書き下し文)
天道に 流行有り、対待有り。
易に日く、「一陰一陽、これを道と謂う」と。
これは流行をもって言う。
「天の道を立つ、日く陰と陽と」。
これは対待をもって言う。
その実は一なり。
流行とは、一陰一陽、往来已まざるの謂い、対待とは、天地日月山川水火より、あって昼夜の明暗、寒暑の往来に至るまで、みな対有らずということ無し。
これを対待とす。
しかれども対待は、おのずから流行の中に在り。流行の外、又対待有るにあらざるなり。
語孟古儀 天道 二条
意訳)
天道には、互いに移り変わることがあり、対立して固まることもある。
易経にある、
「一陰一陽、これを道と謂う」
(一陰は一陽へと変わり、一陽は一陰へと変わる、これを道という)
とは、互いに移り変わることをいう。
「天の道を立つ、曰く陰と陽と」
(天の道に立つとは、陰と陽にある)
とは、対待(対立)して固まることをいう。
この二つは、一つのことを述べている。
一陰一陽とは、往来がたえず止まることはなく、
対待(対立)とは、天地、日月、山川、水火から昼夜、寒暑の往来に至るまで、皆、対のものがないことはない。
これを対待という。しかしながら対待は、一陰一陽、互いに移り変わる中に常に在る。
また、一陰一陽、互いに移り変わることの外には、対待が在ることはない。
所感)
■学問の積み重ね
基本的に、孟子を解釈した書である限り、自らの学問の積み重ねが、語孟字義の意訳を助けてくれる、と信じたい。
孟子は、孟子なのだ。繰り返し読み続け、意訳を繰り返したのも無駄ではない、と信じたい。
一方、先週試みた、老子の意訳は、どうも具合が良くなく、三回ほど書いたブログを消してしまう。
老子を読み込んでおらず、通読数回で意訳に挑戦した自らの学問の浅さが露呈する。
同時期、同学の諸先輩方が、老子と孔子の根は一つのことを述べていると、tweetされた。
なるほど、と思うのと、老子は手を出さないことに決めた。
第一章の有名な、
「名無きは天地の始め、名有るは万物の母」
この意訳で、「名有るは万物の母」を、
「万物があらわれてきて名が定立された」[岩波文庫版]とは、どう逆立ちしても意訳出来ない。
「母」を、このような意で意訳するとは、未だに及ぶところではない。
今日、一日の読書を学問として、努め励みたい。