本文)
楽しむに天下を以てし、憂ふるに天下を以てす。(樂以天下、憂以天下)
「楽しむに天下を以てし、憂ふるに天下を以てす」と。
是、聖学の骨子なり。
凡そ聖学の主とする所、修己・治人の二途に過ぎず。
故に「伊尹の志す所を志し、顔淵の学ぶ所を学ぶ」と云ひ、
又「立志は明道・希文を以て主本と為す」と云ふ此の義にて、
顔淵・程明道、皆聖人とならんことを学ぶ人なり。
是、治人の学なり。
凡そ人と生まれ、書を読み道を聞かざれば詮方なきことなれども、
苟も已に書を読み道を聞くを得ば、此の学を勤め此の志を励まざるべけんや。
今、諸君と幽囚に辱しめらるると雖ども、幸ひに孟子の書を講ずるを得。
何の幸ひか思に加へん。
若し天下を以て任とせんとならば、如何。
先づ一心を正し、人倫の重きを思ひ、皇国の尊きを思ひ、夷狄の禍いを思ひ、事に就き類に触れ、相共に切磋講究し、死に至る迄他念なく、片言隻語も是を離るることなくんば、
縦令幽囚に死すと雖も、天下後世、必ず吾が志を継ぎ成す者あらん。
是、聖人の志と学となり。
其の他の栄辱窮達、毀誉得喪に至りては、命のみ、天のみ、吾が顧みる所に非ざるなり。
講孟箚記 巻の一 第四章
意訳)
「楽しむに天下を以てし、憂ふるに天下を以てす」
❲君子は民の幸せを我が楽しみとし、民の憂いを我が憂いとする❳
この言葉は、聖学、孔子の学問の骨格といえる。
突き詰めれば、聖学、孔子の学問の眼目とは、
「己を修める」と「人を治める」
との二つの途に過ぎない。
故に、
「伊尹の志す所を志し、顔淵の学ぶ所を学ぶ」
❲伊尹の志すところを志し、顔淵の学ぶ所を学ぶ❳
といい、
「立志は明道・希文を以て主本と為す」
❲志を立てるには、程明道や范希文を以て目標とする❳
という。
つまり、この義、正しい道により、
顏淵・程明道は、聖人となることを学んだ。
即ち「己を修める」ところの学問である。
そして、
伊尹・范希文は、天下の憂いを我が責とみなすことを学んだ。
即ち「人を治める」ところの学問である。
およそ、人として生まれ、書も読まず、正しい道を未だ聞いたことがないのであれば仕方ないが、
書を読み、正しい道を聞いたならば、己を修め、人を治める学問の道を歩み、民の憂いを救う為に志を持たねばならない。
今、諸君と獄中にある我が身なれど、幸いに孟子を共に学ぶ機会を得た。なんと幸せなことであろうか。
ここで、私たち獄中にある者が、天下の憂いを自らの責とするのであれば、どう行うのか。
先ず、
己の一心を義のもとに正しくする。
人が生きる正しき道を深く考える。
先祖代々の私たちの国を貴く思う。
そして、
現在、列強諸国からの植民地支配の危機にある私たちの国の禍いを思う。
このような状況になった原因と結果を踏まえ、私たちの国を救う為になにが行えるのか。
共に心を一つとして、この身が死に至ろうとも、
己が発する一語たりとも国を救うことから離れない。
こうあれば、たとえ獄中のまま死を迎えたとしても、
天下後世、必ずや我が志を継ぎ、成し遂げる者が現れるであろう。
これこそ、孔子の門を歩む者の懐く志、そして学問の道といえる。
これ以外の世の中の栄辱窮達、毀誉得喪ごときは些事にしか過ぎない。
天から与えられた命、わざわざ顧みるまでもないこと。
所感)
■学問の道
文字通り、吉田松陰先生の魂の叫びである。
なにを述べれようか。
今日、一日の読書を学問として、努め励みたい。