書き下し文)
孟子曰く、
人恒の言有り。
皆曰く、天下国家、と。
天下の本は国に在り。
国の本は家に在り。
家の本は身に在り、と。
孟子 離婁章句上
意訳)
孟子はいわれた。
天下(この世の中)、国家は、いったいどうなっているのか、
と、世間一般の人たちは、たびたび口にする。
しかし、
天下の本は、一つの国に在り、
一国の本は、一つの家に在り、
一家の本は、一つの身に在る。
天下国家を論ずる前に、まず一身一家を修めることこそ、天下国家の眼目と言える。
国中の徳のある人が、一身を修め、一家を修めれば、やがては天下国家も修まる。
所感)
■一身の自覚
他人ごとのように、天下国家を語ってはいけない。
その一身にも、天下国家の行末が懸かっていることを自覚し、
天下万民を救う為、まず己が一身を修め、自らの徳を明らかにせよ。
と、の意がこの章で述べられている。
■天下万民を救うとは
斉の宣王が問う。
「湯王が桀を追放し、武王が紂ちを討伐した。臣下が君主を弑してよいのか」
孟子はいわれた。
「仁を損なうを賊と言い、義を損なうを残と言う。残にして賊である者は、君主でなし。
獣、畜生である紂を討った話は聞き及ぶも、君主を討った臣下の話は聞き及ばず」と。
上記、孟子、命を改める、つまり革命論の逸話とされている。
過去、時の権力者が、儒学排斥を行った原因ともされた。
しかし、儒学を、孟子を学ぶ徒としては、当たり前の話しではないか。
主語の、天下万民を救うという、私心なき目的を理解すれば、なんら極端なこととは思えない。
■ぶれない儒学
(人の性は善、故に一身を修め)己が徳を明らかにし、民を親しみ、天下を至善に至らす。
これが儒学の眼目であり、この眼目に対して、民に対し暴虐非道の行いをする君主は、もはや獣、畜生と均しい。
私心なき大徳の君子であれば、獣、畜生の討伐は、本章の、天下国家を修めるとの通り、至極当たり前の行いではないか。
その天下国家を修めるとは、まず、一身を修めること、ここから始まる。
今日、一日の読書を学問として、努め励みたい。