土曜日の夜、
「二十の頃に購入し三十一年寝かしてようやく聴けるは、ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全集」
「当時は理解出来ず弦楽の暗さ陰鬱さしか耳に届かず嫌になる」
「三十一年を経て心に沁みる弦楽四重奏曲、人生の老いと近づく死を前にして素直に心に響くショスタコー節」
日曜日の午前、
「正法眼蔵難解なり、森羅万象生死ともに空とする」
「自我による認識を迷いとし、諸々の現象に自己の有り様を認識するを悟りとする」
「一昔前に挫折した本ではあるが、学問の道を歩むにあたり改めて読み返している」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%B3%95%E7%9C%BC%E8%94%B5
日曜日の午後、
「基本根暗でインドア派であることは否定出来ぬ」
「数日家に籠もって本ばかり読む時もままある」
「心がずっと本を読むことに苦しむ時もあり、チェスを始めた(何故かまたインドアだ)」
日曜日の午後、
「チェスの腕前はド下手、棋譜を並べたりプロブレムを解くのを好む」
「小説1984のエンディングにある様に勝利ジンを喰らいひたらプロブレムに集中するのだ」
「Sam Loydの作品を好む、もはや芸術といっても過言なし」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/1984%E5%B9%B4_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)
日曜日の午後、
「森を歩み休日を楽しむ、寒いと読書がすすむ」
「新刊はほとんど読まず、古典ばかり繰り返し読んでいる」
「二千年から百年は前の本ばかりなので今の流行とは無縁に等しい」
日曜日の午後、
「友人の間では変り者扱いされているが、私からすれば彼らこそ変だ」
「ところがTwitterでは私を遙かに上回る変り者がゴロゴロしている」
「Twitter上の同学の大先輩や先生などは、もはや尋常ではない(凄まじい読書量と理解力)」
日曜日の午後、
「聖書(旧約・新約)は読まれましたか、の質問に対して、そう読んでいませんとの返答」
「ニヤリ、ようやく勝てたか、と思いつつ、どれくらいですか?」
「通読を五回ほどしかしてませんので、よく理解はしていません、との返答」
日曜日の午後、
「別に彼らは宗教心はなく一般的な読書としての聖書でこれだ」
「私は通読するも、実は旧約は一部読んでおらず、好きなマタイ伝等を繰り返し読むくらい」
「そんな彼らでさえも、この世界ではひよっ子と謙遜されていると伺い、私が井の中の蛙と知る」
日曜日の午後、
「もとより読書は人と競うものではないが、一人部屋に籠もり他の世界を知らないとこうなる」
「井の外を知った蛙としては、楽しくて仕方がない、同学の朋友とはありがたいもの」
日曜日の午後、
「tweetで一つ気を付けていることがある、ありのままであること(故に自由律)」
「プロジェクトのリーダーだろうが役員だろうがTwitterでは関係ない」
「たまに自分を美化したtweetを見かけるが、神経が分からぬ(赤の他人に自慢して楽しいのだろうか)」
月曜日の朝、
「一月も今日で終わり、一日が早く感じるは歳のせいであろうか」
「相対性理論によれば、老いることはそう悪いことでもなさそうだ」
「塵屑から生まれて塵屑に帰る、そもそも最初の塵屑でさえ最初か怪しいらしい(最新の研究によれば)」
月曜日の朝、
「昨日の鎌倉殿は面白く、山川日本史Bの教科書を読み返す」
「おかげで寝不足、まあ禁酒も五勝二敗だし、これでいい」
「歴史は面白い、ブロックの積み重ねを上から観るのも悪くない」
月曜日の朝、
「さあ、仕事モードに切り替えよう、今週は、、、、」
「節々の痛み、上がるおでこ、出るばかりのお腹(子からは加齢臭もと)」
月曜日の夕方、
「空と雲を見ていると、若い時に旅したことを思い出す」
「何処に居ても空は空、雲は雲に違いない(通勤駅のホームでも)」
「モンゴルの草原で見た青い空、万里の長城で見た白い雲、そして年老いた自分」
月曜日の午後、
「心苦しむ人がいる、誰も見えない分からない」
「心苦しむ人がいる、独り苦しみのたうち回る」
「話しを聴くだけ、側にいるだけ、言葉は要らない」
月曜日の夜、
「心苦しむ人よ、大人振るなどいらないこと」
「私が心苦しむ時、友と、知人と、酒を呑み暴れ喚き八つ当たりしつつ一晩中彼らを苦しませる」
「心の苦しみ止むまで、歩く災厄と言われようとも終わることなし(独りで抱えることはない)」
火曜日の朝、
「山川世界史Bにハマって今日も寝不足」
「通史という分野では山川がベストとはよく聞く話し」
「全体視点で過去から現在まで、自在に本の中で彷徨う」
火曜日の朝、
「人が減る朝の通勤、出来るならもっと早く」
「旅行者が変な質問を車掌さんにしている(無理もない)」
「梅田ダンジョンというラスボス的存在感(私は迷うので地上でしか)」
火曜日の夕方、
「友の消息を確認する、皆それぞれに人生を楽しんでいる」
「それぞれの返信にニヤリと笑い、また呑みに行こうと合算する」
「見かけ老人ながら、皆若いつもりらしい」
火曜日の夕方、
「山川教科書、今は日本史から世界史に興味が移る」
「眺めている、パラパラめくる、年表を開き、詳細を調べる、面白い」
「今夜も寝不足か、いやそろそろ限界だ(眠たくなるまでもう一寸)」
水曜日の朝、
「通史ばかり読むせいか、哲学・思想の現実とのギャップに鬱」
「二千五百年前から酷い有り様(今更ながら)」
「今こそ人に忍びざるの心の時代では、改めて学問の道」
❖人に忍びざるの心
「他人が苦しんでいるのを、放ってはおけないという気持ち。出典/孟子、公孫丑章句」
水曜日の朝、
「高校生の時に観た、映画ラストエンペラーを観続けて三十数年」
「何故一つの映画をこれだけ繰り返し観るのか、自分でも分からない」
「最近、易経の世界との近似感に気づく、人の歴史も一陰一陽、繰り返すのだ」
水曜日の夕方、
「今夜は通史を読まない、切りがない、歴史は沼だ(寝不足だ)」
「ショスタコーヴィチも聴かない、終わらない、ショスタコー節も沼」
「風呂に晩飯、易経読んで筋トレしてから寝るとする」
水曜日の夜、
「大好きな金谷治先生の『易の話』、さらっと読むのがもったいない」
「金谷治先生をもってして『易の全体はこれでほぼ説き終えた』とあとがきにあるほどの書」
「今夜は繰り返し読もう、嬉しくて寝てる場合ではない(寝不足など知ったことか)」
木曜日の朝、
「いつものフリカケを取った瞬間暗くなる、不可解な朝」
「疑心暗鬼とは、他人でなく自分自身の暗い心」
「牛鬼が囁く『なにしとるんや』、『鬼殺しの刃を砥いでいるんじゃあ』鬼よ去れ」
https://youtube.com/watch?v=6oJ4ClMLh-0&feature=share
木曜日の朝、
「子の頃父に問う、不合理にムカつくどうすれば」
「父答える、相手にするな気にしては身が持たん」
「そう小人にもいろいろいる、どうしよもない人たちとは関わらないこと」
木曜日の朝、
「親にして貰ったことを思い返せばよい」
「それと比べるに値するものがあるとでも」
「地位、名誉、金、与えてやれば良い、墓まで抱えて右往左往、その後は」
木曜日の夕方、
「少し自爆で悪いクセ、ここはブラックでは無いと改めて」
「気を使うのは自らの為、要らぬ気は使わぬが吉」
「沈思黙考、否、猪突猛進、否、自然体でいこう」
木曜日の午後、
「今日もまた何気ない一日が終わる幸せ」
「何かを諦めて何かを得ることもある」
「何か何かと具体性に欠けるも、具体的でないことに幸せがある時もある」
木曜日の午後、
「動き続ける現実と、止まったままの心の一部」
「目の前を見ず、心が望む歪んだ世界に逃避する人」
「逃げるのは恥ではないが、お返しはより大切なこと」
金曜日の朝、
「易経は難解だなと思うもイコール人も難解だなと思う」
「善有り悪無し、ではなく善有り悪有りを叡智と見做すか優しさか」
「どちらにしろ紀元前から未来まで、歴史を、今をどう感覚するのか」
金曜日の朝、
「そもそも根底から違う、西洋科学の1・0ではなく、易経は一、二」
「日常生活、1・0の価値観で易経を読むと難解どころかほぼムリゲー」
「故に六十四卦は繋がっており、論語に中庸、老荘思想にも繋がっている」
金曜日の朝、
「易占いに興味はないが、あってもいいと最近思う」
「程伊川から朱熹へと繋がる新儒学、理、易経とはなんと難解なこと」
「一番どうしようもないのが、占いのみで易経を解釈すること(空恐ろしい、何処に逝くのだろうか)」
金曜日の午前、
「故に自らの間違いに気づく、四書五経を1・0、現代の視点で解釈している」
「ピンと来なかった老子や漢詩、1・0視点で捉えて理解出来るものか」
「易経は未だ理解していないが、一陰一陽、一・二の視点で学ぶ気づきを得れたことは充分な収穫だ」
金曜日の午後、
「週末だδ、週末だυ、週末だΨ」
「思いっきり読書しよう、楽しみだ」
「狭隘に執念深く陰湿に古本を漁ってはアタリに独り喜ぶ(ウヒヒヒヒ)」
金曜日の夜、
「突き詰めれば、欧米人の人生観がキリスト教的である様に、日本人の人生観は朱子学にある」
「中国宋代に形成された東洋思想的な人間像、朱子学は、令和の日本に於いても生きている」
「日本人のアイデンティティ、朱子学は再評価されるべきではないか(歴史を学ぼう)」
金曜日の夜、
「週末の予定をメニュー(本棚)から決める」
「今夜から日曜日まで、ひたすら近思録を読むとする」
「自宅と会社の往復(現実)を忘れ、本の世界に没入するとしよう(二泊三日のバカンスへ旅立つのだ)」
金曜日の夜、
「繰り返し、繰り返し読み続けている孟子、近思録にて再び出会うは喜び」
「易経を学び、近思録の理解が以前より深まるは必然か」
「仁の広がりは天を覆い深海まで届く、そして天道、天命、近思録道体」
金曜日の夜、
「私の学問の道のベースは孟子なのだ、と改めて思う」
「天才・朱熹の新儒学、階層の深さと巨大な思想の構造体にただ圧倒される」
「近思録巻一道体読了し、巻二論学へと進む」
金曜日の夜、
「私には学問の道の先生がいる(押しかけだが)」
「先生は独学で儒学を学ばれている」
「その有り様は、地獄で念仏を唱えるかの如く、凄まじき学問の道だ」
金曜日の夜、
「先生は今、詩経講義の筆写を毎日五時間、200日を予定して取り組まれている」
「その姿勢、自己に対する厳しさは、古の修行僧の様にすら感じる」
「200日間、生計を立てながら詩経講義のことをずっと考え続けるのだ、常人ではない」
金曜日の夜、
「偉大なる師を持つ弟子(押しかけ)ではあるが、自分が凡人であることは知っている」
「生計を立て家族を養いながら、出来る限りの学問の道を歩むのだ」
「先生は言われた、仁は小さなものではありません、とてつもなく大きくて全てを包み込むものです」
金曜日の夜、
「そう、昨日も今日も、とてつもなく大きくて全てを包み込む、『仁』に身も心も包まれる為、私は学問の道を歩むのだ」
「さあ、近思録に戻ろう、学問の道へ」
土曜日の午後、
「寒風と鳴るお腹、カラスも一羽鳴いている」
「頭の中で音楽が鳴らない、風と息の吐いて吸う音を聴きながら歩く」
「風に流れる枝の音ゴーゴーザワザワ耳もとビュービュー、刹那風が止み響く足音ザッザッザッ」
土曜日の午後、
「家族と氏神様にお詣りに、お賽銭も100円からの時代」
「物価が上がり上がらぬ給料、権力者ごっことマスゴミにはうんざり」
「腰の座った政治家が居らぬ悪いも善いも小物ばかり、何処を向いているのか」
土曜日の午後、
「政治にはお金がかかるから、じゃあ使えば良い」
「小手指の市民感覚を歌うくらいなら、ノブレス・オブリージュを望む」
「大学の学費は高すぎるし、サラ金と同じ奨学金制度はこの国の根本を枯らしている」
所感)
■学問の道
東洋思想、東洋人のバックボーンは中国宋代の朱子学の影響下にある。
戦後、敗戦により欧米人のキリスト教的な考えがこの国に普及したとはいえ、根本は変わらない。
学問の道、儒学を学ぶということは、失われつつある日本人のバックボーンを学び直すことに他ならない。
ただ、私は、古典を妄信しろとは思わない。
吉田松陰先生が述べた通り、善いことは吸収し、時代に沿わないことは、そのままにすれば良い。
古典は知識の宝庫なのだ、もったいないではないか。
後は、各々が学んだことを実践するだけだ。
学問の道とは机上の絵空事ではない、如何に行動したかが問われるもの。
#自由律 #儒学 #日記 #雑記