詩
月曜日の午後、
「子のタンス、復習ドリルを買いコーヒーを飲みにくる」
「ペン回しにハマる子にドクターグリップも買う、最近上手くなった」
「書店で咳ばかりする客、目立ちたいのか、意図がわからない」
月曜日の午後、
「エビチーズドリア、ガチうま、サイゼの3倍の値段、だけの値打ちあり」
「チーズとソースが濃厚、大きな海老がごろごろ、これは美味い!」
「次はビーフシチューも食べてみよう、高くて美味いが当たり前、とは中々いかないのが現実、良かった」
月曜日の午後、
「コーヒーを飲みながら『永久に遊べるパズルレベル2』に挑むも一度も揃わず」
「どうも、永久に解けることはなさそうだが、カバンに入れておくと重宝する」
「本以外、違うところの脳も使うのもたまには良い、この空間も楽しめる」
月曜日の午後、
「食べることが大好きだが、健診の結果が現実を語る」
「そろそろ具体的な対策が必要、晩年の父は糖尿病も患う」
「食べない、くらいの辛いものはない、これまでの人生を否定するような、あゝ悲しい」
月曜日の午後、
「早咲の桜見つける、なんとなく嬉しい、通行する人も撮っている」
「森を一人歩き、心が静まってくる」
「家族で氏神様にお詣りにいった、最近よく行く、神仏に頭を下げるのも良いものだと思う」
月曜日の夕方、
「四連休明けの仕事日が刻一刻と近づく、この歳でもプレッシャーを感じる」
「深呼吸して、心の暗いものを森に放り出す」
「いつも通りに自然体、身体と心、言葉と動作、顔の表情、良し問題なし」
月曜日の夕方、
「要は目の前のものに突っ込むだけ、そう、私は単純だし脳筋なのだ」
「ボタンは押すものだし、扉は開ける、小難しいことはわからない」
「己の仁の心を広げること、一つのことを貫くこと(さあ帰ろう、家へ)」
火曜日の朝、
「春の雨、というより寒し、着込んで出勤する」
「昨夜も論語の写経、遅々として進まないが、遅々が気に入っている」
「一つの句とじっくり向き合う、考える、どうも論語とはこうではないか」
火曜日の朝、
「視る、観る、察る、三つの見る、見る人とは自らも含まれる」
「行いを視る、結果を観る、成し遂げたいことを察る」
「仁の心、一つに徹すること、自らを省みること」
火曜日の朝、
「後頭部に軽い頭痛、神経が鋭敏化、スマホが三度バグる、雨音、周囲の人の声・靴音、動作を過度に認識、心は正常」
「?、再チェック、アルコール・昨日も無し、体調・良し、時間・予定通り、目を閉じ、腰を落とし、深呼吸して再起動中・・・」
火曜日の午後、
「イライラしないこと、他人の目を気にせず、一つを貫くこと」
「馬車馬に様に四方八方働くのは賛成出来ない、ただ猪突猛進あるのみ」
「腹が立ったら横にする、寝るがベストとは金言なり」
火曜日の夕方、
有子(孔子の弟子)はいわれた、
自らの誠の心から生じる信の行いとは、
私利私欲を恥じ入る義の徳に自らが近づいてのち、
初めて言葉に発し、ものごとを為すことが出来る。
火曜日の夕方、
自らの行いに、恭しさと礼を伴えば、
世の中を生きるにあたり恥辱に陥ることから遠ざかる。
一族の関係においても、適切な親しみ、態度を失わければ、宗家はもとより世間一般にも認められる。
水曜日の朝、
「つまらないこと、続くとしんどい、どうにかならぬか…」
「親として出来る限りのことはする、以降は知らない」
「論語を筆写し、読み返し、意訳している、すればするほど学ぶ」
水曜日の朝、
孔子はいわれた、
君子とは、
暴飲暴食を好み求めるようなことはない。
住むところに過度な快適さを求めることはない。
何ごとにおいても速やかにして、自らの言葉に足らず、過ぎずがないように慎む。
水曜日の朝、
道を得た人に学び、得たことをもって自らを正しくする。
このような人を、学問を好む人という。
水曜日の午後、
「これも命か、皿まで食らいのたうち回る」
「深呼吸して心の鬼を内から外に、仁の心をフル回転」
「自らに備わる仁と義の命ずるがままに考え動くこと」
水曜日の午後、
子貢はいう、
貧しくても、世に中に諂い金銭を得ようとすることはなく、
富て地位財産に恵まれても驕ることもないとは如何か。
水曜日の午後、
孔子はいわれた、
まあ良しといえる。
しかし、
貧しくても道、つまり天と心を同じくしてそれを楽しみ、
かたや、
富ても礼、つまり人を尊ぶことを好むには及ばない。
水曜日の午後、
子貢(孔子の弟子)はいう、
詩経に、
『切るが如く、磋るが如く、琢つが如く、磨くが如く』
(♢切磋琢磨の語源)
とあるのは、
この天の心と同じくすることと、
人を尊ぶことを述べているのでは。
水曜日の午後、
孔子はいわれた、
賜(子貢の名)よ、
これからは共に詩経のことを話すとしよう。
汝は道、すなわち天の心と同じくして、その道を往き来する者なり。
木曜日の朝、
「だからどうした、状況は何も変わらない」
「君の為すべきことを成せ、今まで通りに」
「少しプラン変更、目的は同じながらも目標と着地点を現状に合わせよ、さあ最善を尽くせ」
木曜日の午後、
「自らの戦いに躊躇なし、前に進むか全力ダッシュで逃げ出すか」
「子の戦いは見て辛い、助けがプラスにならない自らが成長するしかない」
「思いは潜ませ、見守るのみ(親も親なりにしんどいもの)」
木曜日の午後、
孔子はいわれた、
人が己を評価し褒め称えないことを、自らの患いとしてはいけない。
己が優れた人を知らない、知ろうとしないことを、自らの患いとせよ。
金曜日の朝、
「街中の草木に仏を観て月を仰ぐ」
「月を仰ぎみて再び地球に戻る」
「地球にて駅の改札を通り電車待つ」
金曜日の朝、
「何かの文が頭の中で、朝から引っかかっている」
「素晴らしい論語の解釈で出典が思いつかない」
「よくよく考えれば、禅宗的な解釈であり、正法眼蔵で似たような内容を読んだ記憶もある」
金曜日の朝、
「JRの改札で大声を出している人をみた」
「国立大学を出ていない人は…、を大声で駅員さんに述べている」
「改札を通る人は目線を合わせないようにしていた」
金曜日の午後、
「さて週末、ウオーキングと読書、ゆっくりしよう」
「職場がざわざわしている、人もざわざわしている、家もざわざわ」
「そもそも、ざわざわとは如何なる意味か、単なる擬音、落ち着かない様」
金曜日の午後、
孔子はいわれた、
我、
十五の歳にて、学問の道を志す。
三十の歳にて、自らの学問を完成させる。
四十の歳にて、何ごとにも惑うことがなくなる。
五十の歳にて、天より授かりし我が命を知る。
金曜日の午後、
六十の歳にて、聞くと何ごとも腑に落ちるようになる。
七十の歳にて、心の命ずるがまま行っても天の道から外れることがなくなる。
金曜日の午後、
魯の大夫である孟懿子が、孝とは何か問うた。
孔子はいわれた、
踏み外すことがないように行うこと。
帰路、孔子の弟子である樊遅は馬車を操りながら孔子の言葉を聞く、
今日、孟孫(孟懿子)が我に孝を問うたのでこう答えた、
踏み外すことがないように行うこと。
金曜日の午後、
樊遅は問う、
何ごとも踏み外すことがないように行う、とはどのようなことか。
孔子はいわれた、
父、母が生きている間は、何ごとも礼を以て行う。
父、母が亡くなれば、葬儀は礼を以て行う。
父、母を先祖と共に祭るには、礼を以て行う。
金曜日の夜、
「少し心が疲れた、田舎のNと電話し他愛のない話しをする」
「田舎のNはいう、俺もお前も人間嫌い、当然の結末だ」
「結論、Nの薦めでAmazon Primeルパン三世シーズン6を観ている」
土曜日の午後、
「子とドーントレス(Switch)で遊ぶ、父は銃、子は大剣」
「久方ぶりにするドーントレス、鈍る腕ながらも子からはまあまあと」
「父の腕前は下の上程度ながら、子となんとか楽しめる」
土曜日の午後、
「フォートナイトだと、父は初心者故に子と組むと面白くない」
「フォートナイトでは子は勇者と化し、父を守る」
「最初は嬉しいが、最後までお荷物なのですぐ飽きた」
土曜日の午後、
「桜咲くも雨天の週末、去年も似たような天気だった気がする」
「傘に当たる雨音を聞きながら森を歩いている」
「春休みだ、帰宅したらもう少し子のゲームに付き合うとする」
土曜日の午後、
「ドーントレス(Switch)の銃は楽でいい、ひたすら接近して撃ちまくり、ボムが貯まればドカンのみ(たぶん)」
「他の武器だと、そもそも敵に当たらない、技などとても使えない」
「無料ゲームなので文句はないが、時間はひたすら溶けていく」
日曜日の朝、
「雨あがる、桜みたさに朝の散歩」
「冷たい風と曇り空、大きなカラスが喧嘩している」
「ウグイスの鳴き声をきき、桜をみながら歩いている」
日曜日の朝、
「五十と一回目の桜の季節、有り難い今年も観れた」
「春夏秋冬とはなんと贅沢なこと、日本とはなんと美しいことか」
日曜日の朝、
「書に親しみ、自然の移り変わりを楽しむ」
「世の毀誉褒貶、あくせくする歳でもなし」
「是は是、非は非、桜の花に酒が一杯、満足だ」
日曜日の朝、
「朝マック、冷えた身体にホットコーヒーが染みる」
「今日は何をしようか、家族と桜を見に行こう」
「子が保育園の頃、父子ともにアトピー悪く顔の皮が剥けても二人で花見した、通りいく人のギョッとする顔、あれから十年か…」
日曜日の朝、
孟武伯が孝を問う。
孔子はいわれた、
父、母とは我が子の病を何よりも憂えるもの。
日曜日の朝、
子游が孝を問う。
孔子はいわれた、
近ごろは、父、母を養うことを孝という。
しかし、犬や馬でも我が子を養うではないか。
父、母への、敬うという心なくして何を孝というのか。
日曜日の朝、
「祖父は飲む打つ買うが大好きで若死にしたと聞き及ぶ(大正〜昭和)」
「亡父は酒もタバコも嗜まなかったが博打が好きだった(昭和〜平成)」
「私は酒を好む、他の二つは興味がない(昭和〜)、子ははたして(平成〜)」
日曜日の朝、
「ユキヤナギが満開だ、周囲には花の香りが漂っている」
「春とは良いものだな、と心から思う」
「季節が気になるのは、老いた証かも知れない」
日曜日の朝、
「私の家系は古く、代々神主を生業としていた」
「祖父が次男であったことと、遊び人であった為か、今は本家との縁は途絶えた」
「祖母のお葬式には本家の当主がきていた、私が子供の頃の話しらしい」
日曜日の朝、
「本家から別れた祖父の一族は、祖母のお葬式の時には五十人を越えた」
「五人兄弟の父たちの世代も、それぞれ子をもうける」
「しかし、私の世代では、男系は我が子のみとなる」
日曜日の朝、
「このような考えは、古臭く現代的ではないとはわかっている」
「しかし、ご先祖から連なりを考え、自らの老いを踏まえて、やはり思わざるをえない」
「祖父からの一族、最後の一人である我が子には知っておいてほしい」
日曜日の午前、
「コブシの花が咲いている、森を歩くといつまでも飽きない」
「風が心地よい、天気も晴れた、良い日だ」
「家族連れ、幼子が風に舞うシャボン玉を追いかけている」
日曜日の午後、
子夏(孔子の弟子)が孝を問う。
孔子はいわれた、
顔色を取り繕うだけではいけない。
何ごとかあれば自らが先ず動き、食事であれば酒や料理を先にすすめる。
このような行いが孝といえる
日曜日の午後、
孔子はいわれた、
その人の行いを、視る。
その人の行いの、行う動機を、観る。
その人の行いを視、その行いの行う動機を観、その人の望む目的を、察する。
人とは隠しごとは出来るものではない、とても隠し通せることは出来ない。
日曜日の午後、
「人を見る→視る→観る→察る、人の心の底まで筒抜ける」
「その心に仁があるか、不仁であるか」
「人を見るとは、同じく見られることと相違わぬ、自らを省みることこそ学問の道」
日曜日の午後、
孔子はいわれた、
我、回(顔回)と終日、道を語る。
回、ひたすら話しを聞き、
唯(はい)、
と返事をするのみで、傍からは愚かものにみえる。
日曜日の午後、
ところが、その場をひいてのち、回(顔回)をみれば、
その有り様は、我が語る通りに道に反せず、むしろ悠々と道を楽しんですらいる。
回は愚かではない。
日曜日の午後、
「顔子(顔回)とは、孔子のことが大好きで、孔子になりたかったに違いない」
「孔子の門下、令和の世まで、孔子好きでは顔子に敵う人はいない、そんな人を目指したい」
日曜日の夕方、
「論語を写経し、一句、一行、一文をじっくり意訳する、どうやらこの方法は私に合う」
「だいたい一文、早くて数時間は格闘する、詰まれば一週間はざらだ」
「格闘しているうちに、なんとなく見えてくる、最後に諸橋轍次先生の論語の講義で方向を違えていないか確認する」
所感)
■ウオーキングをして365日目
続かそうと思っては続かない。
ウオーキングが楽しいので続いた。
今日は一年記念に、
心ゆくまで歩いた、ヘトヘトだ。
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