本文)
第十一章
仁は人の心なり。義は人の路なり。
(仁人心也、義人路也)
是等の語、能々味ふべし。仁は即ち人の心、人の心は即ち仁なり。程子の所謂「満腔子、惻隠心」と云ふ、是なり。
人の心を一々省察せば、仁の外に出づることし。
忠孝、友悌、衆善行の如きは言を待たず。
乃ち不善不正に至りても、其の由りて起こる所は仁に非るなし。
但其の過不及ありて義に合はざるや、遂に不信にも至るなり。
故に人心の根本を尋ね出せば、仁の一字尽せり。義は則ち人の行く所、人の行く所即ち義なり。
君子・小人ともに、日々行く所義に出でざるはなし。
若し義に非れば必ず今日が通用せざる者なり。
講孟箚記 巻の四
意訳)
「仁とは人の心なり、義とは人の路なり」
仁とは、人の不幸を見過ごせないあわれみの心、思いやりの心であり、
義とは、自分の不善を恥じ、不善を憎くむ心、人としての正しい道である。
この言葉、学問を道を志すのであれば、自らの心に深く行き渡らせなければならない。
仁とは、即ち、人の心であり、
心とは、即ち、仁の心である。
宋の程明道が述べた「満腔子、是れ惻隠の心」、
(心至るところ全てに、あわれみの心満ちる)
とは、このことを伝えた。
人の心を、一つ一つ省みて明らかにすれば、仁を根本としないものはない。
忠孝(君子に対する忠誠と、両親に対する誠心の行い。臣下としての義務を尽くすこと)、
友悌(友は弟をかわいがること。悌は兄に従うこと、兄弟の仲がよいこと)、
他、多くの善い行いは言うまでもなく、
不善、不正の行いであっても、仁を根本としないものはない。
ただ、その行いに、過ぎる・及ばずがあり、
義の正しい道から外れ、不仁の行いに至ってしまう。
人のあらゆる心の根本は、「仁」の一文字に尽きる。
義とは、人の行く正しい道であり、
人の行く正しい道とは、即ち、義の外にはない。
また、君子、小人問わず、人の行く道に、義では無いものはない。
もし、義、ではない者がいるとすれば、人の道を外れた獣、畜生の類いの、なにかであろう。
所感)
■自らの学問の浅さ
最近、学問を広げ過ぎるきらいがあり、孟子をはじめ、四書以外の儒学の書も読んでいる。
その中で、宋学以降の「格物致知」の四文字の解釈を巡る争論に、頭の中で付いていくのが苦痛と化した。
もちろん、朱熹にしろ、王陽明にしろ、素晴らしい教えであり、伝習録で王陽明が述べている通り、基本、朱熹も陽明も同じことを述べている、とある。
だが正直、「格物致知」をどう読むのかに拘泥する宋学に、浅学の身ではついていけない。
仮に、朱熹か、王陽明かどちらかを選んだとして、儒学の本質がどれほど異なるのか。
■仁の一字に尽せり
そこで、吉田松陰先生の講孟箚記を紐解くと、再び、心に、孟子の教えが満ち渡る。
同じ日本人であり、時代も近いせいもあるかも知れない。(西暦2021年は、吉田松陰先生没後162年、朱熹没後821年、孟子没後2310年)
吉田松陰先生が講孟箚記の初めに述べられた、
「孟子におもねてはいけない」
との言葉は、学問の道を行く私の常の「ものさし」だ。
この章を読んで、宋学を学ぶストレスが消え去る。
「仁の一字に尽せり」、まさに儒学とはこの通りではないか、と思っている。
今日、一日の読書を学問として、努め励みたい。