四端録

東洋思想に関して。四書を中心に意訳して所感を述べ、三行詩にて日々の出来事、思うことを記しています。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 儒教・儒学へ

語孟字義 天道 三条

f:id:aristotles200:20211002165340j:plain

書き下し文)

何をもってか天地の間、一元気のみと謂うや。

これ空言をあって暁すべからず。

請う譬喩をもってこれを明かさん。

今もし版六片をめって相合わせて匣と作し、密かに蓋をもってその上に加うるときは、すなわちおのずから気有ってその内に盈つ。

気有ってその内に盈つるときは、すなわちおのずから白黴を生ず。すでに白黴を生ずるときは、すなわち又おのずから蛙蝉を生ず。

これ自然の理なり。けだし天地は一大匣なり。

陰陽は匣中の気なり。

万物は白黴・蛙蝉なり。

この気や、従って生ずるところ無く、亦従って来るところ無し。

匣有るときはすなわち気有り、匣無きときはすなわち気無し。

故に知る天地の間は、ただ是れこの一元気のみ。見つべし、理有って後この気を生ずるにあらざること。

いわゆる理とは、かえって是れ気中の条理のみ。それ万物は五行に本づく。

五行は陰陽に本づく。しこうして再びかの陰陽たるゆえんの本を求むるときは、すなわち必ずこれを理に帰せざることあたわず。

これ常識の必ずここに至って意見を生ぜざることあたわざるゆえんにして、しこうして宋儒の無極太極の論有るゆえんなり。

いやしくお前の譬喩をもってこれを見るときは、すなわちその理、彰然として明きらかなること甚だし。

おおよそ宋儒のいわゆる理有って後気有り、およびいまだ天地有らざるの先、畢竟まずこの理有り等の説は、みな臆度の見にして、蛇を画がいて足を添え、頭上に頭を安んず、実に見得る者にあらず。

語孟字義 天道 三条

 

意訳)

なにをもって、天と地の間にあるのは、一つの元となる気のみというのか。

これは、抽象的な言葉で理解すべきではない。

わかりやすく説明する。

今、板を六枚用いて、相合わせして箱をつくり、蓋をする為に上から板を押すとする。

すると、箱の中には気が有り、その内に気が満ちる。やがて、箱には白黴が発生し、幼虫が生まれる。

これが自然の理といえる。

そこで天と地の間を巨大な箱とする。

陰陽は、箱の中の気、万物は白黴幼虫を意味する。

この気は、誰かに従って生ずることはなく、又、従ってよそから来ることはない。

箱ある時は気があり、箱がない時は気がない。

故に、天と地の間は、ただ一つの元なる気のみがある。

見てみるが良い、

朱熹朱子)のいう、理があって、後にこの気が生ずるなどあり得ない。

いわゆる、理とは一つの元なる気の中にある。

万物は五行、木・火・土・金・水の五つの元素に基づく。そして、五行は陰陽を本とする。

ここで、陰陽であることを理由として、気の本を求めようとしても、もはや理には帰ることは出来ない。

もはや常識では語れず、意見も出せないような空白な論理故に、宋儒(朱子学)に無極太極の論有り、といわれることになる。

このように、わかりやすく説明すれば、真の理がどのようなものか、明白となること明らかではないか。

およそ、宋儒(朱子学)の論である、

理があって、後に気があり、天と地も未だない先に理があるとは、

当てずっぽうの論にしか過ぎない。

まるで蛇を描いて脚を加え、頭の上にもう一つ頭を足したような、見れたものではない論といえる。

 

所感)

おそらく、易経からの比喩(?)であろうか、意訳していて、白カビや幼虫の比喩あたりから理が腑に落ちず、ほぼ直訳に徹した。

最後の、蛇の絵を描こうとして脚と頭を二つ描いたとの比喩はよく理解出来た。

仁斎先生、以外とユーモアに溢れる方かも知れない。

Twitterの同学の諸先輩方なら余裕であろうが、

浅学の私では、この章は手に余る。

しばらく、語孟字義は通読に徹したい。

 

今日、一日の読書を学問として、努め励みたい。

#儒学 #孟子 #伊藤仁斎