四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

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講孟箚記 舜は 大聖人なり

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本文)

舜は 大聖人なり。

其の賤しくして農夫・陶工・漁父と混ずるに当りてや、必ず「人に取りて以て善を為す」ものは、天下の至大至さく、誠に一人の智力の能く及ぶ所に非ざるを知ればなり。

「人と善を為す」に至りては、仁の至れる者なり。

我せい小人、聖人の大徳に及ぶべきに非ずと雖ども、既に志を立てて聖人を学ぶ。

何ぞ大舜を畏れんや。

故に己の小智・小能を挟まず、濶然として人の智能を採用し、且人の善心を勧め助け、共に道に適くべし。是、大舜の道なり。

今の世、智能の士乏しきに非ず。

唯恨むる所の者は、己が智能をたのみ、人の智能を採用せず。

且人を誘して道に進むる者極めて少し。

甚だしき者は、両智・両能互に相軋るに至る。

哀しむべきの甚しき者なり。

吾せい宜しく深く心を茲に用ふべし。

講孟箚記 巻の二 第八章

 

意訳)

舜は大聖人なり。

舜はもともと、鄙びた農村で、農夫・陶工・漁夫と共にみすぼらしい暮しをしていた。

ただ、舜が周囲の田舎の人たちと異なるのは、

「人に取りて以て善を為す」

人の善いところは、必ず自分に取り入れたこと。

そして、

世の中とは、至って大きく至って深いものであり、人、一人の知恵や力では及ぶところではないと知っていたこと。

こうして舜は、人の善いところを取り入れ、世の中のことは一人では成し得ないことをわきまえ、

「人と善を為す」

人々と共に善を為した。これは仁の至上の行いといえる。

省みれば、私たち小人は、聖人舜の大徳に及ぶわけもない。

しかし、既に、学問の道を歩むと志しを立てた我が身が、同じ道を行く大舜をどうして畏れる必要があろうか。

故に、私たちは自己の小さな知恵や能力に拘泥せず、心を広くして、優れた人の知恵や能力を用いること。

そして人々に善の心を勧め、共に助け合い、共に大舜の道を歩まなければならない。

 

今の世の中を省みれば、優れた知恵や能力を備えた人は少ないわけではない。

しかし、自らの知恵と能力を頼みとし、優れた人を用いることはない。

そして、人に善の心を勧め、共に大舜の道を歩もうとする人は極めて少なく、

心無い人に至っては、互いの知恵と能力を競い合い、相手を打ち負かそうとしている。

なんと哀しい人たちであろうか。

私たち学問の道を歩む者は、こうならぬよう深く心に刻まなければならない。

 

所感)

■心無い人の心とは

松陰先生が哀しまれた当時の日本と令和の世は異なる。

列強諸国により侵略のターゲットとはされてない。

日本人を奴隷化して、麻薬中毒にして上前をはねようとする外国人もいない。

旧世界の封建社会に戻そうとする動きもない。

だが、松陰先生が述べられた、

「哀しむべきの甚しき者なり。」

との言葉に、素直に共感してしまう自分がいる。

心無い人たちに傷つけられてきたからか、

あるいは、自らが心無い人となってきたからか。

家族を養うため、世の中を上手く渡るには、皆、心無い人にならなけばならない、と自らの心に言い聞かせてきたからか。

人の心とは、全て仁の心から生じている。

過ぎ、足らずの仁の心が、心を無くすに至るのであろうか。

 

あわれみの心、思いやりの心、本当の心。

 

今日、一日の読書を学問として、努め励みたい。

#儒学 #孟子 #吉田松陰