四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

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中庸 第二章第四節

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書き下し文)

子路、強を問う。

子日わく、

「南方の強か、北方の強か、抑いは而 (汝)の強か。

寛柔以て教え、無道にも報いざるは、南方の強なり。

君子これに居る。

金革を敷物とし、死して厭わざるは、北方の強なり。

而の強者これに居る。

故に君子は和して流れず、強なるかな矯たり。

中立して偏らず、強なるかな矯たり。

国に道あるときは塞を変ぜず、強なるかな矯たり。

国に道なきときも死に至るまで変ぜず、強なるかな矯たり」と。

子日わく、

「隠れたるを索め怪しきを行なうは、後世にかぶること有らんも、吾れはこれを為さず。

君子は道に遵いて行なう。

半塗にして廃するも、吾れは已むこと能わず。

君子は中庸に依る。

世を逃れて知られざるも悔いざるは、唯だ聖者のみこれを能くす」と。

 

意訳)

子路、強さを問う。

孔子はいわれた、

南方の強さ、北方の強さ、あるいは汝(子路)の思う強さか。

南方の強さとは、心広くして柔、道無き者にも礼無きとしないこと。

君子の強さともいう。

北方の強さとは、剣や鎧のまま野営し、戦場で死を厭わず敵を撃ち破ること。

汝(子路)の思う強さか。

 

君子の強さとは、心広くして柔、故になにごとにも和とするも、世の中や人に流されることはなく、その強さは変わることない。

また、なにごとにも偏らず、常に見方、考え方を中立とするため、その強さは変わることはない。

 

国の政治に道が行われ、その身が君主に重く用いられていようとも、私利私欲に自らが流されることはなく、その強さは変わることはない。

国の政治が道から離れ、その身が君主に軽んじられようとも、君主の私利私欲におもねることはなく、その強さは変わることはない。

 

孔子はいわれた、

君主や民におもねて、人の世の表に出ない呪術や死後の世界をもっともらしくでっち上げ、彼らの私利私欲を約束するとする。

信じる者が多数あらわれ、後の世ですら称賛され、私利私欲の人たちに受け継がれることは容易い。

 

我は、これを為すことは決してない。

君子とは、道を尊び、道とともに行うもの。

道を行うも世の中に広がりを得ずとも、我は変わらず世の中に道を広げるのみ。

君子とは、道を尊び、道とともに中庸とあるもの。

道無き世の中に背を向け、世の中から知られることもなく生を終えて悔いなしとは、古の聖人のみ。

 

所感)

■やり直し

引き続き、中庸の意訳に取り組むも、次の第三章が心に響かない。

本田済先生の「易」は、通勤時間に読む。

ブログの意訳は、ウオーキング中と夕食後、

語孟字義は、就寝前に読む。

····なにやら広げすぎて、学問の道が怪しくなってきている。

集中していないから、心に響かなない。

心に響かないことを書くのは、このブログを読んでいただいている読者に失礼だ。

いったん作成した中庸第三章第一〜三節は、全て破棄する。

一日に易経、中庸、語孟字義を読んで、心が入るわけがない。

 

やり直し。

 

易経

易経は確かに難解極まりない。

語彙も規則も独特であり、易学独自のワールドを持つ。

章ごとを丹念に読み込んでも、とても面白いとは思えない。

10年読み込んでも、果たして理解出来ると思えない。

しかし、点(章)ではなく、面(書)でみると数学的規則法則のもと、独特の完成された世界観に気づく。

いってみれば、ドラゴンクエストⅢで、最初は始まりの町アリアハンとその周辺が全てだが、レベルが上がれば世界中を自由に旅が出来る様と似ている。

易経という「世界」を楽しむのが易学ではないか。

乾為天 本卦を読み、坤為地 本卦を読み、六十四卦を読みた終え時、自分の中に「易学ワールド」を構築するのだ。

マインクラフトとも似ている。

原材料を集め、家を建て、世界を広げ、

一章、一章読み込んでいき、世界を感じる。

最後には、マインクラフトのクリエイティブモードのように、世界を思うがままに楽しむ。

そして、易学の世界とは、現実世界の理、真実、道、真理を表に現す。

「一陰一陽、これを道と謂う。」

易経とは現実世界を鏡面のように述べた、希少極まりない、究極の書ともいえるのではないか。

 

今日、一日の読書を学問として、努め励みたい。

#儒学 #中庸