四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

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中庸 第一章第一節

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書き下し文)

天の命ずるをこれ性と謂う。

性に率うをこれ道と謂う。

道を脩(修)むるをこれ教と謂う。
道なる者は、須臾も離るべからざるなり。

離るべきは道に非ざるなり。

是の故に君子はそのみざる所に戒慎し、その聞かざる所に恐懼す。

隠れたるより見わるるは莫く、微かなるより頭わるるは莫し。

故に君子はその独を慎しれなり。

 

意訳)

天が命として、人や万物に与えたものを本性という。

その本性のままに進むことを、道という。

その道を修めることを説いたのが、孔子の教えという。

道とは、常にその身にあり、須臾の間も人から離れることはない。

また、離れられるようなものは道ではない。

故に君子は、

自ら見たことのないことには言葉を慎み、

自ら聞いたことのないことには恐れ畏まる。

つまるところ、

隠れたことこそ見つかりやすく、

微(かすか)であることこそ目立つもの。

これ故に君子は、

このように道から外れた独断、独善を慎む。

 

所感)

■学問の道

しばらく中庸の意訳に取り組む。

孟子を繰り返し学び、易経に心弾む今、少し頭を冷やす。

今、易経を学ぶことが楽しくて仕方がない。

しかし、本当に正しく学んでいるのか、正直わからない。

独学の悲しさか、否、これこそ学問の道であろう。

中庸を学び、また易経に戻ろう。

 

■私感

儒学を、孟子を学ぶことは私にとって喜びに近い。

しかし、これ一つを常に学ぶと、やはり疲れが出る。

表現は稚拙ながら、孟子とは「北斗の拳」と似ている。

自らの徳を明らかにし、民を救い、天下に仁政をもたらすとは、「徳」を「拳」と表現を変えれば、ケンシロウの生き方そのものではないか。

しかし、いくら好きだからとはいえ、ひたすら北斗の拳ばかりは観てられない。

そこで、儒学詩経易経がある。

もちろん根っこは同じらしい東洋思想としての括りにある老子荘子もある。

学問の道とは面白い。

 

■中庸

中庸を意訳していて、明らかな違いを感じる。

大学(寒垢離、寒中に冷水を浴びる)の時は、ピリピリとした緊張感に包まれ、一句一語、次の言葉をどう紡ぐべきか頭を抱えた。

中庸は、暖かい。

意訳していて一句一語、心を包まれているような感覚になる。

心のままに、今までの学問の積み重ねのままに、言葉が出てくる。

解釈を間違えようが、意味がズレようが、懐深い中庸は全てを呑み込む。

大きな大きな中庸(天然掛け流し温泉)の中で、しばらく癒やされるとする。

 

今日、一日の読書を学問として、努め励みたい。

#儒学 #中庸