本文)
「自暴・自業」「安宅・正路」の読、切実と云ふべし、読者自ら其の義を了すべし。
嗚呼、自暴は演物なり、自奏は情疑者なり、我人此の両等人には成りとうなきものなるが、安宅とて安とも知らず、正路とて正とも知らずんば、遂に此の両等人たるを見れず。
哀しいかな。
講孟箚記 巻の三上 第十章
意訳)
この章、「自暴・自棄」「安宅・正路」について述べる。
人が日常の生活の中、「自暴・自棄」となるか、「安宅・正路」を選ぶか、
切実な問題であり、読む人は、深くその意を我がものとすべし。
「自暴・自棄」
自暴とは、なんら考えもなく直情的に身を傷つけること。
自棄とは、なんら考えもなく刹那的に自らの心を棄てること。
人であれば皆、こうはなりたくないと思うもの。
「安宅・正路」
安宅とは、仁、すなわち思いやりの心を大切にし、その心を住家として安くらかに過ごすこと。
正路とは、義、すなわち万人が行くべき正しい道をすすむこと。
人であれば皆、こうなりたいと思うもの。
しかしながら、
これら真の安らかさ、正しさに気付かず、ただ安穏と、考えもなく日々を過ごす人たちが世の中の大半を占める。
人は、結局、大なり小なり、「自暴・自棄」となることは逃れられないのであろうか。
仁を思わず、義を行わない、ただ哀しいとしか述べようがない。
所感)
■まとめ
自暴自棄を、吉田松陰先生が説明されている。
この章の意味するところは、世間一般的な意味とされるステバチ、ヤケクソになってはいけない、が主旨ではなく、
仁、(安宅)思いやりの心を大切にすること。
義、(正路)悪や不正を恥じ憎み、正しい道を歩むこと。
さらに、
これら仁と義が、世の中で疎かにされ、省みられることの少ないことを、ただ哀しい、と、述べられていることにある。
■仁の広さ、義の深さ
吉田松陰先生の、仁の広さ、義の深さは、時代を超え、令和の世まであまねく覆う。
学問の徒の一人として、松陰先生の抱かれた仁と義は、遥か遠くにそびえ立つ山脈のような、ただ仰ぎ見るしかないような印象を受ける。
最後の、哀しい、との言葉は、令和の世の私たちも含まれるであろう。
昨今の世の中を省みれば、きっとそうに違いない。
今日、一日の読書を学問として、努め励みたい。