講孟箚記(上) 講談社学術文庫
通読一回目終了。
所感)
■目から鱗
吉田松陰先生の講孟箚記を読み始めて、冒頭から衝撃を受けた。
「孟子におもねてはいけない」
儒学の聖典でありながらも、二千三百年前の中国での出来事故に、今の世(江戸時代末期)で解釈する場合は、是々非々の判断が必要であると、松陰先生は述べられた。
目から鱗のような印象を受ける。
孟子の教えとは人類普遍の教えではあるが、
二千三百年前の中国戦国時代のお話しであり、現在とは異なる部分はある。
聖典だから、一文字一句妄信しろ、とは良く考えれば儒学の教えと異なる。
儒学とは、ものごとの本質を正しく捉える現実的な学問。
人が人として存在する限り、孟子の述べる教えは普遍の聖典として読み継がれる。
そして、儒学を学ぶものは自らの積み上げた学問により、是々非々の判断を行う。
孟子を解釈した吉田松陰先生の、講孟箚記は、儒学を学ぶ日本人にとって、孟子の解釈書として普遍の書ではないか。
理論明晰に孟子の本質を明らかにする講孟箚記は、儒学を、孟子を学ぶ日本人であれば必読の書と思える。
■ものごとの本質
当然ながら、松陰先生が講孟箚記で述べられた通りに述べれば、
江戸時代末期と令和の世は異なる。
松陰先生なら、
「吉田松陰におもねてはいけない」
と述べられ、さぞかし我ら令和の儒学を学ぶ者を励まされよう。
儒学とは、ものごとの本質を正しく捉える現実的な学問。
このような事を述べられた、吉田松陰先生とは、ただ、凡人の我が身にはただ感嘆するのみ。
襟を正して、真剣に講孟箚記に向き合うとする。
今日、一日の読書を学問として、努め励みたい。