善い事を好んで行う、それだけでも仁に近い。
仁とは、実践してこその仁だ。
そして、その根底には、思いやりの心や、人を尊ぶ姿勢等、性善説による人間愛がある。
仁とは、古びた魔法ではなく、現実の、一つ一つの行動の積み重ねだ。
■大きな水の流れ
盃くらいの大きさの己の仁が、積み重ねにより、バケツくらいの大きさの仁となり、
日本中の各々の、仁のバケツが積み重なれば、
いつかは、世の中の不仁の炎を消す、大きな水の流れとなるかも知れぬ。
聖典、四書の中の「大学」の冒頭にある、
儒学を学ぶ目的とは、
「明明徳」「親民」「止於至善」の三綱領と呼ばれる考えがあり、儒学を端的に表しているとされている。
・明明徳 (明徳を明らかにする)
天から授かった立派な徳を明らかにする。
・親民 (民を親しく愛する)
民衆を教化して民衆を革新する。民衆を教化して性格をかえる。
・止於至善 (至善に止まる)
最高の善にふみ止とどまること。
今回、孟子に関してプログを書いている間、近思録、大学、論語、中庸で学んだ事が、脳裏を巡る。
■儒学に思うこと
四書を繰り返し通読しているうちに、自分の中で、内容が、ぼんやりながら、つながりはじめている事を感じる。
私は現代で、儒学を学び、自らを磨き上げようと思い立った、中年のサラリーマン初学者だ。
至らぬ身で、中途半端なプログを書くなど、赤面の至りではあるが、書く事により、自分がどれほど理解しつつあるか、又は、ほとんど理解していないかが自覚出来た。
この恥を、今日からの勉強に活かしたい。
そして、儒学とは、素晴らしいものだと、心の底から思い始めている。
■吉田松陰先生が述べられたこと
最後に、吉田松陰先生はこの章に関して、以下、述べている。
「大志ある者は、この章を日夜暗唱して志を励ますべきである。我が国を興し盛んにし、迫り来る諸外国を打ち破るのは仁であり、これを妨げるものは不仁である。孟子のいうように、仁は不仁に必ず勝つ。これを拝読する者はしっかり努力していただきたい」
なんと凄まじい儒学であろうか、
本来、儒学とはこういうものなのか、
当時の状況や、吉田松陰先生の覚悟、その後の歴史を振り返ると、
同じ日本人として、浅学非才の我が身を恥いるばかりなれど、
今、現在、一つ、一つ、己が仁を積み重ねていくしかない。
仁は、必ず不仁に勝つのだ。