書き下し文)
徐子曰く、
仲尼亟々水を稱して曰く
水なるか、水なるかな。
何をか水に取れるや。
孟子曰く、
原泉混混として、晝夜を舎かず。
科に盈ちて而る後に進み、四海に放る。
本有る者は是の如し。
是を之れ取るのみ。
苟しくも本無しと為さば、七八月の閒、雨集まりて、溝澮皆盈つるも、其の涸るるや、立ちて待つ可きなり。
故に聲聞、情に過ぐるは、君子之を恥づ。
離婁章句下
意訳)
弟子の除子は、孟子に問う。
孔子は、水について「水なるか、水なるかな」と述べられたと聞きました。
孔子は、水のどこに感銘を受けられたのですか。
孟子はいわれた。
水の溢れる源、源泉とは、
昼も夜も止むことなく湧き出で、湧き出た水はくぼみを満たし、
やがてはくぼみをあふれ出ては、次のくぼみに進む。
そして、ついには天下あまねく、いたるところに源泉は行き渡る。
源泉があるものとは、このようなもの。
孔子は、ただ、このことについて感銘を受けられた。
故に、源泉無き水とは、
一時の季節雨により田畑の畔や溝を水を満たすようなもの、やがては田畑は涸れてしまう。
省みれば君子とは、
自らの世間の評価が、己の源泉以上であることを常に恥じる。
所感)
■学んで楽しい
学問とは、進めば進むほど楽しくなるとある。
私にとって孟子とは、学問が進めば進むほど楽しい。
さらに吉田松陰先生の講孟箚記を得て、孟子を学ぶことが、ますます楽しくてしょうがない。
言い換えれば、この学んで楽しいこそ、私の学問の道の源泉かも知れない。
世間の評価などまったく無い我が身なればこそ、一人己が源泉を深く追い求める。
今日、一日の読書を学問として、努め励みたい。